6:あて馬令嬢の恋
あて馬令嬢の恋
卒業式が近づくと、学院はどこかそわそわした雰囲気に包まれる。
卒業パーティ――プロムナードのパートナーを探すためだ。
この日ばかりは部外者も校内に入れるため、婚約が決まっている者は婚約者を誘えばいいが、いない者には想いを告げる絶好の機会となる。男も女もあぶれるのはごめんだとばかりに、この時期には告白大会が校内のあちこちで繰り広げられていた。
「レナリアはプロムどうするの? やっぱり殿下と?」
「まさか! 殿下にはアイリーン様がいるもの。その前に晴れてお役御免よ」
一応契約は卒業式前日までになっているが、それまでに上手くいってもらわなければ今までの苦労が水の泡だ。ぜひともエリックにはアイリーンの心を摑んでもらいたい。
「じゃあ、プロムは?」
「せっかくだから裏方に回らせてもらうわ。会場の給仕係ね。バイト代出るし、マナーのおさらいもできるし、一石二鳥! いや、女官研修も兼ねてるから一石三鳥かも? プロム様様だわ」
学外でのアルバイトが禁止されている学院では、消耗品などの生活用品を買うだけの仕送りのない生徒への救済措置として校内アルバイトを認めていた。教授の手伝い、園芸部の庭仕事、食堂での給仕、寮の清掃や洗濯など、学業の妨げにならない程度に募集している。
プロムは卒業生だけではなく全学年の生徒が参加できるので、裏方は大歓迎であった。パートナーが見つからなかった生徒の駆け込み寺的意味もある。
給金は学生アルバイトらしくそれなりだが、レナリアが期待しているのはチップだ。働きが良ければ教授や保護者がチップをくれる。
「そういえば一年の時も二年の時も給仕やってたわね……」
最終学年の今年くらいは参加したら、とジュリエッタは言うが、レナリアは目先の金に目が眩んでいた。なにより先立つものがないのも事実だった。
「プロムに着ていくドレスなんか用意できないわよ」
「それこそ殿下におねだりしたらいいじゃな~い」
むしろ殿下こそチップを渡すべきだ。からかってくるジュリエッタに、レナリアは真剣な目を向けた。
「マジで言ってる? 殿下のお金ってようするに税金、つまり私たちのお金じゃない。それこそ無駄遣いしてほしくないんですけど」
「あ、うん。そだねごめん」
みみっちいというかケチくさいというか、財布の紐が固すぎる。レナリアの経済観念は実家が基準だ。
憧れがない、というわけではないのだ。レナリアだって綺麗なドレスを着て素敵な男性と踊ってみたい。ダンス科目は必須授業なのでマスターしている。
しかしながら、まずその綺麗なドレスを用立てるだけのものがないのだ。次に素敵な男性の心当たりもない。踊れはする。だが、自分が誰かと踊っている想像がレナリアにはできなかった。
「貧乏がぜんぶ悪いんだぁ」
「だね。うちも私のドレス代にどれだけかかったか……」
遠い目をしたジュリエッタにはパートナーができていた。彼から申し込んでくれたらしい。粗末なドレスで現れてがっかりさせたくないし、彼の恥になりたくない。ここで上手くいけば婚約もありうる、と実家が頑張ってくれたのだ。
「弟と妹にはこんな思いさせないぞ。姉ちゃん頑張る」
「そこで弟妹にいくのがレナリアよね」
先に生まれたレナリアは、弟や妹に比べて金をかけてもらった自覚がある。まだ余裕があったのだ。
弟はともかく妹はレナリアのおさがりばかりで、せめてと思いリメイクしたり、レースや刺繍を加えたりした。おさがりになることがわかっていたので大切に着た。家族で節約を重ねて、妹たちの誕生日には新しいドレスを仕立てるのが唯一の新品だった。
弟だって両親から勉強を教わるのではなく、きちんとした教師をつけてあげたい。一年と二年の教科書は実家に送り、テスト問題に傾向と対策を添えてあるが、自主学習と教師から教わるのとでは質が違う。このままでは学院に入学しても苦労するだろう。
「学院で恋人はできなかったけど親友ができたし、殿下たちもまるでダメだけど根は良い人ってわかったから満足してるわ。殿下とアイリーン様が王様と王妃様になった時が、新しい時代の幕開けよ。きっと良い国になるって期待してるの!」
レナリアは希望に満ち溢れた顔で笑った。エリックたちの評価はだいぶ修正されたが、元が底値だったので『以前よりはまし』程度である。それでも彼らの為人を知って、今の腐敗した政治は許さないだろうと思っている。
「レナリア~! 私もレナリアの無駄に前向きなところが大好きよ!」
「友よ!」
きゃっきゃと戯れる少女たちに、暗さはどこにもなかった。
◇
一方で、エリックの進捗は芳しくない。
「セイリオスの手がかりはまだ見つからないのか?」
王宮にある王太子宮、白と青を基調とした部屋で、エリックは苛立たしげに指先で机を叩いた。
「申し訳ありません……」
ジュリアス、クロード、シュテファン、マルティン。側近たちの顔色が悪いのは、主の怒りに触れたからではなかった。
「殿下」
ジュリアスが思い切って顔をあげた。
「実は、宰相閣下にセイリオス捜索を止めるよう言われました」
思いがけないことを聞いたエリックは目を見開いた。
ジュリアスが父親のことを「宰相閣下」と呼んだこともそうだが、なぜ宰相がセイリオスのことに口出ししてくるのかわからなかった。
「アントンが……? ジュリアス、アントンに協力を頼んだのか?」
「いいえ。我々だけで内密に進めていました」
ジュリアスたちはエリックの側近として仕えているが、それだけだ。学生で見習い期間とみなされているので無官である。成人していないため部下もいなかった。彼らが使えるのは家の使用人くらいである。親に内密にと言っても報告されてしまうので無意味であった。
「あまり大々的にやってはアイリーン様に気づかれます。レナリアも、殿下が気にかけている程度でいいと言っていましたし、正直なところ今さらなにか出てくるとは思えません」
クロードが頭を掻いた。あっさりした物言いのわりになにかを懼れている様子の彼に、エリックは首をかしげる。クロードは護衛騎士だが、主の命令を厭う性格ではない。彼らしくなかった。
「だからといって、ここで引くわけにもいかないだろう」
「殿下、そもそもレナリアの策に唯々諾々と従うのはいかがなものかと」
疑問を呈したのはマルティンだ。彼はエリックの側近というより友人として付き従っている。宰相に逆らってまでセイリオスを探すことはないと進言した。
もっともではある。
レナリアはエリックの側近でも臣下でもなく、あて馬として採用した短期限定アルバイトだ。マルティンたちとは立ち位置が違う。しかも地方の貧乏子爵の令嬢で、エリックにあれこれ指図できる権限はどこにもなかった。
「…………」
そう言われると反論できなかった。レナリアの勢いに呑まれたのも事実だが、では他にどうするのかと言われても答えられなかった。
彼女を巻き込んで宰相に目を付けられても、守ってやることもできないのだ。
「殿下」
黙り込んだマルティンに代わり、ジュリアスが口を開いた。
「卒業も間近ですし、セイリオスはひとまず置いて、そろそろアイリーン様に婚約者として接するべきではありませんか」
「婚約者として?」
「はい。卒業パーティには、殿下はアイリーン様をパートナーになさいますよね?」
「う、うむ。そうだ」
パートナーの言葉にエリックが頬を染めた。素直になれないだけで、彼は純情で健全な青少年なのである。好きな女と体を寄せ合ってダンスは刺激が強い。
「アイリーン様にドレスやアクセサリーを贈ってはいかがでしょう。思えばアイリーン様に贈り物をしたことがありません。一度に全部揃えて贈るのではなく、段階を踏むことでアイリーン様も婚約者の自覚を持たれるのではありませんか?」
そう、エリックは一度もアイリーンに贈り物をしたことがなかった。レナリアが聞いたら「うっそでしょ」と呟いて生ごみに湧く蠅を見るような目をされるだろうが本当である。
レナリアは後が怖い、という理由でねだったことはないが、今までの浮気相手への贈り物は好評だった。センスは悪くないのだ。ただひたすら、アイリーン限定で腰が引けてしまうだけである。
「そ、そうだな。うむ! あの薄気味悪い幽霊女でも、着飾れば多少ましになるだろう!」
もしアイリーンに気に入られなかったらどうしよう。趣味が悪いと笑われたら。そんなことを考えているうちになにもかも嫌になってきてしまう。それで結局なにも選べなくなるのだ。
贈り物は金をかければいいというものではない。相手のことを思い、なにを好みどういうものを喜ぶのかリサーチして考えて選ぶものだ。
自己満足を押し付けてさあ喜べというのは傲慢というべきだろう。だからといって、悩みすぎて腹が立ったから止める、というエリックもたいがいだが。
エリックがセイリオス捜索から気を反らしたことに、ジュリアスはほっとした。
◇
安息日は学院も休日になる。
レナリアは軽い足取りで街に買い物に出かけた。
先日受け取ったあて馬アルバイトの給金が思いのほか良かったのだ。
事前に取り決めていた金額より多い給金に、なにかの罠かと怪しんだレナリアだったが、あて馬だけではなく色々とアドバイスしてくれた礼だという。そういうことなら、とレナリアはありがたく受け取った。恩と金は遠慮なく受け取るのがレナリアの流儀である。
うきうきした様子で衣料品店に入っていくレナリアを、監視する目があった。
アイリーンの兄、アルカイド・シクルシスである。護衛と従者を連れてのお忍び行動だ。
彼はレナリアが家族に宛てて書いた手紙を密かに入手し、彼女をどう扱うべきか迷っていた。
『拝啓 お父様
日々暑さが増し夏が近づくのを感じる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。お母様と弟妹たちは元気ですか。
小麦畑は無事青々と育っているでしょうか。水利権を争って揉めている村がないか心配です。
先のお手紙で知らせた王太子殿下に短期雇用された件ですが、どうにか上手くやっています。殿下は私のような下位貴族の令嬢にも気さくに声をかけてくださり、側近のみなさまも私の意見に耳を傾けてくれます。人の噂などあてにならないものですね。
殿下は少し……、いえ、だいぶ頼りないところがおありですが、そしてどうにもひねくれた性格のようですが、指摘されれば改めようとする素直さもあります。あいにくアイリーン様とお話する機会は滅多にないのですが、大変聡明な方だと聞き及んでおります。学院でお見かけする限り、教授にも慕われてなにかと頼られているようです。ちょっと頼りないけれどおやさしい殿下と、聡明でしっかり者のアイリーン様が王様と王妃様になられれば、この国はきっと改善されると予感しています。
お父様もお二人が上手くいくように祈っていてください』
父への手紙はエリックを上げているのか下げているのかよくわからない、彼女の率直な感想が綴られていた。仮にも王太子に対しあまりにも忌憚のなさすぎる言葉の数々に、アルカイドはしょっぱい気分になった。
二枚目の手紙は弟に宛てたものだった。
『愛する弟へ
元気ですか? お姉様は元気です。妹たちの我儘に、さぞや手を焼いていることでしょう。
お父様から聞いていると思いますが、お姉様は今王太子殿下の下でアルバイトをしています。あなたが学院に入学したらわかってしまうと思うので先に言ってしまうと、殿下の浮気相手としてです。とはいえあくまでアルバイトですので心配いりません。卒業までの短期雇用です。
殿下のおかげで王宮女官の内定がもらえましたし、バイト代で支度もできそうです。お母様は私に恥をかかせまいと仕送りをしてくれるそうですが、そのお金はあなたと妹たちの教育費にあててください。学院で好成績をとれば仕官も夢ではありません。
あなたはいずれ家を継ぎますが、その前に社会経験を積み、そして本当に想い合えるお嫁さんを見つけられたらと思います。殿下を見ていると、本当にそう感じます。
いいですか、弟よ。好きな人と出会ったら、ちっぽけなプライドや見栄を捨てて好意を伝えるのです。後になって後悔してもそれでは遅すぎます。たとえフラれることがわかっていても、なにもせずに諦めるのと当たって砕けるのとでは心のダメージがだいぶ違うはずです。うじうじしている男は、姉は嫌いです。
とにかく悔いのないように。お金のことなら心配いりません。お姉様はこれでも強いのです。
いずれ王都で会えることを楽しみにしています。体に気をつけて。お母様と妹たちをよろしく頼みます』
三枚目、四枚目は妹に宛てたもので、我儘ばかりで困らせてはいけない、将来のためにもきちんと勉強するようにと書いてあった。エリックの浮気相手として書いていい内容をわきまえていることに、彼女の聡明さが透けて見える。
この手紙だけでもレナリアの実家の財政事情が厳しいことと、家族仲が良いことが伝わってきた。王の散財のおかげでこの国はどこも大変だが、スティビー子爵家も例に漏れず大変らしい。
地方貴族の令嬢が学院を目指すのは、まず結婚か就職先探しだ。レナリアは長女なのだからどこかの裕福な男を捕まえればいいものを、自分の手で稼ぐことを決めている。
アルカイドはレナリアのその根性が気に入った。妹たちの結婚あるいは就職が決まるまで働いていたら、彼女は嫁き遅れの年齢になってしまう。自分の幸せより家族の幸せを、いってしまえば他人の幸せのために自分を犠牲にできる者はごく少数だ。
他者のために心を配り、手を尽くし、誇りを忘れない者。それこそが貴族だ。そんなレナリアがエリック側なのが惜しい。アルカイドは自らレナリアを探りに来たのだった。
「話しかけてみますか?」
「いや、待て……」
従者が追おうとするのを止め、アルカイドはレナリアが入っていった店の看板を指差した。さすがにあそこで声をかける勇気は持てない。
レナリアが真っ先に向かったのは、下着を取り扱う店だった。
女のおしゃれは下着から、という教訓を実践しているレナリアは、下着にはこだわりを持っていた。母からも「いつなにがあってもいいように、下着だけはきちんとしなさい」と言われている。今のところ「いつ」も「なにが」も予定どころか気配すらないが、というかあったらあったで困るのだが、万が一ということもある。それに、お気に入りの下着というのはそれだけで気分があがった。物が物なのでおさがりになる心配もない。唯一趣味に走れるのが下着だった。
レースや刺繍がふんだんに付いたコルセットには憧れるが、レナリアには予算が足りない。しばらくうっとりと眺め、肌触りの良い白いドロワーズを数枚買った。レースも刺繍も自分でやればいいのだ。飾ってあった憧れの下着を目に焼き付けて、レナリアが次に向かったのは手芸店だった。
今度こそ、と身を乗り出したアルカイドを止めたのは、レナリアの明るい声だった。
「こんにちはー」
「あら、いらっしゃいレナリアちゃん」
「新しい下着買ったの! 良いレースあります?」
「また下着? 今度はどんなの?」
「これよー。肌触り良くて着心地良さそうでしょ」
レナリアは笑いながらカウンターに買ったばかりの下着を広げた。こうまで堂々としているのはレナリアと女店主の二人しかいないからだろう。
「あらホント。奮発したわね」
「でしょう? せっかくだし、良いレース付けたいの!」
「そうねえ。最近入ったのは……」
こんな女の空間に割って入ってレナリアに声をかけたらまるっきり変質者だ。従者が気の毒そうな顔をしているのがいたたまれない。
レナリアは店主が取り出したレースを眺め、たっぷりと悩み、財布の中身を見てため息を吐き、店主と相談し、布を眺めたり刺繍糸を手に取ったりし、店主と世間話をして、最終的に妥協したのか意を決したのか、満足顔で店を出た。幸せそうに下着とレースの入った袋を抱えている。
「女の買い物が長い理由がわかったよ……」
「よくまああれだけ悩めますよね」
アルカイドがぽつりと零せば、従者と護衛がしみじみとうなずいた。営業妨害ではと思ったが、なんとレナリアは後からやってきた客とも笑って相談していたのだ。初対面だろうにフットワークが軽すぎる。一つ女に話をすれば、あっという間に知られている理由を垣間見た気分だ。
「次の店に行くようです」
「今度はどこだ?」
「あれは……雑貨店ですね」
まだ続けるのかと言いたげな従者にアルカイドは内心で同意する。立ちっぱなし喋りっぱなしで疲れないものなのだろうか。買い物における女のバイタリティーにアルカイドは降参したくなった。
「失礼、レナリア・スティビー子爵令嬢」
さすがに財布の中身が寂しくなったのか、レナリアは必要なものだけを買ってすぐに店を出てきた。すかさずアルカイドが捕まえる。
「はい、あの……?」
警戒を滲ませつつ応じるレナリアは、相手が高位貴族であると見抜いたのだろう。エリックの隣にいる時とは別人のようだ。
「私はアルカイド・シクルシスという。少し話がしたいのだが、いいかな」
まどろっこしいことを言わず、アルカイドは直球で切り出した。
アルカイドの名乗りにレナリアは息を飲み、考えるように視線を彷徨わせる。
アイリーンの兄が直接話に来たということは、十中八九エリックの話で間違いないだろう。卒業が近い今、浮気相手から真意を聞くつもりだ。
浮気相手というのはエリックのまったく方向を間違えた作戦なのだが、これはチャンスだ。アイリーンも兄になら本音を漏らしているかもしれない。ここでアルカイドを説得し、エリックとの仲を取り持ってもらえたらラッキーである。
そこまで考えたレナリアは、はっきりとアルカイドを見て、うなずいた。
「わかりました。私も殿下とアイリーン様のことでお話したいことがあります」
たいていの令嬢が頬を染めて見惚れるアルカイドの容姿にびくともしない彼女に、アルカイドの片眉が上がった。
「感謝する。では、そこの喫茶店で」
アルカイドがレナリアに声をかけたと同時に動いた従者が喫茶店の個室を確保していた。レナリアは縁のない高級店に思わず足が止まった。
紅茶の一杯くらいならなんとかなるかも。ぎゅっとバッグの紐を握りしめたレナリアを見て、アルカイドが先手を打った。
「誘ったのは私だ。気にせず好きなものを頼むと良い」
「ありがとうございます」
レナリアはほっと礼を言った。目上の高位貴族にそう言われて固辞するのは失礼にあたる。
しかし、レナリアは実情はともかくエリックの浮気相手である。だからといって本当に気にせず注文する気にはなれなかった。無難にアルカイドと同じ銘柄の紅茶を頼み、一口飲む。
「スティビー子爵令嬢は、エリック殿下の浮気相手だと聞いた」
「正確にはあて馬です」
そこは訂正させてもらう。アルカイドが眉を寄せた。
「あて馬?」
「はい。殿下とアイリーン様の間をうろうろして、お二人をくっつけるのが役目です」
エリックとアイリーンの間が開きすぎていてしかも縮まらないのだが、レナリアに求められているのはそれだ。
「……君は、殿下とアイリーンが上手くいくと思っているのか?」
「思いません」
ずばり否定したレナリアに、アルカイドは面食らった。
「今の殿下ではアイリーン様も愛想をつかすだけです。結婚したところでアイリーン様が殿下を夫として認識するかも怪しいですね」
「それでもあて馬を続けている理由は?」
「お金のためが第一。次に殿下を放っておくと墓穴を掘りそうだから。あとは、アイリーン様が王妃になったら期待できそうだから」
政権を支持する理由みたいなことを言うレナリアに、アルカイドの瞳が鋭くなった。
「アイリーンの幸せは無視か」
「殿下の幸せがアイリーン様の幸せになればよろしいかと」
澄まし顔のレナリアにアルカイドは一瞬唖然とし、次に声をあげて笑い出した。
「それは、ずいぶん前向きな考えだ」
「本当は、殿下がアイリーン様の幸せを自分の幸せにできればいいんですけど、ちょっと無理そうですので」
エリックにそうした男気は期待できない。子供と同じで、自分の幸せ最優先なのがエリックだ。
「正直だな。嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
レナリアは頭を下げた。
正直というのは必ずしも美徳ではない。特に、貴族にとっては。本音と建て前を使い分けられなければ、貴族の伏魔殿を渡りきれずに潰されるだけだ。正直者は好き、ではなく嫌いじゃない、と言ったのはそういうことである。
「アイリーン様は、殿下をお慕いできませんか?」
問うというより確認だった。アルカイドは重々しくうなずいた。
「他の誰に嫁ぐことになろうとも、あの男を愛することは絶対にない」
レナリアの表情が曇った。悲しそうな、落胆したものになる。
「そうですか……」
落胆はしたが驚きはなかった。あれだけ人権無視した振る舞いをされたら、そりゃそうだとレナリアだって思う。
「あの……挽回のチャンスは……」
「ない」
アルカイドはきっぱり否定した。
「そもそもアイリーンとあの男の婚約など、我が家は認めていないのだ。王命にすぎん。現に今も婚約を解消するよう申し出ているが返事はなしだ」
「婚約を解消? シクルシス伯爵がアイリーン様を説得したのでは……」
「それは王妃が流した噂だ。よほどアイリーンを逃がしたくないらしい」
吐き捨てるような口調だった。アルカイドは苛立ちをごまかすようにカップを持ち上げ、ひと息で飲み干した。
王妃の気持ちはわかる。レナリアにすら想像がついた。
アイリーンを逃したら、エリックには後がないのだ。
アイリーンへの態度を見れば、いかに王太子であろうと結婚したいと思う娘はいないだろう。他国から探そうにも条件を付けられる。
妃として責任を負わされ、そうでありながら蔑ろにされるくらいなら、側室で充分だった。レナリアもアルバイトなら良いが、ずっと仕えてくれと言われたら断りたくなる。
レナリアはハッと顔を上げた。
「もしかして、婚約破棄の準備してます?」
アルカイドは笑ったまま答えなかった。それが答えだろう。
「それだけあの男のことを考えているのに、本当に恋人ではないのか?」
「勘弁してください。私の好みは稼げる男です」
からかい気味のアルカイドに、レナリアはうんざりを隠さなかった。
「王太子殿下だぞ」
「血税ですね」
なおさら無理だというレナリアをまじまじと見つめ、アルカイドはため息を吐いた。
「……君が殿下側であることが残念でならないよ」
「あれで可愛いとこあるんですよ。反抗期の弟みたいです」
「ああ、なるほど。君にはそうなんだな」
アルカイドは一つうなずいて立ち上がると、握手を求めた。
「私が言うのもおかしいが、殿下を頼むよ」
「……アイリーン様におっしゃってください」
立ち上がって手を握ったレナリアに、アルカイドは曖昧に微笑んだ。
話は終わりだとバッグと荷物を取ろうとしたレナリアを制する。
「ここの支払いはしておくから、君はゆっくりしていきなさい。今日は楽しい時間をありがとう」
「こちらこそ。アルカイド様にお会いできて光栄でしたわ」
一人で帰れ、という意味だ。ここで同時に店を出たら、アルカイドはレナリアを寮まで送っていかなくてはならなくなる。それが誘った男のマナーだからだ。
エリックの浮気相手がアイリーンの兄に学生寮まで送られたとなればとんだスキャンダルだ。エリックにばれたら話がややこしくなる。
「…………」
椅子に力なく座り、冷めた紅茶を眺めていたレナリアに、店員が新しい紅茶とケーキを持ってきた。
「お連れ様からでございます」
「あ、ありがとうございます」
気落ちしていることを察してくれたのだろう。つくづくエリックと違う、できる男だ。
このスマートさがエリックにあればと思うが、たとえエリックがアルカイド並みに洗練された男でも、アイリーンは振り向かないのだろう。
女は残酷な生き物だ。男に対し、一度でも嫌悪を抱くとそれが一生つきまとう。見直すことはあっても奥底の嫌悪感は消えてなくならない。それが愛する男を卑怯な手段で奪った男ならなおさらだ。
レナリアもエリックを『ダメな男』と思っているが、アイリーンとは意味合いが違う。可愛げのある『ダメ』だ。まだ救いようがある。
エリックにとって、レナリアは自分を脅かさない存在だ。下位貴族の令嬢、女官志望、成績は中の上と、そこそこ良いがすごくはない。王太子に媚びるでもなく助言をくれて、それでいて見下すこともなかった。レナリアは嘘を吐かず、本気でエリックに接していた。アホの子ぶりっ子で悪意をかわすしたたかさもある。
安心していられるのだ。だからレナリアには素をさらけ出した。レナリアもずけずけと叱ることができた。それは恋ではない。姉と弟の距離感である。
「……恋ってなんだろう」
レナリアが想像する恋とは、やわらかくて甘酸っぱい、ケーキのようなものである。口に入れればすぐに蕩けて、幸福に目を細めるような。
「ああ、でも……終わっちゃうのね」
そっかあ。
ケーキ皿にフォークが落ちる。なんだかわかったような気がして、レナリアは目元を擦った。
彼女に恋を与えた男はすでに去り、余韻だけが苦く残った。
初恋をずっと思い続けるのも恋なら、一瞬で落ちて終わるのも恋だと思います。どっちが良いとか関係なく、恋は恋です。




