7:公爵一家の家庭の事情
ばればれの人物が出てきます。シリアス成分多め。
「義兄上様っ」
弾むような少年の高い声が、公爵家の庭に吸い込まれてゆく。花盛りの庭は色とりどりの花が咲き乱れ、薫風が風に乗って彩りに爽やかさを添えていた。
庭師と話をしていた黒髪の男が振り返る。
「気が早いよ、メグレス」
「いいじゃないですか、もうすぐなんですから!」
黒髪に大きな黒い瞳を輝かせたメグレスは、きらきらと喜びを露わにして、ね、と庭師に同意を求めた。白髪交じりの初老の男は、顔面をくしゃくしゃにして笑み、うなずいた。義兄と呼ばれた男の紅瞳がゆるりとはにかむ。
「アル兄様が領地から帰ってきたんですって。こちらに来ると知らせがありました」
「アルカイドが? そうか、では行こう」
「はいっ」
男とメグレスが屋敷に戻っていくのを見送って、庭師が足音もなく庭の奥へと入っていった。
「メグレス様、ありがとうございます。シリウス様、お仕度を」
「ああ」
執事が苦笑しながらメグレスに礼を言った。本来このような役目は執事か従者の仕事である。押し切られてしまったらしい執事に、シリウスはメグレスの黒髪をかき混ぜることで詫びた。
「わっ、シリウス様っ」
「あまり人を困らせるものではないよ」
「困らせてません。お手伝いです!」
「まったく……。ほら、君も支度をしなさい」
「はい」
生温い目で見守っていた自分の従者に促され、メグレスは部屋に向かった。
「……お前たち、メグレスに甘くないか?」
じとっと執事を睨みつけるシリウスは、自分があの年頃だった時のことを思い出したのだろう、恨みがましげだ。
「さようでございますな。アイリーン様そっくりの瞳で見つめられると、どうにも断りきれません」
執事がさらっと認めた。そう言われるとシリウスは文句を言えなくなる。身に覚えがあるからだ。
「坊ちゃまもアイリーン様にはだいぶ振り回されておりましたな。いやはや、懐かしい日々です」
「……すまん」
アイリーンの我儘など可愛いものだったが、振り回された彼と、その後始末に駆けずり回った使用人たちにはたまったものではなかった。自転車に乗りたいと言っては庭をめちゃくちゃにされ車輪の大きさを変えさせたり、海が見たいとせがんでは船を建造しおまけに港を造って貿易を開始し、美味しいお菓子が食べたいとねだってアイスクリームを作って販売しついでに畜産を改革してしまった。他にもドレスが欲しいと染色に手を出せばすでに途絶えていた地方の民族衣装を復活させ、アレンジしたものを王都で流行させている。
好奇心の赴くまま好き勝手にやって、結果的にシクルシス伯爵家に莫大な富を築かせたのはアイリーンだ。資金援助をしたドゥーシャス公爵家にも利益がでている。振り回されたほうはたまったものではなかったが、きちんと筋道を立てて万全の体制でやればアイリーンの我儘は事業になった。文句は言えない。
「愛されておりますな。シリウス様だけではありません。領地も領民も、草木ですらアイリーン様は愛しておられます」
「当然だ。アイリーンは私の女神。天にあっては人々を照らす光となり、地にあっては豊穣をもたらしてくれる。あの人ほど愛情深い女性を、私は知らぬ」
ぬけぬけと言ってのけた主人に、執事は目を細めて何度もうなずいた。
シリウスの支度はまず洗髪からだ。染色剤を洗い落とすと黒かった髪が元の茶色に戻った。光に当たると蜂蜜を煮詰めたような濃い金髪にも見える。鏡に映る自分に満足げにうなずいた。
服を着替えて応接間に行くと、すでにアルカイドが待っていた。メグレスと久しぶりの再会を楽しんでいたらしい。シリウスを見て、さっと二人が起立した。
「やあ、お帰り。アルカイド」
「そちらも。お久しぶりです、セイリオス様」
しっかりと握手を交わす兄二人に、メグレスが嬉しそうに笑っていた。
「……本当の名で呼ばれるのは、久しぶりだ」
ソファに座ったセイリオスは、ほっと肩の力を抜いた。アルカイドは妹の婚約者にして親友の苦労を思い、わずかに眉を寄せた。
三年前、セイリオスが死んだふりをして行方を眩ませた時は心底驚いたし、王家に怒りを覚えたものだ。そこまでするか、そこまでしなければ身を守ることもできないのか、と。
王宮での勤務を終えて馬車停に行く途中だったセイリオスを、エリックの側近たちが襲ったのだ。彼らは話があるとセイリオスを導く星森に連行し、そこで暴行を加えて放置した。
セイリオスは、エリックがアイリーンを気にしていることを気づいていたし、その話だと思っていた。人気のない森の中での話はまさにそれで、アイリーンとの婚約を解消しろと彼らは居丈高に言ってきた。
もちろんセイリオスは断った。アイリーンが欲しいのなら自分ではなくアイリーンに直接言うべきだし、そしてそれはエリック本人がやるものである。側近に頼んで婚約解消しろなどという男に愛しい恋人を譲るわけがない。
まったくの正論で断ったセイリオスに、彼らは激昂して襲いかかった。
相手は高位貴族の子息、しかも五歳も年下の、セイリオスからしてみれば子供だ。油断していた。彼らは主君のためにと少年らしい正義感と使命感でセイリオスに懇願したつもりだったのだろう。ただ言葉使いはほとんど命令に近かった。正義と使命を思い違いしている。彼らのそれは傲慢と憤懣だ。セイリオスがもう少し穏やかに断っていれば、剣を抜くことはなかったかもしれない。
「殿下のためだ! 悪く思うな!」
悪役そのもののセリフを吐いて真っ先に斬りかかってきたのはクロードだった。騎士になるべく物心ついた時から剣を握ってきた彼の剣先は、それでも人を斬る恐怖と興奮に震えていた。突進したクロードに釣られる形で他の三人も剣を抜いた。
セイリオスとて公爵家の嫡男として護衛術は叩きこまれていたが、多勢に無勢だった。政務官の彼は剣を帯刀していない、殺されないように避けるので精一杯だった。
血まみれで倒れたセイリオスに殺してしまったと思った彼らが逃げるまで、セイリオスはこれからどうするべきか考えていた。
思い出して顔を俯かせたセイリオスに、アルカイドは肩を竦めた。
「失踪などするからです。あれほどあなたに嫁ぐべく頑張っていたアイリーンを泣かせて、どう落とし前をつけてくれるんですか」
アルカイドが皮肉を込めて言った。そうするしかなかったのはわかっているが、当時のアイリーンの嘆きようを見ていた兄としては、一発殴ってやりたいくらいだ。
「前もって説明できなかったのは悪かったと思っているよ。だが本当に殺されるよりましだろう?」
「その時は地獄まで追いかけて殴ってやる」
「ひどい義兄上だ。なあ、メグレス?」
「姉上を泣かせたことは、僕も許していませんから」
にこにこしながら突き放されて、四面楚歌にセイリオスも降参と両手を上げた。
「……まあ、そんなつもりはなかった、と言われて許せるものではないな」
お前が悪いと言って逃げ出した彼らを、セイリオスは許すつもりなどない。誰のことを言っているのか伝わったアルカイドとメグレスも同意した。
セイリオスが失踪と偽って身を隠したのは、側近の中にジュリアスがいたからだ。
宰相が唯一認知した子供で、しかも男子である。ザント家がこの国に食い込み宰相の地位を独占したいのは明白だった。そのジュリアスが公爵家の嫡男を害し、殺したとなれば、国王でも庇いきれるものではない。罪人として処刑されるだろう。
今までの苦労を子供の暴走程度で失うわけにはいかない。こうなった以上、宰相は本当にセイリオスを殺し、事実を隠ぺいするしか道はないのだ。
しかし予想に反し、側近たちが親に自分の罪を告白したのはセイリオスの捜索が公になってからだった。それまでは生きているかもしれないと希望に縋り、自分たちを恐れて出てこないのだと楽観し、ドゥーシャス公爵家が王と警察に訴え出て大騒ぎになってはじめて自分のやったことに恐怖したらしい。その間にセイリオスはとっくに国を出て身を隠していた。
「アイリーンは、どうしている」
アルカイドとメグレスは目線を交わした。
「卒業パーティに向けて張り切っていますよ。やっと大手を振ってあなたと結ばれるんだ。ケリーと一緒に嫁入り支度に余念がない」
「それと、殿下のなさりように笑いを堪えるのが大変だと笑っていました」
結局笑っているらしい。兄弟がそっくりな仕草でやれやれと首を振った。
アイリーンが様々な分野に手を伸ばし業績を求めたのは、ひとえにセイリオスへの愛ゆえだ。
ドゥーシャス公爵家とシクルシス伯爵家では家格が違いすぎる。父親同士が親友だからといって、そう簡単にまとまる話ではなかったのだ。
ドゥーシャス公爵家は良識派の筆頭として、貴族と国民の期待と支持を得ている。領地は広大で、王家の血を引く家として年頃の娘を持つ貴族はこぞって縁を結びたがった。セイリオスがまた美男の貴公子に育ったものだから競争率が高かった。実際当時の彼には婚約者候補が三人いて火花を散らしていた。いずれも侯爵家の令嬢である。伯爵令嬢のアイリーンはふさわしくないと陰で囁かれていた。
さらにアイリーンは五歳も年下だった。家格と歳の差を埋めるには本人と実家の功績を示すほかになく、アイリーンは我儘を振りかざす令嬢の仮面をつけてシクルシス伯爵家とドゥーシャス公爵家を繁栄させてみせた。政略結婚があたりまえの貴族を黙らせるには恋より金が有効なのである。
セイリオスとアイリーンが恋人というのは事実だが、敗れ去った令嬢へのわかりやすい慰めでもあった。おかげでセイリオスは一時期ロリコンのレッテルを貼られたが、貴族の間では歳の差婚はそう珍しくない。時が解決する問題であった。
「殿下は殿下で、浮気相手にせっつかれてようやくアイリーンに誠意を示そうとしている」
「卒業パーティ用にドレスや宝石を見繕っているようですよ」
エリックたちがセイリオスの手がかりを見つけようと動いていたことを、セイリオスは掴んでいた。
「アントンが止めたようだ。手がかりもなにも、宰相が手配した者ですら発見できなかったのだ。こそこそ動かれてドゥーシャスに勘付かれたら自分の身が危うくなる」
セイリオスが生きていることくらい、あの宰相は予想しているだろう。だが、なぜ出てこないのか、ジュリアスたちのことを訴えないのかがわからない。わからないのは、恐怖である。
セイリオスが姿を現した時こそ反撃されるとアントン・ザントは思っている。だからこそ、セイリオスの存在をこの国から消そうと躍起になっているのだ。お前の居場所などどこにもないのだと知らしめようとしている。
アイリーンにすらなにも言わずに姿を消したのは、見つかってしまえば殺されるからだ。宰相は今も秘密裡にセイリオスを始末できないかと画策している。殺してしまえば不安はなくなるからだ。
「……ドゥーシャス公爵は見事なお方だ。一人息子の失踪に力を落とされて、今にも倒れそうになっておられた」
「奥方様もです。ずいぶんお窶れになって……。本当にセイリオス様が生きているのか、僕でさえ半信半疑でしたからね」
「あの二人ならそれくらいやるさ。アントンには一度してやられているからな」
アントン・ザントは実力もあるが、汚職や賄賂にためらいがない男だ。金さえつめば犯罪すら揉み消す。後ろ暗いところのある貴族には、非常に頼りになる男だった。
そんな男が宰相になったら国が食い潰されてしまう。ドゥーシャス公爵は、彼が宰相になることに反対した。ただでさえ若く流されやすい王太子だったのに、王の崩御で突然王になってしまった。新王の不安に付けこんで傀儡政権を作り上げるつもりだ。
ドゥーシャスとザントの闘いは、ザントが勝った。外国から来た、この国の爵位を持たない宰相は実に上手く立ち回った。彼はたちまち新王の信頼を得て、政治を恣にしはじめた。
アントンの、絡みついたら丸飲みにするまで締め付け続ける蛇のごとき本性に気づいていたドゥーシャス公爵は、そこで一度手を引いた。引かざるをえなかった。
国と王を救い出し政治を正すには、決定的な証拠が必要だ。国家反逆罪となる証拠を見つけるまで、良識派をまとめて耐え忍ぶことを決めた。公爵はまだ、国と王を信じていた。
だがセイリオスを殺されかけて、ついに見捨てる決意を固めた。
子供のしたことで済まされる問題ではない。王太子の側近をしているからには少なくとも貴族の矜持と見識、なにより忠誠を持っていてしかるべきだ。エリックがアイリーンと結婚したいと望み、セイリオスが邪魔だったとしても、そこでセイリオスを攻撃するのではなくエリックを諌めなければならなかった。忠義と忠誠の意味をはきちがえているようでは先が思いやられる。
その後も怯えているだけで謝罪もせず、せっぱつまって親に泣きつく有り様だ。これが将来王の重臣となるのか。暗澹たる思いを抱くには充分だった。
なにより公爵を失望させたのはエリックだ。自分がセイリオスについて溢した直後に失踪し、側近の様子がおかしくなったのに気づかなかったはずがない。しかし下問もせず、セイリオスを心配するそぶりもなかった。ただ自分の欲望に直結させ、王命を振りかざして強引に婚約を結んだ。
「エリック殿下には、人の心がないのか」
そう呟いたのはアルカイドである。
昼夜を問わず捜索し、その都度進展を確かめ、気配すらないと聞いて泣きながらそれでも諦めず、地図を片手に走り回り気絶するように眠っていたアイリーンに、胸を痛めない者はいなかった。無事潜伏が完了してセイリオスからの手紙が秘密裡に届けられるまで、そのような日々であったのだ。
アルカイドの父であるシクルシス伯爵は事情を知っていたが、セイリオスの安全を優先して子供たちにまで黙っていた。
ドゥーシャス公爵家とシクルシス伯爵家がどれほどの覚悟でそれを成したのか、思いやることもできない人間に、大切なアイリーンを任せることなどできなかった。
「ぼんくらだけがなにも知らずになんとかなると信じているわけか」
ハッ、とセイリオスが嘲笑った。そこには王家に対する敬意は欠片もない。
「殿下の傍で一番現状を理解しているのは、例の浮気相手だけです」
アルカイドはそんなセイリオスを咎めなかった。
「女を見る目だけは確かって、嫌な才能ですね」
「たまたま当たりだっただけだ」
アルカイドの言葉に嫉妬の響きがあるのを聞き取り、セイリオスがおや、という顔をする。
「気に入ったのか?」
「……殿下には惜しい女性だ。アイリーンも気に入っているようだし、できれば友人になってほしかった」
「兄上、ふられたの?」
メグレスが容赦なく聞いてきた。アルカイドが渋い表情になる。ますます珍しいとセイリオスが目を見開いた。
「できの悪い弟みたいで放っておけないと言われましたよ。相手の気分を害さず、自分の意見を率直に言える稀有な人材です。そうだな……気に入っていたのかもしれません」
自分に問うように呟いて、アルカイドはふっと自嘲した。たった一度の逢瀬だったが、あれが分かれ道だった。レナリアはアルカイドではなくエリックを選んだのだ。
「どこの令嬢だ?」
セイリオスが気づかわしげに問いかけた。長い付き合いでアルカイドにこんな表情をさせる令嬢はいなかった。できることなら力になってやりたい。
しかし、アルカイドは首を振った。
「スティビー子爵家の長女だ」
「スティビー? というと、チャルディ家の」
「そうだ。殿下の側近、マルティン・チャルディの分家筋だ。そこはしっかり選んでいる」
あて馬の浮気相手は選ばれた令嬢が断れないように、なにかの拍子にエリックのお手付きになっても繋いでおけるように、分家筋から選んでいた。分家であれば上意で政略結婚させて、エリックの愛人にすることも可能である。そこだけは抜け目ないのが貴族のいやらしいところだ。
「うわっ、最低っ」
メグレスが実に率直な感想を言った。その顔はうっすらと笑っている。
「なにそれ。あの殿下、好きでもない子を浮気相手にしておいて、保身だけはばっちりなの? そんなのが王太子なんて――最低だね」
最低、と繰り返した声は低く、心からの嫌悪に溢れていた。
「信じられない、こんな国」
「メグレス、御前だぞ。慎め」
亡んでしまえと呪詛を吐く前にアルカイドに制止され、不満そうに唇を尖らせながらもメグレスはセイリオスに頭を下げた。
「申し訳ありません」
「いや、気持ちはわかる。君たちは本当に家族思いだな」
「おそれいります」
「セイリオス様、姉上を……」
セイリオスは皆まで言わせずにうなずいた。
「わかっている。幸せにするとも。いや、アイリーンと生きることこそ私の幸せなのだ。そしてアイリーンは、自分一人が幸福になることなど望まない女だ。皆を笑顔にしてこそ彼女は心から笑ってくれる」
「はい」
アイリーンはそういう娘だ。だからこそ、誰もが惹かれずにはいられない。
セイリオスはもう一度うなずいた。
「険しい道になる。土台を固めるまで、数えきれないほどの苦労があろう。血が流れるかもしれない。それでもやらねばならぬ」
「わかっております」
「はい。覚悟の上です」
セイリオスはアイリーンを想った。愛する女一人笑顔にできずに、なにが王だ。
「……良い国を造ろう。協力してくれ」
「もちろんです。我が君」
「はいっ!」
この三年間、セイリオスは他国に身を隠しつつ配下の貴族をまとめ、動いていた。領地経営というのは綺麗事ではない。配下の中にも宰相と通じている家があったし、密偵が潜り込むこともあった。貴族だけではなく商人とも渡り合い、流通を掌握し、経済面のダメージを最小限に抑えることに苦心した。
商人は基本利で動くが情もある。貴族は金勘定を卑賎のすることと蔑む傾向が強かった。誰のおかげで贅沢ができると思っているのだ、貴族などなにするものぞと内心憤っている商人も多いだろう。彼らと折り合いをつけ、理解を示し、情と利で互いに有利になるよう事を進めていった。弱味は見せられない。しかしよそよそしくてもいけない。汚泥にメッキを張り、綺麗に見せかけるのは貴族の得意技だ。
幸いアイリーンが興した事業は上手くいっている。この先の展開も見込めた。商人や職人の受けが良く、期待されている。
「そうだ。セイリオス様もアイリーンにパーティ用ドレスを贈ったらどうでしょう」
「良いですね! 殿下の顔なんかけちょんけちょんにしてやりましょう!」
卒業パーティで、エリックは自分が贈ったドレスを着たアイリーンを今か今かと待つだろう。だがアイリーンはセイリオスのドレスを着て、別の場所で彼と踊っている。
自分のものになると思っていた愛しい人を、寸前で掻っ攫われる苦しみを、エリックも味わうがいい。完全に私怨だが、憎しみを止めることはできなかった。
「女神を飾る誉を与えられるとは嬉しいことだ」
アイリーンとは会えていない。月に一度か二度の手紙がせいぜいだった。直に会ったのは三年前である、さぞやうつくしくなっているだろう。
メグレスとの養子縁組はドゥーシャス公爵家とシクルシス伯爵家が協力していることもあるが、彼自身が帰って来られない間のやりとりのためである。
貴族の養子縁組は書類が整っていればそれで良く、たいていは親元で教育を受ける。養子先が引き取りたいと言ってきても未熟を理由に断る。実家が困窮していてふさわしい教育を受けられないのであれば資金援助させる。幼いうちに引き取られ、養子先の都合のいいように育てられてしまっては困るからだ。養子に行って実家を忘れられたら立場がない。
一人息子がいなくなり、悲しみに暮れる公爵夫妻の招きに応じて、というのはまったくの嘘でもなかった。ドゥーシャス公爵夫人は生まれた時から知っているメグレスを可愛がっているし、公爵本人も快活なメグレスを気に入っていた。一人息子で厳しく育てたせいか、セイリオスはしっかりしすぎてつまらんとシクルシス伯爵に溢したこともあるそうだ。
そうやってメグレスが我が物顔で出入りしていればアイリーンも公爵家に来やすかった。弟がご迷惑をかけていませんか、とご機嫌伺いを名目にして、セイリオスの動向を知ることができた。
「あ、でも、セイリオス様からドレス贈られたら、姉上キラキラしすぎて無表情の演技忘れちゃうかも」
セイリオスからの手紙を受け取った後は幸福に浸り、会えないせつなさを想って泣いてしまうのでばれる心配はなかった。セイリオスが怪我をしたと聞けば薬草の品種改良に着手する逞しさである。
それだけに、ようやく念願が叶うと知れば、喜びを押し隠すことは難しいだろう。
「そこは上手くやっておく。むしろ直前まで秘密にして、セイリオス様がなにも言ってこないと不安を抱えていたほうが、殿下との結婚が憂鬱だと思わせられるかもしれん」
さらっと酷い提案をする兄に、メグレスは「鬼か」と呟いたが、たしかにそのほうがいいかもしれないと思い直した。
「……そうだね。殿下からのプレゼントが嬉しくて卒業が待ちきれないと思われても癪だし」
「そういう前向きな勘違いしそうだからな、あの殿下は」
シクルシス兄弟はそろってため息を吐いた。
レナリアならエリックのそういうところも可愛いのだと言うだろうが、この二人の感想は『無駄にポジティブ』である。ぜひ関係のないところで発揮していただきたい。
「ドレスの打ち合わせは母に頼もう。ここで怪しまれて台無しになったら事だ」
公爵家お抱えの仕立て屋ならアイリーンのドレスを依頼しても不自然ではない。しかし公爵家に出入りしている『シリウス』という黒髪の青年がアイリーンにドレスを贈ったら怪しまれるだろう。シリウスは植物収集家という園芸業者だと身分を偽って各地を回っていた。宰相に勘付かれて今までの努力を無にされるわけにはいかない。
「卒業パーティにアイリーンがいないとなれば、殿下はシクルシス家に乗り込んでくるだろう。大勢の招待客の前で、華々しくお披露目だ」
アルカイドが愉快そうに両手を広げた。




