199話 鳥かご
その日は星の出ていない夜だった。
薄い雲が空全体を覆い、星の光を隠している。
空気は冷たく、風がひゅうと吹き通っていく。月明りもない真っ暗な夜の中、遠くの山の木々が身を震わす音だけが微かに聞こえてくる。
クラッグとエリーの二人は王都のすぐ近くへと辿り着いていた。
「……帰ってきました」
高い城壁を見上げながら、エリーが独り言を呟く。
兄のアルフレードの死から丁度一週間。クラッグとの旅を経て、彼女は自分の住む王都へと帰還を果たしていた。
ここは王都のすぐ外。大きな街を囲う城壁の近くである。
城下町の中には入ろうとせず、中途半端なこの場所で佇んでいた。
エリーは城壁を見上げながら、なんだか妙な感慨を覚えている。
年上であるクラッグにおんぶにだっこの旅であり、この旅で自分は何かを成し遂げた訳ではない。
ロビンが攫われたり兄が殺されたりした日も、何かが出来た訳でもない。
何かの役に立った訳ではなく、色んな人に守られて、ただこの王都へと帰還させて貰っただけだ。
だけど、彼女は自分自身が一回り大きくなったような気がした。
色々なものを見て、色々なものを聞いたこの旅は自分のかけがえの無いものになった。王家の馬車で揺られて移動するだけの帰宅とは、何もかもが違うものだった。
でも、それで満足したくない。
これで満足しちゃいけない。彼女はそう感じていた。
「クラッグさん、改めてお願いがあります」
「…………」
エリーがクラッグに真剣な顔を向ける。
「私をあなたの戦いに参加させてください。何にもお役に立てないのなら、せめてこの体を盾に使って下さい。……その覚悟はあるつもりです」
「…………」
「私も、ロビンの救出に何か役に立ちたいのです」
元々クラッグがエリーと交わした約束は、エリーを王都まで送り返すこと。それだけであった。
自分が王都へと向かうついでに、彼女を王都まで連れていく。
その後の戦いへの参加は認めていなかった。
しかし、エリーは友達の救出のために何か役に立ちたかった。
クラッグは腕を組みながら、彼女の言葉を聞いていた。
エリーが息を呑む。
そして、彼が小さく口を開いた。
「……分かった」
「そこをなんとかっ……! って、あれ?」
クラッグの返事は肯定だった。
拒否されると思っていたエリーはきょとんとする。
「……気が変わった」
「あ、えと……ありがとうございます……?」
「その代わり、僕がお前に要求することはただ一つ」
クラッグが鋭い目付きでエリーのことを見据える。
「この戦いをよく見ておけ。見ること、それがお前の唯一の仕事だ、エリー」
「見ること……?」
「この戦いでお前は砂粒ほどの役にも立たない。盾にすらなりやしない。確実に足手まといになることは分かっている。余計なことはするな」
「うっ……」
酷評を受け、エリーがたじろぐ。
ただ、クラッグは同情から彼女を連れて行くわけでもなかった。
「それでも、お前にこの戦いを見せる価値はあると思う。すぐには役に立たないが、今後のことを考えるとエリーはこの戦いを見ておくべきだと思う」
「……今後のこと?」
「まぁ、修行の一環のようなものだ。見ろ、エリー。ただ見ろ。見て、多くを感じ取れ。それだけでいい」
「見る……」
彼が何を意図しているのかよく分からない。
でも、見る。
その単純なことをこなすために、エリーは大きく頷いた。
「最低でも、王城のどこに異界の入り口があるか、その道筋だけでも覚えておけ」
「は、はいっ……!」
「じゃあ、行くか」
クラッグが首の骨をぽきぽきと鳴らした。
「僕の背中に乗れ、エリー」
「え、背中? は、はい……」
クラッグがエリーの体を背負う。おんぶの形だ。
クラッグの首に腕を回し、彼女は彼に密着した。
「『一心に祈る無力な呪』……」
クラッグが手のひらの皮膚を爪で切る。
血がどろりと垂れ、それが生き物のように蠢き始めた。
大量の血がクラッグの体から溢れ出て、それが彼自身の体に纏わりついていく。背中に背負うエリーごと、彼の血が二人の体を包み込んだ。
「わっ!? わっ……!?」
「安心しろ、エリー。害はない」
自分の体に纏わりついてくる蠢く血にエリーは困惑するものの、クラッグの言葉を聞いてなんとか心を落ち着かせようとする。
二人を包み込む血の塊はどんどんと肥大化していく。
クラッグの体から溢れる血の量は人間一人分の体積を大きく超え、それでもなお彼は血を出し続け、血の塊を大きくしていく。
やがて、膨らみに膨らんだ血の塊は獣の形へと変形していった。
この王都までエリーを乗せて走ってきた狼の姿。それと同じ形である。
しかし、べらぼうに大きい。
体長が20mほど。二本足で立ち上がれば、城壁の高さをゆうに越えることが出来る。
獰猛な顔つき。爪と牙は鋭く、その巨躯から溢れ出る威圧感が夜の闇さえ震えさせる。
千年近く昔の伝説に残る魔獣、ギガ。
伝承で描写されている姿とよく似た巨大な狼が、王都のすぐ近くに突如として現れた。
「…………」
エリーは奇妙な感覚を感じていた。
今も彼女はクラッグの背におんぶされており、獣の姿をした彼の血の中に包み込まれている。
それなのにちっとも息苦しくない。
血という水の中にいても、呼吸はしっかりできていた。
それに、外の様子も見ることができる。
体を纏う血が内側から透けており、薄赤色に染まったかのような世界をエリーは自分の目で眺めていた。
外から見れば、獣の赤い姿はどこも透けていない。
中に存在するクラッグとエリーの姿は全く見えない。
しかし、獣の姿をした血の中からは外の様子がはっきりと見えていた。
今、自分の身の回りで起きたことにエリーが困惑するけれど、彼女はすぐに気付く。
外は自分以上のパニックになっていた。
城壁の上で見張りをしていた兵士たちが大騒ぎをしている。
当然である。とんでもない巨体の赤い化け物が突如として出現したからだ。
報告と防御の用意と攻撃準備に、衛兵たちは慌ただしく走り回る。
クラッグは知らん顔をしていたが、エリーは少し申し訳ない気持ちになった。
「放てーっ!」
城壁の上の衛兵たちが、矢と魔法を放って赤い怪物に攻撃を仕掛ける。
が、化け物は無傷。残念ながら、怪物に一切のダメージは無かった。
「それじゃあ行くぞ、エリー。ちゃんと掴まってろ」
「あ、あまり兵士さん達を殺さないで下さいね……!?」
「……善処しよう」
血の中心にいるクラッグがエリーに向けて話し掛ける。
この血の中にいても会話をすることが出来た。当然、声は外に漏れない。
クラッグが操作する赤い魔獣ギガが動き出した。
魔獣ギガが無造作に片腕を振り回す。
すると、堅固なはずの城壁があっさりと吹き飛ばされた。王都の守りに大きな穴が空く。
衛兵たちは悲鳴を上げながら、その場から退散するしかなかった。
自分が空けた大穴から、魔獣が王都の中に侵入する。
城下町の夜が騒がしくなった。
魔獣が風を切りながら王都の中を駆ける。目指す先は王城だ。
街の至る所で上がる叫び声を完全に無視し、ギガは一目散に王都の中心部へと向かっていた。
当然、邪魔が入る。
王都を守る王国兵士や、この街で活動している冒険者たちがいち早く防御を敷き、赤い獣の足を止めようとする。
怪物が出現してからまだ全然時間は経っていない。それでもすぐに集結した、良く鍛えられた戦士達だった。
防衛の者達は獣に攻撃を放ったり、魔法で防御の壁を作り出したりする。
中にはS級の実力を持つ者もおり、その抵抗は凄まじいものだった。
だが、それすらも無意味。
魔獣ギガはそんな抵抗を意にも介さず、ただ走りゆくだけで全てを薙ぎ払った。
どんな攻撃でも傷一つ付かず、どんな防御でも止められない。
S級の者の攻撃すら、獣には一切通用しなかった。
「ひ、ひぇぇ~~~」
エリーが獣の中にいながら息を呑む。
先程、S級の王国兵士がとんでもなく強力な爆炎を放ってきて、彼女は身を竦めた。彼女の視点だと、その爆炎が自分に向かってくるように見えるからだ。
しかし、その攻撃は魔獣をほんの少しも削り取れていなかった。
その後、走りゆく魔獣に蹴り飛ばされてその兵士は意識を失った。
あの人は王国兵士の中でも十本の指に入る人だったはず……と、その人と面識のあったイリスは戦慄した。
「……ん?」
その辺りで、エリーは気付く。
王城のある方角から奇妙な化け物がわらわらと姿を現してきたからだ。
「……あっ!? あれ、ロビンの村にいた化け物っ!?」
体は黒に近い紫色をしていて、胸から三本目の腕が生えていたりする化け物。
「……オブスマンか」
クラッグが呟く。
「な、なんですか? それ……?」
「オブスマン。まぁざっくり言うと、叡智の力の開発段階で、その力が制御できずに化け物に変貌してしまった哀れな大昔の人間だ」
「え? え……?」
「今はアルバトロスの盗賊団の兵隊と考えていい。長年眠っていたはずだが……誰かがジステガンを解放して目を覚ましたか」
オブスマンの中には背中に羽が生えている種も多く、地から空から魔獣に対して攻撃を仕掛けてきた。
「こ、こいつら何なんですか……!?」
「まぁ、アルバトロスの盗賊団からの刺客だろう。王城の地下のジステガンの入り口から湧き出しているはずだ。何の脅威でもないけど……なっ!」
魔獣が大きな口を開けて、咆哮を放つ。
魔力を乗せた雄叫びの声。それだけで、紫色の化け物はぼとぼとと地に落ちていった。
地から攻撃を仕掛けてくるオブスマンも、魔獣が無造作に踏み潰す。
人間の兵で無いものに容赦は無かった。
異形の怪物ですら、魔獣ギガを全く足止めできなかった。
やがて、魔獣は王城へと辿り着く。
ここだけは絶対に死守せねば、と決死の覚悟を胸にする王国兵士たちも魔獣ギガを止められない。
まるで赤子の手を捻る様に優しく、魔獣ギガにあしらわれる。
命を捨ててでも、という悲壮めいた決意すら馬鹿にするように、死なない程度の手加減された攻撃を喰らって兵士たちは気絶した。
直接王城を囲う城壁が、魔獣の手によってバターを切るみたいに崩されていく。
そして、魔獣ギガが王城の正面に立った。
「…………」
雄叫びも無く、魔獣が王城を破壊し始める。
ここの周囲を破壊しますよ、と宣言するかのように建物の一部を破壊して、魔獣が少し待つ。
その周辺の人間が逃げられる時間ぐらい、ほんの少しだけ待った。
そして、激しく暴れ回る。
腕を振り、牙を立て、王城を破壊していく。
全て、王城の地下深くに眠る『天蓋の世界』の入り口までの道を作るため。そしてその目的に気付かれないようにするため、その周辺を派手に破壊して回った。
もちろん、王国兵士たちが抵抗するけれど、魔獣を止められる者は誰一人としていなかった。
城の中の人間たちの悲鳴が轟く。
貴族や王族の人間が城の中を逃げ惑う。
高貴で崇高な存在とされるこの国の貴族の人間が、泣き叫びながら狼狽えている。
パニックに陥りながら、命からがら王城の外へと這い出てくる。
別に、最初から命なんて狙われていないにも関わらず。
魔獣ギガが暴れ回る。
簡単に容易く、王城を破壊していく。
「…………」
それを見て、イリスの瞳から涙が零れだした。
なんだか、胸から溢れ出す感情が目から涙を溢れ出させていた。
それは悲しみじゃなかった。
言うなればそれは解放だった。固定概念の崩壊だった。
王女である彼女は、自分の存在が最も尊いものだという教えを受けてきた。
自分たちは神の血を引いていて、平民たちとは生物としての格が違う存在。貴ばれ、崇拝されるべき存在だと教えられていた。
王城はその王族の象徴。
神聖で不可侵。我々王族が住処とするに相応しい、神の威光を受けた聖域であるとされていた。
そんな王城がこんなにも容易く破壊されている。
クラッグさんの適当な感じの突進に全く対応できず、手加減さえされながら、成されるがままボロボロになっていく。
これのどこが崇高だ。
これのどこが神聖だ。
今まで信じてきた価値観が打ち崩されていく。
目に見える形でそびえ立っていた尊さとか権威とかが、一匹の魔獣に噛み砕かれていく。
それは価値観からの解放だった。
絶対に強固だと思っていた鳥かごが崩れ、外には知らない世界が広がっている。
自分はどこにだって飛んでいける。
もう鳥かごは壊れてしまった。
打ち壊される王城を見て、イリスの心の中にそんなイメージが浮かんでいた。
なんでか知らないけど、瞳から涙が零れて止まらなかった。
「……見つけた」
クラッグが小さな声で呟く。
彼は王城を掘るように破壊し、地下三階までが露出していた。
その地下三階の何でもない古ぼけた一室。倉庫代わりに使われているその部屋に、クラッグは目的の何かを見つけた。
「エリー、血の獣を解除する。しっかり掴まっていろ」
「は、はいっ……!」
クラッグが血で作った魔獣ギガを解除する。
赤い獣の姿が唐突に消える。今まで猛威を振るい、王城を絶望の底に叩き落としていた怪物が忽然といなくなってしまった。
その場にはクラッグとエリーの姿があったのだが、混乱状態の中で豆粒のような大きさの人間の姿なんて誰も見つけられない。
魔獣ギガを解除すると、クラッグは音も無く素早く走り、目的の一室の中へと姿を消した。
こうして伝説の魔獣ギガの騒動は終わりを迎えた。
何が何だか分からない内に、一般の人間たちはその暴威から解放された。
その日、王都を襲った驚異の事件は迷宮入りという形で幕を下ろすのだった。
ただ、クラッグ達の戦いは当然終わらない。
忍び入った倉庫の中で、クラッグは即座に隠し階段を探り当てる。
何重も何重も隠ぺい魔法が掛けられた道であり、知っていなければ見つけることなんてできやしない。
クラッグとエリーは真っ暗な階段を素早く降りて行った。
「な、なんなんですか!? この地下の空間……!?」
エリーは驚く。
王城は地下三階まで。住み慣れた我が家のことを全部知っているつもりだった。
でもその我が家に知らない謎の地下空間がある。
階段はどこまでも続いている。言うなればもう地下六階、七階の深さすら越している。
「この地下に『天蓋の世界』の入り口がある」
「…………」
クラッグは言う。
この階段を降り切った先に、異界へと通じる魔法陣が備えられているのだった。
「行くぞ、エリー」
「……はいっ!」
エリーは覚悟を決める。
決戦はすぐそこだった。




