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9:さよならは別れの言葉ではない

ようやくクライマックス!



 卒業の日、ボンヌ学院は保護者の貴族が詰めかけていっそうきらびやかだった。

 午前中は卒業式。学院長と国王陛下による祝辞と、宰相、各大臣の激励。卒業生代表で王太子のエリックが答辞を述べ、在校生からの感謝の言葉と校歌で締めくくられた。誰もが午後の卒業パーティで気もそぞろだった。


 レナリアの父母は来なかった。旅費がもったいないから来るなとレナリアが言ったからである。代わりに卒業祝いにと、桃色珊瑚のブローチが届いていた。珊瑚のアクセサリーは未婚女性の定番だ。母が持っていたものをリメイクしてくれたのだろう。家族の気づかいを胸に着け、レナリアは卒業証書を受け取った。


 式が終わればパーティだ。レナリアは急いで部屋に戻り、お仕着せにエプロン姿になった。舞踏会場の講堂にはすでにテーブルが並べられ、この日のために雇われた楽団が最終調整に入っている。ちなみに楽団員のほとんどがここの卒業生である。


 食堂の厨房から料理を受け取り、講堂の裏方に持っていく。そこから皿に移し代えて会場に並べた。今日で成人とあってアルコールも用意されている。


 メインとなるエリックとアイリーンなどのダンス組は今頃着替えているのだろう。レナリアは一抹の不安を感じながらもテーブルに花を飾った。


「ねえ、なんだか人が少なくない?」


 料理を運びに講堂に行っていたバイトの子が、戻ってくるなり疑問を口にした。

 アルバイトのお仕着せは、それぞれの自前だ。汚れてもいいがボロすぎても良くないのでエプロンは必須である。晴れの日ということもあってフリルやレースでこだわりを見せていた。


「保護者と挨拶してるんじゃないの?」


 卒業パーティでは生徒は講堂、保護者は先程まで式が行われていた式会館に分かれている。上位貴族もいる場で羽目を外せないだろうという学院なりの配慮だ。


「それが、保護者も少ないのよ……。国王陛下も宰相閣下もいるのに、おかしくない?」


 レナリアは同じ給仕係の子と顔を見合わせた。彼女も卒業生、クラスメイトだ。


 たしかにおかしい。


 国王が子だくさんのおかげで毎年一人は王族が在籍しているが、どの貴族も王、ひいては宰相に顔を覚えてもらおうとパーティに参加してきた。上手く取り入って引き立ててもらうためだ。


「式の保護者席は埋まってたよね。今年はなにか変更あったとか?」


 エリックからなにも聞いていない。レナリアは首を振った。プロムナードは学生主体で行うので、裏方に通知していないのはあきらかにおかしい。


「ねえ、大変! アイリーン様がいないって!」


 そこにまたバイトが飛び込んできた。全員の目がレナリアを射抜く。


 レナリアがエリックの浮気相手だったことは全員が知っている。が、あのアホの子ぶりっ子に「ねーわ」と誰もが思っていた。前の浮気相手のこともあり、エリックにも事情があるのだろうと察している。


 しかし、アイリーンがエリックの浮気癖に嫌気がさし、しまいにはアレと比べられるなんてとキレてしまったのではないだろうか。もしそうならアイリーンがあまりにも気の毒である。レナリアを見る目に責める色が滲んだ。


「アイリーン様がいないって……」

「シクルシス伯爵家の馬車もないのよ。卒業式が終わって帰っちゃったみたい!」

「あ……あ……」


 レナリアはすうっと血の気が引くのを感じた。怒りで。


「あのアマぁ……!」


 突然叫んだレナリアに、胡乱な目を向けていた者たちがびくっとした。


「税金でドレスとアクセサリー贈られといてすっぽかすとはいい度胸じゃねえか! せめて返せよ!!」

「そこっ!?」


 そう、レナリアの怒りはアイリーンがパーティにいないことではなく、エリックからの贈り物を受け取っておいて返さないところに向けられていた。


 エリックが支払った金は婚約者との交際費、つまり税金である。

 その気がないのなら受け取り拒否して、エリックに止めるよう言っておくべきだった。


 アイリーンがドレスを受け取ってくれたと嬉しそうに笑ったエリックを思い出す。彼女のためにとレナリアも手を貸したのだ。エリックは今頃、彼が贈ったドレスを着たアイリーンと踊るのを、胸ときめかせて待っているだろう。


「レナリア!」

「マルティン様! 殿下は……?」


 マルティンがレナリアを呼びに駆けつけてきた。タキシードの裾が虚しくはためく。


「アイリーン様とシクルシス伯爵がいないことに気づいて……。頼むレナリア、なんとかしてくれ」

「国王陛下と宰相閣下はなにしてるんです」

「情報収集に人を走らせた」


 国王と宰相がうろたえては示しがつかない。配下にやらせてなんとか処理するつもりなのだろう。


 マルティンに引っ張られて走りながら、レナリアは考えた。


 アイリーンだけでも問題だが、他の生徒までいなくなっているとなるとずいぶん用意周到だ。おそらくはずっと以前から計画していたに違いない。最高の形でエリックに逆襲する気だ。


 国王はともかく宰相を出し抜くとなるとシクルシス伯爵家だけではなくドゥーシャス公爵家が絡んでいると考えたほうがいいだろう。シクルシス、ドゥーシャスのどちらもこの学院の卒業生だ。卒業のこの日に国中の貴族が集まることを知っている。今日でなければならなかったのだ。


「殿下!!」


 ダンスホールに着くと、エリックの周囲を着飾った生徒たちが囲んでいた。慰めの言葉もかけられないのか、少し遠巻きに、円になっている。

 レナリアの呼びかけに彼らが道を開けた。


「殿下」

「……レナリア。はは、私はここまでアイリーンに憎まれていたらしい……」


 当たり前だろ、と言う者はいなかった。どれだけアイリーンにつれなくされても、エリックが浮気相手を侍らせても、結局結婚するのだろうと思っていた者しかここにはいないのだ。


 レナリアはつかつかとエリックに歩み寄ると、すっと手をあげ、


「っ!?」


 渾身の力でエリックの頬をびんたした。

 問答無用で処刑の暴挙である。生徒たちが悲鳴をあげた。


「なぁにうじうじカッコつけて笑ってるんです!? 無理してキノコ生やしたって食えねーんだよ! カビ臭い!」

「レ、レナリア……」


 彼女に助けを求めてしまったマルティンは生気を失いそうな顔をしている。


「ここまでバカにされて悔しくないんですか! 私は悔しい! 殿下、行きますよ!!」


 父親にも叩かれたことのない頬を押さえたエリックは、レナリアの怒りに目が覚めたようだ。


「行くって、どこに……」

「カチコミですわ! 殴り込みですわ! 襲撃ですわ! 殿方に恥をかかせてはならぬ、と私は母に教わりました。アイリーン様のなさりようは淑女失格です!」


 人は自分以上に怒っている人を見ると逆に冷静になる。エリックもそうだった。先程までの、自業自得、報いが来たのだと、生きる価値さえないと思う絶望が晴れ、考えが回るようになっている。


「……ジュリアス、アイリーンはどこにいると思う?」

「おそらくシクルシス伯爵邸です。ひそかにパーティの準備をしている、と聞き及んでおります。……てっきりアイリーン様の輿入れ前のものかと思っていたのですが……。申し訳ありません」

「よい。まさか王家主催の卒業パーティにぶつけてくるとは誰も思わん」


 パーティの準備をしていたということは、昨日今日の思い付きで、あるいは思い余って突発的に帰ったわけではなさそうだ。むしろそうであればエリックの非道を国中に知らしめることになっただろう。


「クロード」

「はい」

「ヴィクトールに、保護者の皆様の『安全を確保』するように伝えろ」

「……は、はいっ」


 一瞬呆けたクロードだったが、エリックの考えがわかると泣きそうな顔で破顔した。クロードの父ヴィクトールは保護者として卒業式に来ていたが、国王と宰相を警護するため近衛騎士団を引き連れてきている。騎士団が国王と宰相を護るのは当然のこと。邪魔をさせるな、という命令だった。


「シュテファンとマルティンは馬車の用意をさせろ。私だけではないぞ? ここにいる、全員のだ」

「はい。……え?」

「全員?」


 思いがけない言葉に目を丸くしたのはシュテファンとマルティンだけではない。この場にいるレナリアを除く全員がエリックを見た。裏口から成り行きを窺っていたバイトもいる。


 彼らの前で、エリックはこれぞ王太子とばかりに声を張り上げた。


「生徒全員に告ぐ!!」


 生徒たちの背筋が伸び、瞳が期待に輝いた。

 ついさっきまで婚約者にすっぽかされてベソかいていたエリックだが、やはりこの人はこの国の王太子殿下なのだ。エリックがこの事態にどう対処するのか、誰もがわくわくして言葉を待った。


 これほどまでに期待されたことなど未だかつてなかったエリックの気分が急上昇する。人はこれをやけくそをいうが、今の彼に必要なのはまさにその場の勢いだった。


「シクルシス伯爵が我らのために卒業パーティを用意してくださったようだ。これに欠席しては礼を欠く。ありがたく、楽しませてもらおうではないか!」


 一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声があがった。


 シクルシス伯爵の情報統制は徹底していた。良識派、ドゥーシャス公爵家とシクルシス伯爵家にふさわしからずと爪弾きにされた者たちは、この時になってようやく事態を知って蒼ざめたのだ。


 彼らが何をするつもりなのかの予想はついたが、自分のいないところで国の大事を左右しようとしているのは看過できない。なにより王太子に正面切って喧嘩を売ってくれたのだ、明白な反抗である。エリックはそれに、真っ向勝負しようとしている。


 こんな『祭り』に参加しないなど、血の気の多い若者にはありえなかった。


 たとえどうなるにせよ、エリックは王太子だ。その王太子殿下が国王と宰相を差し置いて自ら乗り込むというのならついていくまでのこと。どんなに頼りなくても、馬鹿だと呆れることばかりでも、女一人振り向かせることもできない腰抜けでも。


 置いて行かれたのはエリックだけではなく、自分たちもだ。この場にいる生徒たちは一気に結束した。


 先陣を切って颯爽と馬車に向かうエリックに、生徒たちが続いた。


「レナリア、私たちどうする?」

「この服じゃ行っても踊れないものね。ワインと料理持って行こうよ。この人数追加じゃたぶん足りなくなるよ」

「そうだね。もったいないもん」


 楽団は宰相をごまかす時間稼ぎに、音楽を奏でてもらうことになった。残念そうな顔をしながら指揮者がタクトを構え、エリックたちに激励を送っている。


「料理詰める箱あるか?」

「冷めちゃうけど残すよりいいよね」


 口々に言いながら給仕係がどんどん料理を箱に詰めていく。コルクを開けていないワインを数本持って馬車に走っていく者もいた。お行儀のよい貴族だけあって、つまみ食いする者はいないようだ。


「レナリア、済まないがドレスに着替えてくれ」

「ええ? ドレスなんて……」


 ジュリアスがレナリアを連れにやって来た。手にドレスが入った箱を持っている。

 まさか、と目を見開いたレナリアに、してやったり、と笑った。


「用意してある」

「ええ……いつサイズ測ったんです? やだ、引く……」


 両手で我が身を守るように抱きしめ、レナリアはジュリアスから距離をとる。

 ついにジュリアスのこめかみが引き攣った。


「そういうのは! 後にしろ!」


 渾身の力でびたん、とドレスの箱を投げつけると、レナリアを指差した。


「レナリア・スティビー子爵令嬢を着替えさせろ! 少なくとも、殿下の隣に立てるくらいには見られるようにしておけ!」

「はいっ」

「お任せくださいっ」


 迫力に呑まれた裏方バイトが、レナリアに襲いかかった。


 ◇


 シクルシス伯爵の屋敷では、ようやく復活したセイリオス・ドゥーシャスが愛するアイリーンを連れて彼女の卒業を祝っていた。


 居並ぶ貴族たちは、この三年間彼と共に苦渋を飲んだ者ばかりだ。全員が、今日のこの日を待っていた。


「あの殿下は来るかな?」

「来るでしょう。わたくしがいないんですもの、王家の威信にかけても探していますわ」


 仲睦まじく囁きあう姿は恋人同士のそれだ。アイリーンはようやく取り戻したセイリオスを黒い瞳に映し、感激に涙ぐんでいた。


 長かった。三年間、セイリオスと会うこともできず、消息を手紙とアルカイド、メグレスから聞くばかりだった。直接触れあえないことがこんなにも辛いとは思わなかった。彼の声さえ忘れそうな日々は、アイリーンにとって恐怖と焦燥に苛まれるものだった。


 彼女をさらに追い詰めたのはエリックだ。無理矢理婚約を結ばされ、会えば心無い言葉ばかりを投げつけられた。学院に入学してからは浮気を繰り返し、男の身勝手な部分をこれでもかと目の当たりにさせられたのだ。セイリオスは違うと思っても、会えずにいる間に綺麗な女性が彼のそばにいるのではないか、という不安は常につきまとっていた。


 本当にセイリオスは生きているのか。わたくしを妻にしてくれるのか。悪夢を見るほど苦しんだ。


 それが、今日、報われる。


 シクルシス伯爵家の卒業パーティに集まったのは良識派の貴族だ。生徒たちには知らせなかったので混乱しているようだが、あのエリックのやり方を見て付いていきたいと思う貴族は居るまい。彼らと共に、新しい道を歩んでいくのだ。


「念のため、殿下がいらしたら通すように言ってありますわ」

「私の女神。あんな男には髪の一筋も触れさせない」

「セイリオス様……。いいえ、殿下にはわたくしがきっちり対処いたします」


 うっとりと見つめ合う二人の耳に、外からの喧騒が聞こえてきた。すかさずアルカイドとメグレスが両脇に控える。


 そこに執事が素早く、礼を逸脱しない程度に走ってきた。


「お嬢様、セイリオス様! 殿下が……」


 なぜか困惑している執事にアイリーンは微笑んだ。


「いいのよ。お通ししてちょうだい」

「い、いえ。それが殿下だけではなく……」

「かまわない。通せ」


 なにやら慌てているが、どうせレナリアと側近たちがついてきたのだろう。セイリオスが合図を送るより早く、ダンスホールのドアが荒々しく開かれた。


「えっ?」

「な……っ!?」


 雪崩れ込むように入ってきたのは予想通りエリックとレナリア、側近たち――だけではなく、切り捨てたはずの生徒たちだった。


 ジュリアスから贈られたドレスで着飾ったレナリアは、怯える子兎のように彼の腕にしがみついていたが、アイリーンとセイリオスを見てぎゅっと眉を寄せた。


「アイリーン様……! 殿下という婚約者がいながら浮気したんですか!?」

「は?」


 レナリアのレナリアによる、レナリアのための渾身のアホの子ぶりっ子ヒロイン劇場、開幕である。


「そんなの、そんなの酷いですぅ……。アイリーン様だって、本当は殿下のお気持ちを知っていたんでしょう!?」

「どうしてそんなことを思うのかしら」

「だって、レナリアのこと、調べに来たじゃないですかぁ……。ご友人に探らせて、レナリアがアルバイトで浮気相手を引き受けたって、知っていたはずです」

「…………」


 ジュリエッタたちの広めたあて馬話はアイリーンも聞いていた。ずいぶん稚拙なやり方だと笑ったものだったが、それをこうして非難されると男心を弄んだように聞こえてくる。


 それだけではない。アホの子ぶりっ子のレナリアに、どうしてあんな女がとエリックに本気になった浮気相手の子が突っかかったことがあった。レナリアは彼女たちがエリックにフラれた理由に納得していなかったことを知り、エリックは本当にアイリーンが好きなこと、そのために飽きもせず浮気して見せつけ、アイリーンの関心を得ようとしていることを教えたのだ。結局浮気相手はそんなエリックに呆れて恋心を萎ませた。一時でも王太子の浮気相手に選ばれたことで、側近の分家筋の令嬢としてある程度の保証はされている。エリックの持つ金と顔に惑わされたに過ぎないことを悟ったらしかった。


 エリックの恋心を知りながら、友人たちと嗤って眺めていた。そう言われても反論できなかった。


「セイリオス・ドゥーシャス。やはり生きていたか」

「ええ。あなたの側近に殺されかけましたが、私の女神を置いて死ぬわけにはいきません」


 エリックはエリックで宿敵と対峙していた。


 レナリアの登場に一瞬怯んだセイリオスだったが、エリックが出てきたことで気を取り直した。軽蔑を込めた眼差しで側近たちを見やり、ふんと鼻で笑う。クロードが気まずそうにうつむき、良識派の貴族がいっせいに非難の目でエリックたちを睨みつける。


「部下の不始末は主たる私の不始末だ。そこは謝罪しよう。だが、生きていたのならなぜ出てこなかった?」

「そぉですぅ。セイリオス様がいながら殿下と婚約なんて、二股ですよぉ」


 セイリオスとアイリーンが殺気を帯びた。


「みすみす殺されるために出てこいと? おかしなことをおっしゃいますな」

「わたくしが望んだ婚約ではなかったわ。王命だったのよ!」


 責めるエリックとレナリアに、よくそんなことが言えると反論する。元はといえばエリックのせいではないか。


 アイリーンはこの期に及んでレナリアがエリックの味方をするのが予想外だった。恋人と引き裂かれる苦しみを知らずに、なぜすべての元凶を庇うのか。どこかで理解者になってくれると期待していただけに裏切られた気分だ。


 こてん、とレナリアは首をかしげた。小鳥のような愛らしい少女であれば可愛らしくもあざとい仕草も、レナリアがやるとひたすら滑稽である。


「でもぉ、アイリーン様嫌がってなかったじゃないですかぁ」

「な……っ!?」

「殿下のお気持ちを弄んで、その上こんな舞台まで用意するなんて、最低です……!」

「あ、あなたなにを見ていたの!? わたくしは殿下に微笑んだこともないのよ!?」


 アイリーンは学院内で終始無表情だった。エリックを見る目は道端のごみでも眺めている目をしていたものである。


「王命だって言って、アイリーン様からはっきり殿下にお断りしたことはないんですよね? 笑わない美女なんて傾国の定番、作戦だと思ってました」


 さわ……と動揺が静かに広がった。


 言われてみれば、アイリーンが面と向かってエリックを拒絶したことはない。いつも無表情か、たまに眉を顰める程度の変化しかなかったから、アイリーンはエリックとの婚約を嫌がっていると周囲が勝手に察しただけだ。


 婚約を解消するよう言っていたのはいつも父親のシクルシス伯爵で、アイリーンではない。アイリーンがはっきりエリックに断っていたら、もしかしたら素直に解消してくれたのかもしれない。


笑わない美女を演じてエリックの心を摑み、王妃になるつもりだった。作戦だったと言われて否定しても、ばれたからと思われてしまうだけだ。


 レナリアに追い詰められている現実に、アイリーンが息を飲んだ。


「殿下の想いを利用しながらセイリオス様とも通じて、二人で笑い者にしようというのでしょう? そんなのあんまりですぅ……。殿下が可哀想」


 レナリアはおおげさに身を震わせ、エリックの腕に額を押し付けた。

 愛する女神を浮気女呼ばわりされたセイリオスが怒りに顔を赤くする。


「アイリーンを責めているが、女! お前こそ殿下の浮気相手ではないか!」

「そんなっ。レナリア、レナリアはただ、殿下やみなさまに笑顔になってほしかっただけです!」


 たしかにレナリアはみんなを笑顔にした。嘘は言っていない。


「ぐふっ」


 ジュリアスが思わずといった具合に吹き出し、口を押さえた。マルティンたちも肩を震わせる。思い出したのか、生徒たちもちいさく吹き出し、ジュリエッタなど腹を抱えて耐えている。


「セイリオス、レナリアを悪く言うな。彼女は私の良き友人だ」

「殿下ぁ……」


 疑惑と笑いがほどよく広がったところで、レナリアがエリックに合図した。

 ここへくる道中、なにをするべきかエリックと話し合っている。


 アイリーンはなにがあってもエリックと結婚することはない。卒業パーティをすっぽかされた時点でエリックもさすがに気づいていた。

 ならばせめて、アイリーンのために、エリックにしかできない贈り物をしてやろう。一生一度、とびっきりのサプライズプレゼントだ。


 エリックは一度目を閉じ、それから自分を憎しみの目で見ているアイリーンを赤い瞳に映した。

 大好きだった少女。明るい笑顔を向けて欲しかった。間違ってばかりで、傷つけてばかりで、それでも一度として涙を見せることはなかった。エリックのせいで傷つくことなどないという、アイリーンの意思表示だ。


 こんなことでしか君への愛を伝えられなくて、すまない。


「アイリーン・シクルシス伯爵令嬢! 学院の卒業パーティを台無しにし、セイリオス・ドゥーシャスと共謀して国家分裂の危機を招いた罪は反逆に値する! よって私、エリック・エイリーク・アマデウス・ド・アヴェスタはアイリーン・シクルシス伯爵令嬢との婚約を破棄する!!」


 セイリオスとアイリーンがはっとした。


 なぜエリックが国王や宰相ではなく生徒を引き連れてきたのか、ようやく思い当たったのだ。


 王族が自分の名を正式名称で名乗るのは、王家の権限を以ってする時だ。つまりこの婚約破棄は、覆しようのない事実として命令されたのである。

 もしもこの場に王と宰相がいたら捕縛され断罪されたのはセイリオスとアイリーンだった。エリックは、彼らを逃がすために、ここに乗り込んできたのだ。


「殿下……」


 証人はこの場にいる全員だ。彼らの反応は二つに分かれた。


「殿下! よくやった!」

「さすがは殿下です!」

「頑張りましたね!」


 拍手喝采でエリックを讃えているのは、エリックが連れてきた生徒である。彼らはエリックが受けた屈辱を知っている。どうするつもりなのか不安に思っていた。


 彼らもアイリーンに対するエリックの態度はないなと眉を顰めたし、アイリーンに同情していた。だが、よりによって晴れの日に、全校生徒を巻き込む形でエリックの顔に泥を塗ることはなかったのではないかとアイリーンに失望もしていたのだ。自分たちが切り捨てられる側にされたことにも憤りを感じている。


 そしてセイリオスの生存とエリックへの断罪である。婚約破棄の宣言はアイリーンへの謝罪と餞に他ならなかった。最後に男を見せてくれたエリックに、子供の成長を見守る親のような気分で彼らは感動していた。


「…………」


 反対に静まり返っているのはアイリーン側の生徒と良識派の貴族である。彼らは気づいてしまった。もしもこの場に国王と宰相がいたら、国家反逆罪に加担したとして自分たちは逮捕の後処刑であった。ずいぶん危険な橋を、そうと知らぬ間に渡らせられていたのだ。


 セイリオスの失踪は安全のため身を隠す必要があったと情状の余地があるものの、三年間の職務放棄はまずかった。また、彼は別人として活動していたので、その間の功績はセイリオス・ドゥーシャスではなくシリウスのものだ。これは詐欺罪に相当する。貴族を相手にした詐欺は罪が重く、あれはセイリオスであったと弁明したらシリウスが成し遂げた事業は泡と消えてしまうのだ。


 人心を惑わし、貴族に国への不信感を植え付け、あまつさえ反逆へと扇動した。言い訳のしようがない現場が今なのである。


 エリックは、婚約破棄という名分でそれを見逃してやると言ったのだ。今更ながらに理解したセイリオスとアイリーンは、エリックにしてやられたことに臍をかんだ。


「やだぁ、アイリーン様が睨んできます。殿下、レナリアこわぁい」


 とどめにレナリアがエリックに縋りついた。まだそれ続けるのか、とエリックは目を丸くし、アイリーンのための言葉を紡ぐ。


「アイリーン・シクルシス伯爵令嬢、ならびにセイリオス・ドゥーシャス。そしてこの両名に連なる者は国外追放とする。即刻退去せよ!」


 ギリ、とアイリーンが奥歯を噛みしめた。


 本来ならこの場でエリックはセイリオスとアイリーンに断罪され、ドゥーシャス公爵家とシクルシス伯爵家は独立を宣言するはずだった。そのための手筈はすでに整っている。屋敷にも、国境にも、兵を配備していた。


 そうしてこの国の破滅を予言して去るはずだったのに――。


 アイリーンの誤算はエリックがアイリーンより国を取ったこと、側近たちとの友情が篤かったこと、生徒たちがエリックに失望していなかったことだ。


 そしてその中心に、たった一人の少女がいる。


 アホの子ぶりっ子のヒロイン。レナリアはまったくの善意で友人を巻き込み、エリックの恋を応援した。あて馬として動くレナリアに笑いながら手を貸す者や、レナリアとエリックのやりとりを笑って見ている者は多かった。彼らもまた、エリックの協力者だったのだ。レナリアが言っていた、アイリーンが王妃となってエリックの尻を叩き、国を改善する未来に期待していた。


 アイリーンはそんな彼らを裏切った。どんな態度でもエリックはアイリーンを諦めないと、恋の上に胡坐をかいた結果である。


「アイリーン、行こう」


 セイリオスがアイリーンの腰を抱いた。見せつける仕草にエリックが痛そうに眉を寄せる。


 セイリオスが贈った金色のドレスとスタールビーのネックレスはアイリーンを輝かせている。エリックには指先さえ触れることのできない、まさに女神のような姿だった。セイリオスの隣でこそ、彼女は輝く。エリックの矮小さを見せつける二人に、心が悲鳴をあげた。


「殿下、ご立派でした」

「レナリア……」

「誰にでもできることではありません。私はあなたを誇りに思います」


 ぎゅっと両手を包み込むレナリアに、エリックが泣きだす寸前の子供の顔になる。


 好きな女の幸せを祈ることは誰にでもできる。だが、好きな女の幸せのために、他の男に託すことができる男がどれだけいるだろう。


 恋に不器用で傷つけてばかりで、最終的にこっぴどくフラれたエリックは、引き際だけは間違えなかった。

 アイリーンとはじめて会った、あの日のエリックが泣いている。どうしてあの子を好きになっちゃいけないの。あの愛らしい笑顔の女の子がそばにいてくれたら、きっとなんだってできるのに。


 エリックと同じ気持ちでアイリーンはセイリオスを愛しているのだ。セイリオスのためにならなんだってできる。エリックの卑怯な手を踏みつけにして、初恋の子は恋人の下に走って行ってしまった。


「……騎士団が王と宰相を足止めしている。早く行け」


 セイリオスとアイリーンの成り行きを見守っていたドゥーシャス公爵とシクルシス伯爵が貴族に移動を指示した。良識派と呼ばれた貴族たちは、それでも一応の礼としてエリックに頭を下げ、屋敷を出ていく。ここからは一刻を争う。すでに屋敷は空にして家人も出発させているが、自分たちが捕まってしまっては元も子も失う。


 セイリオスとアイリーンはエリックとレナリアに対峙したまま、それを見守った。いざという時は自分たちを囮にして逃がす覚悟だ。


 アルカイドが妹を守るために前に出て、レナリアを見た。ジュリアスが贈ったドレスを着た彼女は、見違えるほど綺麗だった。子爵令嬢として申し分ない姿である。


「レナリアさん、わたくしたちと行きませんこと?」


 兄の未練を見抜いたアイリーンが手を差し出した。彼女には運がある。運を摑みとれるだけの根性の持ち主だ。レナリアさえいなければ、アイリーンが勝利していただろう。


「あなたのように快活で物怖じしない方がお友達になってくれたら嬉しいわ。歓迎しますわよ?」

「お断りします」


 レナリアは満面の笑みを浮かべてきっぱりと切り捨て、言った。


「私、あなたが大っ嫌いです」


 そんな人が支配する国になんか行きたくありません。あまりの暴言にアイリーンは立ち尽くした。




婚約破棄がさよならの代わりに贈る言葉でした。

なんでエリックが良い奴になってんの?と思われるかもしれませんが、アイリーンは悪役令嬢です。


良識派の貴族と国王・宰相派とざっくり分けましたが、一番多いのはどっちつかずの貴族です。マルティン父のように特に信念とかなく情勢を読んで動く貴族が多いです。ま、当然ですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] この主人公言動行動、私には鳥肌たつくらい気持ち悪い そもそもことの発端は幸せな2人を悪気がなくとも王子が引き裂いたこと。 思い合う2人と全く関わりのない主人公は、彼女達ががどのように辛い思い…
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