165話 ギン
辺り一面が血の海と化している。
暗い洞窟の中、ごつごつとした岩肌の地面の上を血が流れ、岩の窪みに血が溜まる。壁に掛けられた松明の火がその血を赤く淡く、しかし鮮烈に輝かせる。
たくさんの人が死んでいる。
鎧を身に纏った強健な体つきをした男たちが体を斬られ、絶命して床に伏せている。傷口から血が溢れ出し、それがこの場の血の惨状を作り出している。
その中心には焦げ茶色の髪をした少年が片膝を付き、座っている。
クラッグだ。
この場にいる唯一の生き残りである。
クラッグは腕を獣の頭の形に変化させ、その口でとある怪物を食べていた。
『叡智』の力を暴走させてしまった怪物である。
もともと人間であったこの怪物は、力を暴走させて以来、ダンジョンであるこの洞窟と同化してたくさんの人間を喰らってきた。
時にはダンジョンの構造そのものを変化させ、時にはダンジョン内のモンスターに力を与え、ダンジョンに挑む冒険者の命を散らしてきたのである。
クラッグはその叡智の力を回収しに来ていた。
そこで同じ叡智の力の噂を嗅ぎつけてきたバルタニアンの騎士達と出くわし、怪物もろとも皆殺しにした。
今、クラッグはその怪物の死骸を食べて力を回収している。
力が暴走していなければその人を殺さずに力だけを回収することも出来るが、暴走していると殺して力を奪い取る事しか出来ない。
よって、この場に彼以外の生存者はいない。
寧ろ、暴走していてくれた方が相手の命を見限れるから楽であるとすら、この男は考えていた。
「…………」
周囲を見渡す。
この場所は少し特殊な場所である。
洞窟の中であるが、この場所の片側の面が崖となっており、そこから底が見えない程深い深い奈落となっているのである。
床の面自体は広く、10人が一度に戦っても十分な広さがある。
しかし、このダンジョンのボスとなっていた目の前の怪物は図体が大きく、この場で戦えば常に落下の危険が付き纏う事となる。
クラッグはここに来る前に集めた情報を思い出す。
このダンジョンの中には洞窟の岩と同化し、壁の中を移動する怪物がいる、という噂がこの地域の周辺で流れていた。
叡智の力を暴走させた目の前の怪物の事である。
しかし、この怪物がダンジョンの中に居座る前から流れている古い噂話が存在した。
このダンジョンは奈落に通じている。
ダンジョンの最奥は地の底に繋がる大きな穴があり、そこから新たなダンジョンに通じているというのである。
ダンジョンの奥のダンジョン『奈落の迷宮』。
その穴に落ちて帰ってきたものはいない。あれはきっと冥府への入り口なのだ。ダンジョンとは名ばかりで、その先に繋がっているのは地獄なのだ。
そう言った噂が近隣の村で流れていた。
「…………」
叡智の怪物を喰い終わり、クラッグはその奈落を覗き込む。
ただあるのは深い深い闇である。光すら呑み込み、どこまで続いているのか分からないその暗闇から、落ちてきた者は決して逃さないという意志すら感じる。
騎士たちの血が地面を流れ、この崖の断面から底へと零れ落ちていく。
血の水滴が地に落ちる音はしない。落ちて落ちて、そして消えていく。
クラッグは考える。
この底にどんな難易度のダンジョンが待っていようが、自分の実力ならば大丈夫だろう。攻略することが出来るだろう。
しかし、彼のやるべき事はダンジョンの攻略なんかじゃない。
この地の底に何があるのか確認するのも時間の無駄。為すべき事以外の事柄に時間など使わない。
目的は達成した。
そろそろこの場を離れるか。
そんな事を思っていた時の事だった。
「あ、あぁ? なんだぁ、こりゃ……?」
「……ん?」
来た道の方向から、新たな男が1人現れた。
大勢の人間が死亡し、倒れ伏せているこの惨状を見て、目を丸くしながら驚きの表情を顔に張り付けている。
「う、うわぁ……。地獄絵図だな、こりゃ。おっかねー……」
その男は頭をぽりぽり掻きながら、困った様に周りを見渡している。
斬り刻まれた鎧の戦士たちの姿を見て、このダンジョンを支配していた怪物の死骸を見て、深い崖の下に目をやり、そして崖際に立っているクラッグの方を見た。
「…………」
「…………」
この場所に入り込んできた男とクラッグの目が合う。
「…………」
クラッグはその男の事を注視する。
印象的なのは彼の長い髪だ。銀色の髪を腰のあたりまで長く伸ばしている。男性としては珍しい。
端正な顔つきをしている様だが、顔つきは緩く締まりがない。気の抜けた表情を見せている。
その男は白いロングコートを羽織っている。頭を覆うフードも付いているようだが、今はそれを着用せず顔をしっかりと出していた。
歳は16ほど。若いが、妙な貫禄すら感じる。
始めの印象としては、変な男だな、というものだった。
この戦いの痕を見て「おっかねー」と口にはするものの、その雰囲気にどこか余裕がある。
頭をぽりぽりと掻くその姿はどこか滑稽で、気を張り詰める様子は無く、佇まいはどこまでも緩くて、ここが凄惨な戦場の跡であることを感じさせない。
あまつさえ彼は服を少しめくり、腹をぽりぽりと掻きだした。
「あー、えぇっと……、なんだいお前さんは?」
「…………」
その男はクラッグに気安く話し掛けてくる。
クラッグの存在は明らかに異様である。血みどろの戦場の唯一の生き残りで、大量の返り血を浴びて赤く染まっている。
どう見てもこの惨状の下手人だ。
だというのに、その銀髪の男は緊張感があまり見られない。
「おーい? なー? 返事をしてくれー? お前さんの名前はなんだい? どこから来たんだい? ……あぁ! 人に名前を聞く時は自分からだったな。俺の名前はギン! 困ったときの冒険者ギンさんとは俺の事さ!」
「…………」
「……あれー? シカトは辛いぞー? なんか反応をくれー。俺だけ1人で喋ってて悲しくなってきちゃうじゃないかぁ。おーい、少年ー。コミュニケーションを取ろうぜー、コミュニケーションをー」
クラッグは剣を構えた。殺気をその男にぶつける。
「うおっ……!?」
そこでやっと、ギンと名乗るその男が武器を構えた。
「…………」
クラッグは言葉を交わさずギンに襲い掛かる。クラッグの持つ細い剣と、ギンの持つ大剣が火花を散らす。
「うわっと……!?」
「…………」
クラッグの剣に押されてギンが後ろにたたらを踏む。
彼に容赦はない。更に前に出て、とどめを刺す為に剣を振るった。
「と、と、とっ……!」
「……?」
しかし、決まらなかった。ギンは大剣を見事に振るい、クラッグの剣を防いでいく。
これはクラッグにとっては少し予想外であった。彼は領域外の実力を持っている。軽く剣を振るうだけでも普通の人間には堪えることが出来ない。
この数回のやり取りで敵は細切れになっている筈だった。
だが、目の前の銀髪の男は死んでいない。
傷一つ無く、クラッグの攻撃を捌いていく。
「な、なんだ!? てめぇっ!? おい、少年! ちょっとシャレにならない強さじゃねえか……!?」
「…………」
ギンが狼狽えたような声を出すが、まだまだ余裕がある事は理解できる。
クラッグは剣を振るスピードを少し速めた。
「なっ! なっ……! てめぇ、このヤロっ! おいおいおい、殺す気かっ……!」
「…………」
だが、まだ死なない。
もっと剣を速く振り、練り上げる魔力の量を増やす。攻撃の威力を上げる。
「ふぃいいいぃぃぃぃっ……! 怖ぇっ! 少年! お前、あれか!? お前も『叡智』の力を何とかする為にここに来たのか……!?」
「…………」
でも、まだ死なない。
そして彼の言葉から、彼が『叡智』の力を狙っていた事が分かった。
クラッグはもっともっと力を上げた。
「ぐぅっ……!」
「…………」
クラッグの剣がギンの腕を傷つける。やっと攻撃が通った。
それから彼の攻撃はギンの体にいくつもの傷を付けていく。足に、肩に、頬に。深い傷ではないが、いくつもの傷が体に刻まれ、血を垂らしていく。
やっとギンという男の実力の底が見えてきた。
徐々にクラッグの動きに付いていけなくなり、攻撃が通っていく。息を荒くし始め、彼に疲れが見え始める。
「…………」
しかし、気付く。
彼との戦いで徐々に力を上げていって、クラッグ自身も軽く本気を出していた。
クラッグにはまだ若干余裕があるが、手加減という程手を抜いていない。
命の危険を感じる程真剣な戦いではないが、自分が十分に戦闘に集中している事も感じられる。
両者ともあちこちに転がっている死体に足を取られる気配もなく、地面を濡らす血に足を滑らせる気配もない。
「…………」
人の限界を嘲笑うような剣戟が行われる。
複数の剣のぶつかる音が1つに重なって聞こえる程、高速で剣が振るわれる。剣と剣がぶつかる事によって起こる火花が、花火の様にあちこちで咲き誇る。
クラッグは理解する。
目の前の男は十分過ぎる程に領域外の強さに至っている。
お互いがお互いの武器を強く打ち、少し距離が空いた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「…………」
ギンという男はもう肩で息をしている。
それに対して、クラッグは無傷のままだ。
実力の差は明らかとなった。ギンも並外れた実力を有するものの、クラッグには届かないようである。
「……驚いた」
ギンが呟く。
「まさかこんなちっこい少年で、これほどの化け物がいるとは……。俺は俺の実力に自信を持っていたが……俺よりずっと若いのに。いやはや、上には上がいるもんだ……」
「…………」
「名前を教えてくれないか?」
「…………」
クラッグは黙ったままだ。
「ちぇ……」
ギンはつまらなそうに口を尖らす。
そして、剣を上段に構えた。
「……意地でも名乗らせてやる」
「…………」
ギンの大剣が天の方向に切っ先を向ける。
次に放たれるのは全霊を込めた強烈な一撃である。そんな予感をビリビリと感じる程、ギンの発する迫力は洞窟内の空気を震わし、緊張感を高めた。
「…………」
クラッグも身構える。この戦いの中で、一番の集中を必要としていた。
「……いくぞっ!」
ギンが大声を発する。
唐突に始まった戦いは、最後の衝突を迎えようとしていた。




