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40話 焚き木

 地下牢でセレドニがバルドスを殺したその少し後の事である。

 リック達が占領したバルドスの個室でも異変は起こっていた。


「こいつらはっ…………!?」

「いきなりなんなのよっ…………!?」


 冒険者達は一丸となって、いきなり現れた大量の襲撃者達を迎え撃っていた。

 体の色は黒に近い紫色をしており、胸から3本目の腕が生えている。足は4本付いており、気色の悪い化け物の姿をしていた。


「…………オブスマンっ!」


 奇妙な襲撃者は神話の怪物オブスマンであった。この神殿都市を訪れて初日、案内してもらった化け物と姿形がほとんど同じだった。

 『神隠し』の騒ぎが終わったと思った途端その化け物は現れ、冒険者、兵士、神殿騎士問わず襲い掛かってきた。


「わらわを追って来たのかっ!?」


 メルセデスは叫んだ。

 彼女は自分が『アルバトロスの盗賊団』に追われていると言っている。その伝承に出てくる『オブスマン』もまた、彼女の敵だった。

 メルセデスは苦々しく歯ぎしりしながらオブスマンに襲い掛かった。彼女の爪が長く伸び、敵を八つ裂きにしていく。いや、八つ裂き以上の細切れになっていった。彼女が爪で付けた傷から崩壊が始まり、敵が崩れ落ちていく。

 メルセデスの爪も何か妙な力を持っていた。


 冒険者と神殿騎士達は協力してオブスマンを迎え撃つ。

 部屋の外にいる人が孤立しないよう部屋の壁を壊し、広い間を取って皆が部屋に入って来れるようにする。数の多いオブスマンに分断されないよう、固まって敵に背中を見せないよう戦っている。


「これって地上も被害を受けてるんじゃねーのかっ……!?」

「そんなこと考えている場合かっ……!まずは自分の心配をしやがれっ…………!」


 次から次へと襲い掛かってくるオブスマンを相手に1体1体斬り刻む。数の利があるんは敵の方だが、1人1人の地力が強いのは冒険者たちの方だ。

 リック達の予想通り、オブスマン1体の実力はB+といったところであり、A級以上がわらわらといる冒険者連合ならなんとか相手になっていた。


 そして、ここにはS級の人間もいる。


「オッケー!魔術の準備、整ったよっ……!」

「…………ッ!」


 フィフィーの大きな声に、皆が口元をゆるめた。

 彼女が小さな杖を振り、彼女の周囲にいくつもの魔法陣が浮かんでいく。


「野郎共……!散れっ……!散れっ…………!魔術に巻き込まれたいかっ…………!?」

「そ、そんなこと言ってもどこに避難すればいいんだよっ……!」


 敵の攻撃を避けながら皆が困惑していた。

 味方が固まっている状況ではフィフィーが魔術を放ちにくい。彼女の威力が十分に発揮できない。

 それでも魔術を発動させてなければいけない。

 皆、魔術の余波が自分に及ぶことも覚悟して、歯を食いしばっていた。


「大丈夫だよっ!」


 自信たっぷりの声と共に、S級の魔術が発動する。


「ちゃんと、|オブスマンだけに通す様に《・・・・・・・・・・・・》、術式を組んだから…………」

「…………えっ?」


 疑問の声が漏れると同時に、フィフィーの杖から黄色い糸が無数に放出された。

 その糸は一瞬にして拡散し部屋の中を……いや、部屋の中だけに留まらず、何処までも何処までも広がっていく。

 皆が見えないところまでその糸は広がっていく。味方である冒険者や神殿騎士の者達にもその黄色い糸は張り付いていた。


「対象はオブスマン。範囲は地上、地下を含めた大神殿の周囲全体…………」


 ここにいる者達には分からなかったが、その黄色い糸は地下全体に広がり、全てのオブスマンに張り付いている。そして地下だけでなく地上にも広がり、大神殿が黄色い糸で覆いつくされた。


「指向性大魔法。狙う者のみを穿て。エイムド・シープ」


 彼女が杖を振ると、黄色い糸を伝って電撃が走った。

 全てのオブスマンに雷魔法が一斉に襲い掛かり、破裂音にも似た轟音が地下全体に響き渡る。オブスマンの数が少ない地上でも激しい音が鳴り響き、周囲の人間たちは雷よりも恐ろしい何かに震えあがった。


「お…………おぉ……?」


 けれど、味方は一切傷ついていない。

 味方の冒険者達は黄色い糸が張り付いただけで、そこに電撃は走っていない。

 オブスマンたちの体は痺れ、ビクビクと震え痙攣しながら床に倒れる。電撃によって体の一部が焦げ付いている。


 戦いが唐突に終わりを迎えた。フィフィーの魔術1つで全てが終わってしまった。


「……フィフィー?…………これは?」

「あちゃー……殺しきれなかったかー…………威力面での改良が必要かなぁ……?」


 皆が唖然としながら彼女を眺める中、フィフィーはオブスマンの1体に近づき、自分の魔術の成果をまじまじと観察していた。


「悪いけど皆、トドメお願い。地下のあちこちで倒れてると思うから面倒なんだけどさ……」

「あ……いや……そのぐらい全然いいのですけど…………」

「今の魔法は…………?」


 あんな魔術、誰も見たことが無かった。


「わたしが開発した魔術だよ。味方を巻き込むことが無いから、結構便利なんだよ」

「………………」


 なんでもないように笑うフィフィーに、皆は口元を歪めて声の出ない苦笑いをするしかなかった。額から汗が垂れ落ちる。


「でも威力はそこまでないね。B級で昏倒させるぐらいだから、S級とかには完全に効かないと思うよ。A級にも嫌がらせにしかならないかも…………」

「……いや……その魔法……もう十分に神器級だと思うのじゃが…………」


 無数のB級を一瞬で沈めておいて、フィフィーはそんな事をのたまっている。メルセデスは唖然とするしかなかった。


 フィフィーの開発する魔術はどれもこれも神器並みの性能を誇っていた。

 魔術の奇跡と言われている神器の力、それと同等の魔術をただの魔術式を用いて創り出すフィフィーは最早人ではなかった。だからこそ『魔術の鬼』という異名を得ていた。


「…………あれが、S級……」

「とんでもねえな…………」


 皆はそれしか言えず、理解を外れた存在に恐怖することしか出来なかった。

 あれだけの攻防が嘘の様に、皆は倒れ伏せているオブスマンに剣を突き立て止めを刺す簡単な作業に入った。伝説の化け物も、S級の鬼の前では形無しである。


 手の空いたリックが部屋の隅で震えているエルドスに近づく。この地下の事業主バルドスの息子であった。


「おい、お前。あの隠し通路はどこに続いている……?」

「ひぃっ……!?」


 リックが彼の胸ぐらを掴み問いただす。

 バルドスの個室であるこの部屋には隠し通路があった。それが何の為にあるのかリック達は知らなかった。

 暗い道が何処までも続いている。


「ないっ……!あれは大したものじゃないんだぁっ……!ただの緊急避難通路だよっ……!」

「緊急避難通路?」

「ここがバレた時の為の逃げ場だったんだよぉっ……!使う前にお前らが物凄い勢いで来るから使えなかったんだよぉっ…………!」

「…………どこに通じている?」

「ポスティス湖の裏の森だよぉっ…………!ポスティス湖の下を通ってるんだよぉ……!この通路はぁっ…………!」


 心の折れているエルドスはぺらぺらと喋った。

 リックは手を離し、エルドスは尻もちをついた。


「緊急避難用通路かぁ。じゃあもう意味ないかもね」

「………………」


 フィフィーは通路を覗き込みながらそう呟く。暗い道がひたすらに続き、先が見えなくなっている。

 オブスマンはもう全て片が付いた。敵はもういない筈である。

 しかし、リックの表情は険しいままだった。


「……いや、必要になるかもしれない…………」

「リック……?」

「この通路からオブスマンは来ていなかった。いざという時の避難経路として使えるかもしれない…………」

「……いざって?」

「………………」


 リックは口を噤み、暗い隠し通路を見つめていた。

 彼自身、何かの根拠がある話ではないようだ。


 そんな中、リック達の元に1人の女性が駆け込んできた。


「はぁっ……!やっと着いたぁっ…………!」

「うん?エリー……?」

「どうしたのじゃ……?」


 リック達の元に一番に駆けつけたのはエリーだった。

 自身の速さを活かして全力で走り、膝に手をつき肩で息をしていた。その必死な様相にリック達は眉根を寄せる。この場にいる皆がドレス姿のエリーに注目する。


「ど、どうしたんだい……?エリー君……?無事なのは喜ばしいけど、あっちの状況はどうなっているんだい……?」

「…………さ……さっきの電撃は?」

「わたしのオリジナル魔術だよ。特に害はないから気にしなくていいよ?」

「そ、そうなんだ…………って、その話をしに来たんじゃないんだよ、僕は…………」


 エリーは白いドレスを汗で湿らしながら、息を整えて言った。


「クラッグを助けて!」

「……え?」

「ボーボスさんがやられたんだっ…………!」

「…………?」


 皆が一様にきょとんとする。まさか、というような顔でエリーを見る。

 ボーボスが負けるはずがない。ここにいる冒険者達はボーボスと何度も仕事をしている。彼の強さはよく知っているところであり、彼が負けるなんてことは普通の常識ではありえなかった。


 皆は密かにエリーの否定の言葉を待っていた。

 しかし、エリーが次に発したのは全く別の言葉だった。


「『領域外』が出たんだっ…………!」

「…………え?」

「…………なんじゃと……?」

「ボーボスさんが一瞬でやられたんだよっ…………!」


 エリーは下の地下牢で起こったことを簡潔に説明した。

 話を聞けば聞くほど、皆の顔が険しく歪んでいく。特にメルセデスの顔色はどんどんと青くなっていった。


「…………領域外なんて……」

「……アルバトロスの盗賊団…………」


 メルセデスはそう呟いた。

 彼女を追っている刺客が遂にここまでやって来た。重苦しい顔でメルセデスは大きく息を呑んだ。苦しさが顔に張り付いている。


「何とかならないかなっ……!?」

「………………」


 リックは顎に手を当て、思案する。


「取り敢えず皆を退避させよう。ボーボスもすぐに連れて来られるんだよね?」

「うん、走りながら止血をしている」

「じゃあ、退避中に合流しよう。メルセデスさんも逃げた方がいいよね?護衛を付けるから逃げて下さい」

「…………ありがたい。お言葉に甘えさせて貰おう」


 敵の狙いは洗脳の神器とメルセデスである。メルセデスは逃がすことになった。


「メルセデス……大丈夫…………?」

「…………ん?」


 メルセデスの横顔を覗き込んだエリーが、彼女に声を掛けた。


「なんじゃ?突然?エリー……?」

「だって……君の顔色、真っ青だよ…………?」

「………………」


 メルセデスの顔色は誰が見ても悪かった。僅かに全身を震わせ、呼吸が少し荒くなっている。


「わはは……大丈夫……大丈夫じゃ…………」

「……本当?」


 メルセデスは力なく笑った。


「…………いつもの事じゃ……」

「…………え?」


 エリーは目をぱちくりさせる。

 いつも愉快なメルセデスらしからぬ事だった。その表情は怯えることに慣れている者の顔であり、怯えることに諦めている者の、なんとも力のない目であった。


 エリーは彼女の顔を暫くじっと眺めていた。


「クリストフさんはボク達と共に地下で『領域外』と戦って下さい。宜しいですか?」

「了解です、リックさん」


 S級相当のクリストフは即座に頷いた。


「…………自分で提案しておいてなんなのですが……いいのですか?命は保証できませんよ?」

「元より神殿騎士とは自らの命を懸けて人と神を守る者。命が惜しくて騎士は名乗れません」

「………………」


 クリストフは堂々とそう答えた。


「…………クリストフさんはさっさと名を上げて偉くなってね?」

「ははは、フィフィーさん。私は男爵の家の生まれなので、偉くなるのは難しいですね」


 そう言って騎士の中の騎士は笑った。


 そしてリックは方針を固め、皆に方針を説明した。

 まずほぼ全員はこの地下から退避して、神殿内にいる人間の避難を誘導する。

 退避する際、地下牢から逃げてくる者達と合流してボーボスを回収する。

 メルセデスは宿に帰り、一刻も早くこの神殿都市から逃げる準備をする。『領域外』の目的はメルセデスであるため、護衛を付けてまず彼女をこの地から逃がす。

 そしてリック、フィフィー、クリストフは地下牢がある下の階に向かい、クラッグの援護をする。


 そういった流れを説明した。


「…………僕は……」

「エリー君は退避組だ」

「…………クラッグの援護に……参加させてくれないかな…………」

「駄目だ。足手纏いだ」

「…………」


 エリーは拳を強く握った。

 彼女は分かっている。自分が何も出来ず、弱いことは分かっている。自覚しているからこそリックの言葉に反論できず、ただただ悔しさが胸の中をひっかいていくだけだった。

 彼女は爪が食い込むほど強く拳を握り、唇を噛んでいた。


「…………クラッグは……敵を殺しておいてやるって言ってたんだ…………」

「………………」

「……でも、そんなのは……無理なんだ……相手はボーボスさんを一瞬で潰したんだ…………

 分かってるんだ…………クラッグは……死んで足止めをするつもりなんだ…………」


 それはその場にいた皆の共通の認識だった。

 殺しといてやるなんてただの強がりで、このまま逃げればクラッグは死ぬ。それを分かっていて、皆はその場を後にした。

 それでもほんの少しの、僅かな奇跡に賭けて、エリーはここまで走ってきた。


「お願い……リックさん……クラッグを助けて…………」

「…………分かったよ……」


 何も出来なかったエリーが取れる唯一の道が、リック達に助けを求めることだった。

 エリーは涙をこらえていた。


「エリーはメルセデスの護衛をお願い。とりあえずどこでもいいから、ここから離れて」

「…………フィフィー?エリー君を護衛役にするのかい?……まぁ、反対意見なんてないけど?」

「メルセデスの護衛が男ばっかりだとむさ苦しいでしょ?」


 フィフィーはエリーを護衛役だと言ったが、詰まる所イリスティナも一緒にこの都市から避難させようとしていたのだった。エリーとイリスティナが同一人物だと知る冒険者はフィフィーしかおらず、このような理由付けをすることで王女様をも怪物から遠ざけようとしていた。


「よろしく頼むぞ、エリー」

「……うん、頑張るよ…………」


 与えられた仕事として仲間と共に逃げることしか、彼女には出来ることが無かった。


「…………ほんとはフィフィーも逃げて欲しいんだけど…………フィフィーもメルセデスさんの護衛に回らない……?」

「なにバカなこと言ってんの、リック。わたしはバリバリ戦えるよ」

「うん……まぁ、そうなんだけどね…………参ったなぁ…………」


 リックはぼりぼりと頭を掻いていた。


「それじゃあ、最後の山場だ。皆、無事を祈る」

「一番無事を祈られるべきはお前だけどな、リック」


 冒険者の1人が軽口を叩いた。小さな笑いがあちこちから漏れる。

 リックは頬をポリポリと掻きながら困ったように笑い、


「それじゃあ、作戦開始」


 静かに令を出した。


 作戦は展開され始める。

 神殿騎士と冒険者の合同軍は乱れながらも列をなし、廊下を走っていく。

 元はバルドスの個室だった部屋は、オブスマンとの戦いを通して壁は壊され扉も壊され、1つの大部屋となっている。廊下と部屋を隔たるものはなにも無く、リック達はその廊下を走っていく皆の姿が良く見えた。


 リック達もすぐにここを出る準備をする。

 そして今まさに廊下の角を曲がろうとする仲間の姿を見送って…………


 ―――その仲間が燃え出した。


「ん?」

「え?」

「……あ?」


 冒険者の1人が急に炎に包まれた。

 丁度廊下の角を曲がりその姿を消そうとしていた瞬間、その人の体に炎が纏わりつき、体を焦がしていく。炎に包まれ体を燃やされ、吹き飛ばされ壁に激突していた。

 余りにも不意な出来事に、すぐ傍にいた神殿騎士の人間も即座に対応できず、角を曲がろうとしてその体が燃え出した。


 すぐ近くの後続が踏鞴(たたら)を踏んだ。

 何が起こっているのか分からないが、とにかく足を止めた。


 足を止めることが敵わなかった仲間の1人が通路の角の先にあるものを見た。

 そして、すぐにこちらの方を振り向き、引き攣った顔で叫んだ。


「戻れっ……!」


 それが彼の遺言となった。

 その一瞬後、彼の体もまた火だるまとなり吹き飛ばされる。魔術の耐性も強く持つ筈のA級冒険者の体が一瞬で焼き焦げて炭化していく。恐らく苦しむ暇もなく即死をしてしまっただろう。


 彼の最期の遺言を聞き、仲間たちは即座に身を翻す。

 角の先に何があったのかは分からない。でも逃げなければいけない。ただ、彼の最期の忠告を無駄にしないために、頭で考える前に足を走らせ、来た道を駆け戻った。


 通路の先から爆炎が巻き起こる。

 最後尾にいた人達が逃げ遅れ、炎に巻き込まれていく。

 断末魔は無かった。断末魔を上げる暇がない程、その体は一瞬で燃え尽きていった。


「……なんなの…………!?」

「…………何が起きているんだ……!?」


 誰も彼も状況が分からず混乱をしている。今起きたことがまだ頭の中で整理つかないでいる。

 ただ、何か恐ろしいまでの危険が迫っている。訳の分からぬままに人を殺す悪夢がすぐそこまで近づいていた。


 そして通路の向こう側から、その何か(・・)が姿を現した。


「………………」

「…………あれは……なに……?」


 思わずエリーは呟きを漏らした。


 それは焦げた人間だった。

 その人間の周りには赤い炎が纏わりついており、今なおその身を燃やし続けている。

 体の全てが炭化しており、全身が真っ黒である。顔など最早存在せず、それが人であることを示しているのはボロボロになった四肢だけであった。

 焼け爛れるその人間は1本の剣を持っている。鉄ではないのか、何故かその人間と同様に剣も焼け爛れ、炭化し黒くなっている。


 体も顔も剣も、その人間の何もかもが燃え続けている。

 炎がその人間の全てを燃やし尽くしている。


「あれは…………」

「……メルセデス…………?」

「あれは駄目じゃ…………あれは駄目じゃあれは駄目じゃあれは駄目じゃあれは駄目じゃっ…………!」


 目が飛び出るのではないか思う程メルセデスの目は大きく見開かれ、病人の様に顔を青ざめる。痙攣するかの如く全身を強く震わせ、歯をがちがちと鳴らす。自分の腕で自分を抱き締めている。

 その炎を見ただけで彼女の全身を恐怖が縛り付けていた。


「何か知っているの!?メルセデスっ!?」

「わ……分からない……知らないっ…………!でも!あれは駄目じゃっ……!あれは駄目じゃっ……!

 …………あれはわらわを狙っとるっ……!」


 恐怖はメルセデスだけではなく全ての人間に襲い掛かっている。

 あれは良くないものだ。あれは良くないものだ。

 全ての人間がそれを察する。それは鍛え抜かれた直観ではなく、全ての生命が持つ本能のようなものだった。


 ただ、その炎の殺意を一心に受けるメルセデスは息が出来ないほどの恐怖に襲われていた。S級並みの実力を持つメルセデスが殺意だけでその心を砕かれそうになっている。


 禍々しい悪意が火を灯し、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 人の焦げる匂いが漂ってくる。


「…………我ハ、『幽炎』……」


 口なき口が声を発した。

 皆の心臓がバクンバクンと強く跳ねている。


「……『叡智』ヲ焚ク炎ナリ…………」


 悪夢の炎が姿を現した。

 夜は未だ明けようとしていなかった。


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