208話 また一人に戻る
ロビンとクラッグは人気のない暗い路地へと戻って来ていた。
夜は未だ深く、空には月が淡く浮かんでいる。
イリス王女の部屋から抜け出した後、二人は王都の端の端の方まで逃れていた。ネズミがかさかさと這いずり回る音しかしない路地裏の中で、クラッグが一息を付く。
「……ここら辺でいいか」
背中のロビンを下ろし、クラッグは獣の形態から人間の姿へと戻る。
「兄ちゃんが狼になれるなんて知らなかったよ、僕」
「言ってないからな」
「むぅ……」
素っ気ない兄の態度に、ロビンが小さく頬を膨らます。
だけどすぐに彼女は彼女なりに、きっと表情を引き締めてクラッグと向き合う。
「兄ちゃん、僕も覚悟を決めたよ」
「…………」
「あのイリスティナ姫が僕たちの最大の敵なんだね。あいつが僕たちの村に酷いことをしたんだね」
「……そうだな」
ロビンが胸の前でぎゅっと握り拳を作る。
「僕、あいつを倒すよ。僕の全てを懸けてでも」
「…………」
彼女の真っ直ぐな瞳から、クラッグは小さく目を逸らした。
「きっとお姫様の立場を利用して、小さな村ではどうしようもないほどたくさんの兵隊さんを使ったんだ。卑怯な奴だ。やっぱり王族の奴らは最低な奴ばっかりだ」
「……そうだな」
「僕はあいつを許さない」
ロビンは兄の言葉を疑わない。
「兄ちゃん、僕は強くなりたい。あいつの権力に負けないくらい。この国の力に負けないくらい強く逞しくなりたい」
「……ロビンは偉いな」
「教えて、兄ちゃん。僕はどうしたらいい? 何をすればいい?」
ロビンの心は熱く燃え上がっている。
それに対してクラッグの目はとても冷たく、何の感情も混ざっていなかった。
「……そうだな」
呟くように小さく口を開き、クラッグは突如行動を開始する。
彼は素早く動き、ロビンの頭を鷲掴みにした。
「なっ……!? がっ!?」
クラッグは彼女の頭を掴んだまま、それを建物の外壁に押し当てる。彼女の後頭部が石造りの壁にぶつかり、静かな夜の中でごつんという鈍い音が響く。
「いだっ……!? なっ、あっ?」
「…………」
ロビンには何が起きたのかよく分からない。
兄がいきなり自分に攻撃を仕掛けてきたこと。兄の動きが速過ぎて理解が追い付かないこと。痛みで頭がくらくらすること。兄がとても冷たい目を自分に向けていること。
何もかも訳が分からなかった。
「に、兄ちゃん……!? な、何すんのっ!?」
「ロビンにはとりあえず、記憶喪失になってもらおうと思ってな」
「きっ、記憶……喪失……!?」
ロビンはじたばたと暴れるが、クラッグには全く抵抗できない。
建物の壁に体を押し付けられながら、足はぶらぶらと宙に浮いている。クラッグの手には万力のような力が込められており、ロビンではどうすることもできない。
「まぁ、落ち着いて聞け、ロビン」
クラッグが淡々とした口調で話し始める。
「お前の中の叡智の王の力は今、荒れに荒れている。ロビンの力ではほぼ制御不能。いつ暴走を始めてもおかしくない状態だ」
「ぼ、暴走っ……?」
「だから、その力に封印を掛ける」
ロビンはアルバトロスの盗賊団から体の中の力を抜かれ、深刻なダメージを負っている。本人にはあまり自覚が無いものの、その状態はとても不安定だった。
だから、クラッグはロビンに封印を掛けようとしていた。
「僕の封印術は記憶を代償とするものだ。ロビンの叡智の力を封印して、心身ともに充実するまでただひたすら時を待つ」
「な……なっ!?」
「その代わり今までの何もかもを忘れてしまうが、まぁ、そっちの方が都合いいだろう。色々とな」
アルバトロスの盗賊団たちは今後もロビンの行方を追うだろう。
その時、彼女自身が記憶喪失である方が逃げ易いとクラッグは考えていた。
「ぼ、僕はどうなるのっ……!? 一体何を忘れてしまうのっ!?」
「質問は無意味だ、ロビン」
クラッグの手が魔力の光で輝き、封印術が発動される。
「なにもかも忘れてしまうのだからな」
「……っぅ!」
ロビンの意識が急速にぐらついていく。
視界がぶれ、朦朧とし始める。エリーの記憶が封印された時と同じように、ロビンもまた眠りの奥底へと落ちようとしていた。
ロビンの髪の色が変化していく。
クラッグと同じ焦げ茶色がどんどんと薄くなり、くすんだ金色になっていく。
体内の魔力の質や量が急激に変化をすると、体そのものにも影響を与えるという事例がある。
ロビンは『叡智の王』の力を封じられ、髪色の色素が抜けたような変化が起こっていた。
頭髪の変化。
ロビンの存在を隠そうとしているクラッグには都合が良いことだった。
「に、にいちゃ……」
「…………」
「ぼ、ぼく、忘れたく……な……」
そこまで言って、彼女の手足から完全に力が抜ける。
意識は完全に闇の中へと落ちていった。
「ふぅ……」
ロビンの体を地面に寝かせ、クラッグは一息つく。
彼の仕事は一区切りを迎えようとしていた。
「…………」
妹の横に座り込み、空を見上げる。
雑多な様子で立ち並んだ建物の隙間から、星の輝く空が見える。
面倒臭い仕事だった。クラッグは妹の頭を撫でながら、そう思う。
ここ最近は本当に色々なことがあった。
ギンという変な男と出会い、別れた。拠点としていた村が滅び、敵が姿を現した。ロビンが攫われ、ギンの妹エリーと出会い、一緒に旅をした。
そして敵を退け、ロビンを奪還した。
決して良い旅ではなかった。
素晴らしいと思えるような出来事ではなかった。
でも、ずっと忘れられないような印象深い時間だったように思える。
「…………」
星を見上げる。
この一連の事件で星となった者達を想う……なんて、クラッグは普段はしないような感慨に耽っていた。
「クラッグ、やっと見つけたよ」
「……リック」
そうやってぼんやりしていると、クラッグに声を掛ける一人の少年が現れた。
リックである。
ロビンが昏睡状態にあった一週間の内に、クラッグは彼を呼び寄せていた。
「良いタイミングで来たな。丁度お前を待っていたところだ」
「クラッグ、ロビン……二人とも無事だった?」
「当たり前だろ、僕を誰だと思っている」
リックが用心深く周囲を警戒しながら、ロビンの傍に近づく。
彼女の体に怪我がないことを確認していた。髪の色が変化していることに驚いたが、顔は紛れもなくロビンそのものである。
彼が見間違えるはずも無い。
そして、視線をクラッグの方へと戻す。
「……クラッグ、君、胸に大きな傷があるようだけど?」
「こんなのかすり傷だ」
「心臓刺されているように見えるんだけどなぁ……?」
けろりとしているクラッグを見て、リックが首を捻る。
彼の常識ではまだ、心臓が破壊されて生きているというのは理解し難いものだった。
「僕なんかよりもロビンのことを心配してやれ」
「ロビンは無事なのかい? 見たところ、外傷は無いようだけど……」
「体の中の力が暴走状態で、今さっき封印術を掛けた。代償にロビンは記憶喪失になった」
「き、記憶喪失……?」
クラッグが簡単に現状を説明する。
王城の底から通じる異界で敵と戦った事。そこで誘拐された人達を解放した事。ロビンに封印術を掛け、記憶喪失にした事。
魔獣ギガの腹の中に収めていた人達を外に出し、地面に並べる。後で来るジャセスの百足の構成員に保護させるつもりだった。
「リック、お前の仕事は一つだ。これからはお前がロビンを守れ」
「え?」
クラッグの言葉にリックがはっとする。
「ボクが?」
「あぁ。ロビンは記憶喪失だ。それを利用してアルバトロスの盗賊団から逃げ続けろ。ロビンは何も分かっていない状態だ。偽名を名乗らせ、新しい人生を歩ませろ」
「…………」
「男っぽい格好も止めさせろ。髪の色も違う。それだけでかなりの隠ぺいになるだろう」
リックの了解を待たず、クラッグは一方的に喋り続ける。
「記憶喪失にした上で、ロビンには偽物の記憶を植え付けてある」
「偽物の記憶?」
「あぁ。イエロークリストファル領の貧民街生まれ。お前とロビンはそこに二人で暮らしていた。後は適当に話を合わせて帳尻合わせろ」
「……分かった」
リックにとってもクラッグの要求は突飛なもので、急なことに困惑していた。
だけど、それが必要なことははっきりと理解できた。
敵はロビンを追っている。だから、彼女に偽物の記憶を植え付けてでも敵から隠し通さなければいけない。
そして、何も分からなくなった彼女を支えるべきなのは自分なのだろうと、リックは使命感を胸に抱き始めていた。
「イエロークリストファル領は貧富の差が大きくて、土地も広い。経歴を詐称するにはうってつけだろう」
「了解。ボクの役割はロビンが疑問を感じないように、彼女を丸め込み続けることだね」
「そうだ」
こうしてロビンは兄と幼馴染から、偽物の人生を用意された。
「ロビンが20歳になる頃……10年後辺りに叡智の王の力が完全に安定するように計画を仕込む。それまでロビンを鍛えておけ」
「完全な安定……?」
「詳しくは……落ち着いたらローエンブランドンを僕のところに呼べ。その時に詳しく話す」
「わ、分かった……」
クラッグは話の内容を詳細には語らない。
だけどリックは頷く。まだまだ下っ端の自分には分からないことなのだろうと、ぐっと息を呑み込みながら彼の言葉に従った。
「クラッグはどうするんだい? 一緒にロビンの傍にいてあげないのかい?」
「僕はしばらく身を隠す。少し回復に専念したい」
「やっぱりダメージ大きいんじゃないか。大丈夫かい?」
「うるさい。敵からのダメージだけじゃない」
敵の団長から受けた心臓へのダメージも大きいが、神水を体内に封じ込めた際の消耗が一際大きかった。
クラッグにも身を休める時間が必要だった。
「身を隠すと言うなら、百足の隠れ里でも紹介しようか?」
「必要ない」
「……そっか」
リックからの提案をクラッグが素っ気なく拒否する。
「…………」
「…………」
会話が途切れ、沈黙が過ぎる。
口下手なクラッグでは会話が長く続かない。リックはそれを分かっていたが、この不安定な状況、わけの分からないことばかりが起きた近頃の中で、この沈黙は何だか重苦しいものだった。
この一連の事件、リックには何が起こったのかまるで理解できていない。
彼はまだまだ組織の下っ端であり、情報が回って来ない。ただ歯がゆい思いをするしかなかった。
「じゃあ、僕はそろそろ行く。そこに転がっている奴らの保護は適当にやっておけ」
「あ……」
クラッグが自分の尻をはたきながら、気怠そうに立ち上がる。
そしてそのままリックに背を向け、この場から立ち去ろうとして……、
「ま、待ってくれ、クラッグ……」
「…………」
そんな彼をリックは呼び止めた。
「……ねぇ、クラッグ」
「どうした?」
「……フィフィーの遺体が、村の跡地で見つかったんだ」
「…………」
絞り出すような声でリックがそう言う。
現実から目を背けるかのように、今まで話題にしなかったことをリックが自ら口にする。その声は分かり易く震えていた。
「……そうみたいだな」
「…………」
「あの年で死ぬには惜しい奴だった」
クラッグはリックに背を向けたまま返事をする。
彼の声は淡々としており、義理の妹が死んだことを悲しんでいるようには聞こえない。
しかしそれでも彼との付き合いが長いリックには、その声色に惜別の念が混ざっていることを確かに感じ取った。
「ボクは敵を許さない」
「…………」
リックも立ち上がり、クラッグの背に向けて覚悟の言葉を放つ。
「村を壊して……フィフィーを殺した敵を絶対に許さない」
「……そうか」
「アルバトロスの盗賊団は、ボクが滅ぼす」
涙が零れた目に炎が宿る。
クラッグは背中越しに、リックの熱意を感じ取っていた。
「……強くなれよ、リック。敵は思った以上に厄介だ」
「分かった」
「じゃあな」
その言葉を最後に二人は別れた。
振り返らず、クラッグはそのまま前へと歩き出す。妹のロビンをリックに預け、一人夜の道を進み続けていく。
彼の姿は遠ざかっていき、すぐにリックからも見えなくなる。
「…………」
クラッグは一人、星明りの下を歩く。
ロビンはもうクラッグのことを覚えていない。
ギンは死んだ。エリーの記憶も消し、彼女もクラッグのことを忘れてしまった。
それでも彼の歩みは止まらない。
悲壮感はない。迷いもない。
彼がやるべきことは、初めから何一つ変わっていないから。
ただ、自分の決めた道を自分の足で歩く。
揺るがない。
誰が死んでも、何が無くなっても。
「…………」
夜は深く、闇は濃い。
それでも恐れる事はない。
守るべき大切な妹も置き去りにして、少年は闇の中を歩き続けていた。
『万力のような』って表現使ったけど、中世風の世界って万力あるのかな?
万力って、現実ではいつから使われ始めたんだろう?




