第二話 鹿の妖精オルシナ
テペタ国第二の都市ケープタウンの南、サウスケープ。大陸中から優秀な若者が集められ、一同に教育を受けている。ケープ国立魔法学園。下は6歳、上は22歳までの若者がこの教育機関で一般教養とともに魔法の教育を受けている。この学園に通わせるにはただ国に申請すればよい。それを可能としているのはテペタ国の国力がこの大陸すべてを支配するに及んでいるからだ。無論そこに至るには前途多難な歴史があったわけだが、わずか4年前、つまり前大戦から5年後にこの大陸を1つに統一した現国王の手腕によるところが大きい。彼の来歴についてはいずれまた説明するとして、このケープ国立魔法学園に通う生徒はすでに500人を越えている。魔法に対する魅力以上に、生徒に対する手厚い保護が親の立場からすれば、より価値が高いからだろう。もともとサウスケープの住民でなくとも、学園内には学園寮もあるし、授業以外の時間にも生徒たちに危険がないように先生方の目も行き届いている。それは下の6歳の子も預かっているのだから当然なのかもしれないが。
またこの学園で学べる魔法の種類も非常に多い。一口に魔法と言っても、この世界には数多の、それに類するものがある。というよりも、類するものの総称として魔法と言っているにすぎない。大別して二種類。1つは、誰もが生まれながらにして使える魔法、すなわちマナの力を行使する魔法。学園の定義によると、「初級」「準中級」「中級」「準上級」「上級」「応用級」「発展級」「応用展開級」の8つの階級に分けられている。先に誰もが生まれながらにして使えると言ったが、それは初級レベルのことだ。例えば一度泳ぎ方を覚えれば、忘れない程度のことにすぎない。準中級以降の魔法は学園で1つずつ覚えることが出来る。そしてまた学園によると、各個人が覚えることが出来る魔法の等級は決まっているらしい。
そして大別されるもう一つの魔法は、特別な訓練を必要とする。これにも多くの種類がまた存在する。精霊の力を歌と舞いによって借りる精霊魔法。神(と呼ばれる者)の力を借り、対象との接触を必要とする神聖魔法。高速言語を利用し、通常よりもはるかに細かいリチュアルを行うことで高い威力を起こしうる高速言語魔法。いわゆる魔物と正式に契約を結び、そのものを呼び出す魔法言語魔法。そして、学園でも教えることができない、というよりむしろ未だ解析の進んでいない古代言語魔法。
さて、このように国の補助を受け、親からの支持も厚いケープ国立魔法学園であるが、生徒の立場からは必ずしも最高であるとは言いがたい。現にこうして彼も、この学園から逃亡したところだから。
フィルウィルド・グランス・アッシュフォード。
通称、フィー。空色の髪に空色の瞳。長い髪をバンダナで抑え、後ろでまとめている。まだ幼さも残るややふっくらとした顔つきだが、その左頬には切り傷が走っている。いわく、
「俺は盗賊だっての」
代々盗賊の家庭に育った彼は、15歳まで当然のように盗賊になるものとして家でも訓練を受けていた。にも関わらず、なんだかいい教育機関ができただとかなんとか言われて、無理やりこの学園に入れられたのである。それでも、2年以上在籍し、授業を受けていたわけだか、またいわく、
「これは俺のやりたいことじゃない」
サウスケープを北に迎えばケープタウンがある。そこから東に向かえば王国の首都である王都ティプトアがある。残念ながら王都にはまだ行ったことがない。が、ケープタウンの西にはフィジーがあり、そこはフィルの生まれ故郷だ。できれば北に向かいたくはない。サウスケープから南に向かえば、確かディナストと呼ばれる小さな村がある。そちらを経由してから王都に一度行ってみるのもいいかもしれない。
というわけで、今フィルはサウスケープから南の街道を歩いていた。急ぐ理由もないし、焦る必要もない。学園を逃げ出したことが家にバレたとしたら勘当かもしれないが、すでに自立できる歳だし、フィル自身もそう思っている。だからいざとなればどうとでもなるだろう。
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南へと向かう道を3日ほど進むと、右手に海が迫ってきた。道がやや高いところを走っていることもあり、長く続く海岸線は複雑な形をしている。それでも故郷フィジーを思わせる光景だ。別に、懐かしいとは思わないが。
後方からガタガタという音が聞こえ、道の脇に寄りながらフィルは振り返る。サウスケープとディナストを結ぶ乗合馬車だ。二頭の馬を従え、馬の手綱を握っている男のガタイはよく、そして日に焼けていて黒い。フィルのそばまで来ると、ゆっくりと馬車が止まる。
「おう、あんちゃん、まだがんばってんな」
「当たり前だろ? まだってまだほんのちょっとじゃないか」
「そうだな、道半ばってところだ」
「ならあと3日も歩けばディナストに着くってことだ」
「ここからなら半額で乗せてやるぜ」
「だから、いらないって言ってんだ」
「俺は優しいから言ってやってんだぜ?」
「客が乗ってないからだろ?」
「それもあるがな!」
言って、がははと声を出して笑う。
「けどよ、俺が優しさから言ってるってのは本気だぜ。ここまでは順調かもしれんが、もう少し南側に行くと安全とは断言できねぇ」
「へぇ。何か出るのか?」
「何が出るか分からない。だから危険なんだ」
「何が出るかもわからないのに危険とは方弁だな」
「それは違う。何かに出会って生き残ってるものがいないからだ。そのうち散乱した荷馬車の姿を目にするだろうよ。からくも逃げ出せた奴がいるなら、目撃証言から対策も練れるってもんだが、残念ながらそれさえもできない。だから俺たちのような御者に対してしか注意喚起されてねぇんだ」
「そんな話、サウスケープじゃ聞かなかったな」
「どちらかと言えば、ディナストに近いからな。あちらじゃ、村人だって噂してるさ。被害が広がれば、直に国も動くだろうな」
「その話じゃ、馬車でも安全とは言えないんだろ?」
「まぁ、そうだがな」
またがははと笑う。
「けど、歩いてるよか、生存確率は高いかもな。まぁいいや、次会う時までに考えとけやな」
はいはい、と返事をしながらしっしっと手を振る。御者は悪態をつきながらも、挨拶をして馬車を動かす。ゆっくりとした動きから次第に早くなり、再びガタガタと音を鳴らしながら、南への道をフィルから離れていった。
前方の馬車が作り出す土煙もやがて小さくなり、消えていく。フィルは右手に海を見ながらその道をただ黙々と歩く。サウスケープで手に入れた保存食はまだ十分余裕があるとはいえ、御者の言う「何か」とは何なのか、本当に危険があるのか、分からない。
太陽が海側に傾き始め、フィルがバックパックからテントのキットを出していると、背後から視線を感じる。
バッと振り返るが、誰もいない。
「何だ?」
警戒しながら、辺りを見渡す。西日に照らされて伸びた木の影、海側から吹き上げる風に舞う枯れ草、道からやや離れたところにある茂み、その手前、一匹の鹿。頭を持ち上げて、こちらをじっと見ている。その周辺を確認するが、その一匹しか見当たらない。
フィルは2歩、ゆっくりと近づいてみた。鹿は動く様子がない。ただまっすぐ、こちらを見ている。角が生えていないからメスだろう。フィルは腕を組み、どうしたものかと考えた。こちらを警戒しているのか、それとも仲間とはぐれてしまい、困っているのか。鹿までの距離はまだかなりある。こちらも警戒しながら一歩一歩近づいてみる。鹿との距離が数歩の5メートルほどになると、器用にも顔をこちらに向けたまま鹿が歩き始めた。
「逃げてるわけじゃ、ないな」
ひとりごちる。もし逃げようとするなら、もっと早い段階でできたはずだ。ついて来い、ということだろうか。背後にあった茂みの、僅かな隙間に鹿が入り込む。追うべきか、留まるべきか。
留まるべき、総判断するのが盗賊としての役目だろう。だが、今は一人旅だし、ずっと味気ない道を歩いていて退屈していたこともある。フィルの足は鹿の後を自然と追っていた。
沈もうとしている太陽に照らされて自分の影が鹿を追っている。茂みはそれほど濃いわけじゃないが、太陽が落ちれば深入りするには危険だろう。その境界に立つと、すぐ前にいたはずの鹿が姿を消した。消した、と言う表現が正しい。動体視力には自信がある。もし素早く移動したのだとしても直前の動作にそれを感じさせるものがあるはずだ。そうでなければ、完全な罠だ。
「はい、正解」
背中から声を掛けられ、驚いて振り返る。
誰もいない。代わりに、そこに広がるはずの草原がない。完全に茂みのただ中だ。
「もうちょい、下」
視線を下に落とすと、フィルの腰ほどの大きさの子が立っている。大の字に腰に手を当て、水色の大きな目がフィルを見上げている。ブロンドのふわふわの髪が全身を覆い、その頭に花の飾りがいくつも付いている。その耳は鹿のそれで、顔やその下の体も鹿の毛並みがところどころふさふさとある。
「僕が悪い妖精だったら、君、死んでるよ?」
「……生きてるってことは、善い妖精ってことか」
「悪くない妖精かな」
胸元がふっくらしているが、まるで服のように鹿毛が隠している。
「君きみぃー、いくら僕がセクシーだからっていきなり胸元をチェックするのはマナー違反何じゃないかなぁ?」
「いや、そんなつもりはなかったんだが」
「警戒を怠らないのは丸かな。でも、もっと早い段階で気がつくべきだったんじゃないかな、違う?」
「怪しいことには気がついていた」
「盗賊としてはまだまだだね」
盗賊として?
「いきなり言い当てられて驚いた、という顔をしてるね。グランス家で六人目だと卑下してるのかな? うんうん、そうだよね。それも分からなくもない」
「だから家出した」
「ああ、誤解だよ」
ぴょんとその鹿の妖精は跳ねると、ちょうどフィルの顔のところに止まる。
「僕は君をそんな下に見ていないよ。むしろ逆かな?」
いや、止まって見えただけか。やがて再び鹿の妖精は地面に降りた後、その青い瞳をフィルに向けて大きな笑顔を見せた。
「分かりやすく言うと、君の名がアルマナクに何度も現れるんだ。だから君がどんな人間なのか直接見ておきたくなったんだよ。ああ、君たちの世界では何て呼んでるんだろう。適切な言葉が見つからないけど、歴史、という表現が近いかな」
そのまま足の横をフィルを見上げながら歩く。
「へぇ、言ってることがさっぱり分からないな」
「難しく考えなくていいよ。少なくとも僕は君の味方だから。ううん、君たちの、だな。人間に味方する妖精なんて、悪くない妖精に違いないだろ?」
「鹿の妖精なんて、サイヴくらいしか知らないな」
ぴょんと再び跳ねると、鹿の妖精の表情が変わった。目を見開いている。
「驚いたな。サイヴは僕たちの女王、人間からすると女神に近い存在だろ? あの学園はそんなことまで教えてるのか」
「同族なのね。いやいや、まさか学園で教わったことじゃないよ。家の書庫で読んだ覚えがあっただけさ」
へぇとふぅん、という言葉を繰り返しながら、フィルの周りを跳ねている。
「それで、お嬢ちゃんのことはなんて呼べばいい?」
「はい?」
「味方になってくれるんだろ? 呼び名くらい教えてくれてもいいんじゃないか?」
「そこじゃないよ、今、お嬢ちゃんって言った?」
違うのか、とフィルが尋ねる。
「お姉さまの間違いよ」
「……で、何て呼べばいいんだ?」
「僕はオルシナ。じゃあ、僕も君のことは世間に倣ってフィーと呼ぼうかな」
フィルの前で後ろを向くとオルシナはお尻とそれをわずかに隠している小さな尻尾を振った。
「だけど、味方とはいえ仲間じゃないからね。僕はこう見えて結構人見知りするんだ。今だって心臓がバクバクしてるくらいだし。それに、力があるわけじゃない。フィーの戦いを助けることはできないだろうから、それはまた誰か別の人を見つけてくれよ。僕ができるのは、今こうしてフィーと接触したみたいに、アルマナクから真実を紡ぎだして助言を与えることくらいかな」
オルシナの姿が足元からゆっくりと鹿に戻っていく。
「あれ、もう時間? んー、僕の能力がこれが限界か。それじゃあ最後に一つだけ。逃げるならうんと東がいいよ」
言い終わると同時に完全に鹿に戻った。さらに鹿の足元から、その姿が消えていく。それに連動するように、フィルの周りの風景も元の草原に戻っていく。
辺りが完全に草原になったとき、周りには茂みも、鹿の姿もなかった。




