触れると死ぬ箱【弐】
客間でソファに腰掛けていただき、私は慣れない手つきでお茶を淹れた。どうも、粗茶です。
「ありがとうございます」
言ったものの、手をつけはしない。色の薄さから出がらしだと看破されたのかもしれない。ああ、こういう、建て前でお礼を言うのとか社交辞令だとか、そういう人間の細々とした決め事すべてが厄介だ。すでに私は心的疲労で倒れそうであった。
品だけいじって遊んでいたい。物言わぬ物体だけを相手にその機能美に酔いしれていたい。
そのようなことを思って、まあ、口には出さなかったが、口下手というか話そうとしない私を見て客は内心を見透かしたようだった。彼女は微かに嘲るような疑うような目を向けてきたあと、向こうから話をはじめる。
「申し遅れました。絹谷静子と申します」
あ、どうも。鷂千史です。
「こちらには木島さんの紹介で伺いましたの。でも、その、失礼ながら浅草にこのようなお店があるとは存じませんで。おひとりで経営されているのですか?」
ええ、この店にはいつもひとりです。
「そうでしたか。お手空きの方がいたらぜひお迎えをお願いしたかった次第で……じつは、このお店の場所がわからず。木島さんに訪問の往路の手順をお教えいただいたのです」
お帰りの際は蝉の声が聞こえる方へ向かって歩いてください。
「え?」
いいから。そうしてください。お願いしますよ。
私は念押しした。
この店は浅草から入ることができるが、浅草に『在る』わけではない。迷って妙なところに出られても困るので、先回りしてくぎを刺す。
だがこう言っておいても、人間というやつはどうせ気まぐれや不意の魔が差して、指示に背くのだろうなぁ……と思うと言ったことにどれほどの意味があったのかと気になるところではある。でも忠告はしたのだから、その後どうなろうと知ったことではないというところでもある。どっちでもよかった。
「それで、そのぅ。こちらでは……なんでも、いわくつきのお品を、扱っているとか」
まあ、八割です。
「八割?」
端的な言葉では理解してもらえないのを面倒に思いつつ、私は店内の方を指さした。
八割。店内の品の八割が、いわくつきです。あ、そこのローテーブルも。
私がお茶を置いたローテーブルを示しつつ言うと、絹谷氏はひっと呻いて距離を取ろうとした。ご安心くださいよ店内にある限り危害は加えませんと付け加えるとようやく安心した様子だったが、薄気味悪そうな態度は隠しもしなかった。じつは出してる湯呑みも、これを取り合って三人ほど亡くなっているという著名な陶芸家の作なのだが言わない方がいいだろうか。
「ではこちらで、我が家のいわくつきをお引き取りいただくことは、できるのでしょうか」
その言には心惹かれるものがあった。どのようないわくがあるかにもよるが、基本的にいわくつきになる物というのは人に大事にされたものか、邪険に扱われたもののどちらかである。念が籠っているということだ。
どちらであってもそれは『際立って強い目的』のためにいわくつきとなったことが推察される。ひとつの在り方のみを示す、そういう物にこそ私は心を動かされる。
して、どのような物を差し出そうと言うのですか? 今日それはお持ちで?
「ここにはいま、持ってきていません。というより……、持ち出せないというのが正しいでしょうか」
持って回った言い方に私は閉口する。こういう、察してもらおうとする感じも人間という存在の苦手なところだ。無いならない、持ち出せないなら持ち出せない、話に上がっているのはこういう品である──トントン拍子に話を持っていってほしいものだ。
品が大きい? あるいは重たい?
「いいえ。大きくも重くもありません。ただその品に触れると、死んでしまうのです」
いわくつきの最上級がやってきた。
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絹谷家はもともと紀州藩医の門下で財を成した家柄であるらしい。幕末以降は職を変えて、武士の商法がうまくいった稀有な例であるそうだ。最初は鉱山で工夫として働いた絹谷幸次郎なる男がやがて頭角を現して鉱山の主となり、投資や舶来品の買い付けで財を膨らませていった。いまや小財閥などとあだ名されるほどだという。とはいえ、やり口が強引で敵も多かったようだが。
そんな御家の主・絹谷幸次郎氏が横死したのは先日のこと。ひどく暑い日に、屋敷の蔵の中で亡くなっているのが見つかったという。腑分けによれば死因は、心の臓の病だろうとのこと。
「蔵の中には、日ごろより主人から近づくなと厳命されておりました。それでも遺体には近づかねばならず、私どもも初めて中に入ったのですが……主人を担ごうとした息子たちが口々に、『頭が痛い』と言い始めました」
それでもなんとか遺体を運び出したあと。三人兄弟のうち一人が、程なくして亡くなった。またも心の臓が痛んでのことだ。あくる日の朝、寝起きに急に胸を押さえ苦しみだしたという。
「主人を運んでおりましたのは三人ともです。ただ、命を落とした末の子は、主人の遺体のそばにあった『小箱』に触れていた、ようで」
それが死因になったのではないかと。そう静子夫人は疑っているらしい……ああ面倒くさいな。なぜここまで一息に言い切ってくれないのか。都度都度、「わかりますでしょう?」というようなツラで静子夫人は私を見つめてきたが都度都度さっぱりわからないという顔をしてやったらやっと最後まで話をしてくれた。なんでもかんでも周囲が察してくれると思わないでほしいものだった。
で、その小箱がお二人の死の原因だと?
「はい。そのあと番頭も触れてしまいまして、程なく亡くなりました。やっぱり、心の臓を痛めておりまして」
厄介な案件だ。私はため息をついた。
ともかくも、そういう次第で。『近づくと体調を崩す』『触れると死ぬ』などという珍奇な事象から、だれも蔵に近づかなくなったと。そういうわけですか。
「おっしゃる通りです。鷂さん、このままでは我々は遺産の整理もできません。どうかこの小箱、お引き取りいただくことはかないませんか?」
この場にあるなら別ですが、流れから察するに『取りに来い』でしょう? それはなぁ……面倒だなぁ……と顔に出そうとしたら後ろからピシッと後頭部に当たるものがあった。髪に埋まっていたのは爪楊枝。射角の方を見るとすまし顔で美也子さんがたたずんでいた。仕事しろと無言で仰せだった。
「どうかなさいましたか? 鷂さん。後ろに、なにか?」
いえべつに。お気になさらず。で、まあ……現物を見てみないことにはなんとも言い難いですね。私はお茶を濁した。
「では一緒にいらしてください。そのままお持ち帰りいただければ、なによりですので」
ううん、面倒くさい。ただこの流れから強く断るのもまた面倒くさい。私は承諾して、店を出る準備をした。
静子夫人を客間に置いたまま、店内をぐるり回って必要なものを袂に入れていく。途中、腕組みした美也子さんが立ちふさがった。
なんですかその態度。まさか、依頼だというのに買い付けをするなと言うつもりでは。
「言わないよ。ただ、まじない道具を持っていくなら、店内を調整しないといけないでしょ」
そうですね。お手伝いをお願いしても?
「そのために私が居るようなものでしょ」
……そうですね。お願いします。
私は持っていく道具のいくつかがあった場所が『偏らない』よう、美也子さんに調整を任せた。こういうのは物の機微に敏い彼女の方が得意である。
その後、ステッキを手に取りシャッポをかぶる。絽の羽織に袖を通して、私は出立の準備を終えた。
いってきますよと店内に声をかける。静子夫人は怪訝な顔をしていたが、努めて無視して私は外へ出る。陽が傾いた、影が長く伸びる今時分になってもまだ暑い。
こっちです。私が先導すると静子夫人はますます怪訝な顔になった。
「私はこちらの方角から参ったのですが……」
方角など気にしても仕方ありません。木島氏は『往路の手順』と言ったのでしょう? 復路が異なるからそう言い含めたのです。私は耳をそばだて、歩き出した。
さて、じりじりと微かに聞こえる蝉の声を、辿ることとする。少しずつ鳴き声が大きくなる方へ。少しずつ、というのが重要。
あまり急に大きくなる方向はいけない。騙して呼び寄せようとしているナニカの懐に入り込むことになる。ここは隔理世、人の世ではないのだ。
右へ左へ路地をさまよい、ときにはぐるりと一周して。
追っ手を撒くような私の歩き方に──実際、その意味もある──静子夫人はますます困惑していたが、やがて、栓を抜いたようにワっと喧騒が聞こえてきたことで目を見開いた。
浅草の仲見世。おそらく、彼女のような表の人間からするとよほど見慣れているだろう場所に出る。
と、後ろに風が吹き込んだような、熱のない重みが空を掻いたような感触があった。
ねばついた視線に似た、気配の出現だった。
これを察した静子夫人が振り返ろうとした。私はとっさに両手をバチンと打ち鳴らし、彼女の視線をこちらに向けた。
まだ振り向かないでください。
「え?」
まだ。
まだ。
まだ。
まだ。
……よし。
私は歩き出した。静子夫人は目を白黒させていたが、構わず私は仲見世に滑り込む。
して、絹谷邸はどちらです?
「その、猿若町の向こうです」
では参りましょう。ご案内よろしく、と言って私は先を静子夫人に任せる。前後を交代して殿を務めると、背後に向かってざり、と後ろ足で砂をかけた。呻きが聞こえて、背後の気配は消え去った。
こういうのもあるから、あまり店を出たくないのだった。さっさと帰ろう。そう思いつつ私は静子夫人のあとにつづいた。




