3:王子様はツンデレをこじらせている
エリックは数多くいる王子・王女の中で唯一王妃から生まれた子供だ。
この国では王位継承権は王妃の子から与えられる。次は側室でも身分が高く、後ろ盾のある者。年齢は考慮されず、ゆえに王宮は権力闘争の中心だった。
子供の頃からあらゆる意味で狙われてきたエリックにとって、結婚は悩ましい問題だった。いずれどこかの姫と婚約するのだと思えば恋をする気にもなれず、かといって両親のような、建前は取り繕っているが愛があるのかないのかわからない関係は嫌厭していた。冷めた目で両親を観察する子供であった。
側室を迎えるのは王の特権。万が一王妃との間に子ができなかった場合の保険である。だが、その特権を利用して何人もの側室を抱え、家庭内の空気を険悪にし、そこから逃げてまた側室を増やし、結果的に国庫を圧迫する。そんな父親では尊敬もできなかった。ついでにいえば祖母は余計な散財を繰り返す父を叱るのではなく、王の心を繋ぎ止められない女だと母を責めるのだ。自分はああはなるまい、とエリックは幼心に決意していた。
エリックの婚約者がなかなか決まらなかった裏には、王の寵愛が王妃になかったことが影響している。寵を与える側室をころころ変え、自分の愛を巡って女たちが争う姿を見て安心している王は、エリックの結婚相手探しに積極的ではなかったのだ。うら若き美人を自分のものにしたい欲もおおいにあったと思われる。
王妃は他国の王女でしっかりした経済基盤もあり、その子供であるエリックは王太子である。今さら王の寵愛など必要なかった。懲りない夫を静かに見つめ、側室同士の争いを嘲笑している。その態度が悪循環を生んでいることに、本人たちだけが気づいていなかった。母や女たちの確執を冷めた目で眺めていたエリックが気づいた。皮肉な話である。
だからこそ、彼はアイリーンに恋をしたのだ。
アイリーンはエリックと同い年でありながら、はじめから婚約者候補から外れていた。すでにセイリオスと婚約していたからだ。
エリックとアイリーンが出会ったのは、エリックの十歳の誕生日パーティだった。
そろそろ婚約者を、ということでまずは身近な貴族令嬢が集められた。アイリーンがいたのはセイリオスが招待されていたからであり、セイリオスがいたのはエリックが王位に就いた時の宰相の最有力候補だったからだ。顔合わせをして、エリックはセイリオスの忠誠を、セイリオスはエリックのご機嫌伺いを、というわけである。
アイリーンは他の令嬢と違い、エリックに興味がなかった。
セイリオスしか目に入っていなかったからである。彼女は両親のシクルシス伯爵夫妻と共に、人脈作りに励もうと、まずは友人からはじめられる相手を探していた。
アイリーンの第一印象は『生意気な女』だった。
二、三、言葉を交わしたが、挨拶以外は領地のことや特産品などの売り込みで、そのくせ媚びるでもなく下手に出ることもなかった。まっすぐにエリックという人物を見極めようとする黒い瞳に居心地の悪さを覚えた。セイリオスの婚約者なのだからアイリーンはエリックに気に入られる必要は特になく、ただセイリオスの邪魔をするなと物語っていた。
ドゥーシャス公爵家は三代前に王家から臣籍降下した公爵家だが、王家に親しむでもなく常に一歩引いた位置にいる、難しい立場の貴族だった。次から次へと側室を作り、政治を宰相任せにしている国王に何度も苦言を呈し、良識派の最後の砦とまでいわれている。反面身内には甘く、貴族でありながら愛人を作らずに妻一筋、配下が困っていれば迷いなく手を差し伸べる。貴族の見本のような家であった。
そんなドゥーシャス公爵の親友であるシクルシス伯爵も、また高潔な人物だ。アイリーンの他に長男と次男に恵まれ、自分たちの贅沢よりも領地を富ませるほうがよほど楽しいと言ってはばからず、実際国内有数の大富豪でもある。この財力があるからこそ、アイリーンはセイリオスの婚約者になることができたといっても過言ではなかった。
望まれて生まれ、愛されて育ち、何不自由なく恵まれた二人は、エリックには眩しいほどであった。
雑談を終えてエリックの前を下がったアイリーンは、セイリオスの隣に戻ると安心したように微笑んだ。そのやわらかな笑み。セイリオスを見つめて甘える瞳。エリックは、セイリオスを愛するアイリーンに恋をしたのだった。
互いに愛し、病める時も健やかなるときも、どんな苦難の時であろうと信じあう二人。アイリーンの隣に立つのは自分になりたい。諦めていたからこそ切実な、憧憬にも似た恋であった。
だが、アイリーンと婚約したいと言ったエリックを、王と王妃は理由も聞かずに一喝した。
すでに婚約しているセイリオスとアイリーンを破談にさせれば、ドゥーシャス公爵家とシクルシス伯爵家を敵に回すことになる。報復も恐ろしいが、ただでさえ宰相まかせで国王の威厳などあってなきがごとしの現状に亀裂を入れることになるのだ。良識派が繋ぎ止めてくれている王家への信頼、求心力が木っ端微塵になる。
たかが女一人と思うな。古今東西、女が原因で国が傾いた事例は事欠かない。アイリーンにはそれだけの力がある。
諦めろ。そう言われた。
想いを告げることすら許されない恋。王太子の自分に叶えられないことなどないと思っていたエリックの、はじめての挫折だった。
どうして父があれほど側室を作るのか、母があんなに落ち着いていられるのか、その根本となる原因がわかったような気がした。そうすることしかできない苦しさを。
誰からも愛されず、誰からも必要とされない。それが王というものなら、王とはなんと孤独なのか。王宮にいてもアイリーンの話は聞こえてきた。セイリオスと仲睦まじい様子はエリックの心を温かくし、同時にせつなさに苛まれた。
王立ボンヌ学院を首席で入学したセイリオスは首席で卒業し、政務官となった。机上の空論しか知らない若造かと思いきや、公爵家の領地経営や貴族との折衝も叩きこまれたらしく、即戦力として瞬く間に重要な仕事を任されるようになった。
自信に溢れ、気力に満ち、貴族にも人気のセイリオス。あの宰相でさえ息子のジュリアスに「セイリオスを見習え」と言ったらしい。あんなに頑張って父の後を継ごうと努力しているジュリアスに、なんて酷いことを言うのかとエリックは義憤にかられた。
どんなに頑張ってもセイリオスには敵わない。セイリオスがいる限り、王になってもエリックはちいさくなって生きていかなければならない。愛しいアイリーンがセイリオスの妻になり、幸福そうに笑うのを、嫉妬にまみれて眺め、やがて父と同じく愛人や側室に走るのだ。
「セイリオスさえいなければ、アイリーンは私を見てくれるだろうか」
エリックがジュリアスたち側近に弱音を吐いたのは、彼らがエリックの気持ちを理解してくれているからだ。彼らもセイリオスと比べられ、事あるごとに親から叱責されていると聞く。努力で埋められない才能を見せつけられ、やるせなさに苛まれる仲間だった。
エリックがそう言った翌日、セイリオスは姿を消した。
エリックは、なにも知らない。知らないことになっている。信頼する側近の無実を信じてやらなくてどうするのだ。そう思っていること自体が疑っている事実には目を背けた。
◇
王立ボンヌ学院は貴族が通っているので公立校のような制服はない。社交の縮図ではあるが学び舎であることを自覚し、華美な服装は控え、言動をわきまえるようにと校則で定められている。エリックの目に留まろうと、それでも工夫を凝らしたドレスの女生徒は多いが、高価な宝石が付いたアクセサリーで飾る者はいなかった。
アイリーンはいつも喪服のような地味なドレスを着ている。レースもなく、リボンもなく、ただ布を縫い合わせただけのようなドレスは仕立て屋にはさぞ不満だろう。裾に申し訳程度に入れられた藤花の蔓模様の刺繍が仕立て屋の意地を感じさせた。
腰まである長い黒髪を後ろに流し、所々三つ編みで飾っている。髪飾りはなく、黒い影のような姿はそれでも一輪の黒百合のように気高かった。
「アイリーン……」
「これは殿下にはご機嫌麗しく」
廊下を歩くたびにいちいち挨拶されていては目的地に辿り着けないので、王太子のエリックとかちあっても会釈程度で通り過ぎるのがルールになっている。もちろん呼びかけられれば立ち止まるが、ここまであからさまに一線を引いた態度を取るのは婚約者のアイリーンだけだ。アイリーンの友人たちでさえ、他人行儀な微笑みを浮かべて言葉を待つ。
表情筋がまったく仕事をしないアイリーンに、エリックはいつもなにを言えばいいのかわからなくなる。虚無のような黒い瞳に見つめられるだけで心臓が高鳴り、彼女が見ているという事実一つに舞い上がってしまう。
「は、話が、ある」
「はい。なんでしょうか」
エリックが好きな笑顔を彼女は浮かべない。セイリオスが消えて以来アイリーンは笑わなくなった。ただ冷ややかな無表情でエリックを見る。
エリックがアイリーンを呼び止めたことに気づいた友人たちが、そっと目配せして邪魔にならない位置に陣取った。
エリックの後ろには側近たちが控えている。男たちが集団でアイリーンになにかしようものならすかさず反撃する構えだ。
「ここでできる話ではない。……生徒会室に行こう」
「まあ。わざわざ移動しなければならないお話でしたらお断りしますわ。ましてや生徒会室なんて、いったいどのようなお話ですこと」
アイリーンをエスコートしようと伸ばした手を避けて、叩き落とす勢いで拒絶した。エリックの顔が悲しみに歪む。
「嫉妬しているのか?」
「いいえ別に。嫉妬される覚えがあることをスティビー子爵令嬢とした、ということでしょうか」
淡々と、エリックのことなどどうでもいいとでも言いたげだ。カチンときたエリックはつい心にもないことを言ってしまう。
「まったく、可愛げのない女だ。レナリアの素直さを少しは見習ったらどうなんだ?」
「スティビー子爵令嬢を見習うくらいでしたら修道院に行ったほうがましですわ」
だよな。
ジュリアスたちがうなずいたのを横目で見つつ、全力で同意する。自分で言っておいてなんだがレナリアのアホの子ぶりっ子をアイリーンがやったら頭の具合を疑うだろう。
「男の心を繋ぎ止められない女なんてなんの価値もない。君は自分の生まれに感謝するのだな、シクルシス伯爵家の財力に」
それはかつて祖母が母に言ったセリフだった。そしてエリックが兄たちに言われたセリフでもあった。エリックの心に今も傷をつける言葉を彼は婚約者に投げつけた。
「私が心を繋ぎ止めておきたいお方は今も昔もたった一人しかおりません。どうぞお気遣いなく」
エリックの頬が泣きだしそうに引き攣った。今でも彼女がセイリオスを愛して待っているという事実が彼を切り裂く。
君が好きだ。どうか私を愛してくれ。私を見てくれ。そう懇願したいのに、聞くに堪えない嫌味と皮肉しか出てこない自分の醜さが泣きたいほど嫌いだった。
「お話というのは殿下の理想の女性論ですの? とてもわたくしでは御心に適いそうにありませんのでスティビー子爵令嬢とお幸せに」
アイリーンが話してくれるのはエリックへの反論くらいだ。泣きを見るのは自分だとわかっていても、アイリーンが相手をしてくれるのが嬉しかった。
聞いているのかいないのか、誰かを探すような瞳で遠くを見て反応されないよりは、ずっとましだ。
「あっ、エリック様ぁ~」
どんどん険悪になるエリックとアイリーンに、誰かが呼んだのだろうレナリアが割り込んできた。緊迫していた空気から一気に力が抜ける。
「レナリア……」
「エリック様、どぉしたんですかぁ? レナリアに会いに来てくれたんじゃなかったの?」
頬に人差し指を当てて小首をかしげる。アイリーンがそっと視線を外した。
「もぉ、アイリーン様、またエリック様に意地悪したんですかぁ? いくらエリック様の婚約者だからって、そおゆうの良くないと思います!」
いちゃもんをつけたのはエリックだしアイリーンは正論で叩きのめしただけなのだが、この場で傷ついたのはエリックだ。腰に手を当て、ビシッと指さされたアイリーンは、髪で顔を隠すようにうつむいた。
「……そうですわね。殿下、意地悪を言ってごめんなさいね? どうぞスティビーさんに慰めてもらってください」
まったく心の籠らない謝罪をして、アイリーンはエリックとレナリアに一瞥し、友人たちと去っていった。
「やりましたねエリック様! アイリーン様に謝ってもらいましたよ!」
くるん、とエリックを振り返ったレナリアの青い瞳には、ぶりっ子仮面の裏の炎が揺らめいていた。
さりげなくアイリーンに誠実さをアピールし、悩める王子様を演出する予定はどうした、とその目が言っている。「だ・い・な・し」とレナリアの唇が動いた。
うぐ、とジュリアスたちが呻く。ぶりっ子仮面の怒りは止めなかった側近にも向けられていた。
「レナリア、エリック様とお話したぁい。ね、四阿に行きましょう?」
要約すれば「面貸せや」である。これは説教だな……、とエリックたちは思ったが逆らえるはずもなく、傍目には一人の少女をちやほやしているように見せながら四阿へと連行されたのだった。
四阿は学院の学舎と校庭の境目となる生垣の片隅に設置されている。園芸部の生徒によって手入れされ、季節によって花が植え替えられていた。春の盛りのこの時期はまさに百花繚乱である。
その華やかな四阿で、レナリアは暗く沈みこむエリックに盛大なため息を吐いて見せた。
「計画では、殿下はセイリオス様のことで素直になれなかったけれどアイリーン様を大事に想っている、という作戦でしたよね。なのになんで喧嘩売ってるんです!?」
「アイリーンが買うから?」
「売るなって言ってるんです! なんですか、あのバナナの叩き売りみたいな文句! 買わなきゃ損みたいな気分にさせられますよ!」
バナナの叩き売りは一種の芸である。買わなきゃ損というより、売り口上で買わせるのだ。
「あれじゃあアイリーン様の心を軟化させるどころじゃないですよ。放置しすぎた肉みたいに固くなってしまいには腐っちゃいます」
その例えはどうなんだろうとエリックは思ったが、口には出さなかった。王宮の厨房に腐った肉などないが、言わんとすることはわかる。
「レ、レナリア。殿下も反省しているんだ」
「実を伴わなければ意味ないです」
マルティンのフォローをレナリアはばっさり切り捨てた。毎度のことなんだから次に活かして欲しいと思うのは間違いではない。
すっかり落ち込んだエリックの頭を自分の肩に乗せ、レナリアは顔だけはやさしく微笑んでいる。遠巻きに窺っている生徒対策だ。この使い分け。女は、いや、レナリアの恐ろしいところだ。
「レナリア、そちらはどうなのだ」
ひと通り説教が済んだところでジュリアスが軌道修正した。
「アイリーン様のご友人は予想通り接触してきました。とりあえず『殿下ってば甘えん坊さん』アピールして、一線は越えてないけど特別感出して煽っておきました」
よしよし、と頭を撫でるレナリアは、恋人というより姉である。
「その際、なにか悩みがあるようだとほのめかしておきましたから、今度こそちゃんとしてくださいね。殿下」
「わかっているのだ……! だが、アイリーンの顔を見るとどうも憎まれ口しかでてこない。少しはこっちの気持ちをわかってくれてもいいのではないか!?」
まじかこいつ、という顔でレナリアがジュリアスを見た。ジュリアスは黙って首を振る。我らが王太子殿下は好きな子の前では五歳児だ。
「……殿下のその第一次性徴期の男子みたいなどうしようもなさはともかく、どうして側近のみなさままでアイリーン様を悪く言うんです?」
「……なに?」
エリックが低い声で側近を睨みつけた。自分はともかく側近がアイリーンを悪く言うのは許せない。
「元はといえば殿下のせいですからね?」
が、呆れ果てたレナリアの「おまいう」が怒りを瞬間冷却した。
ジュリアスたちは直接アイリーンを悪く言っているわけではない。浮気相手と比べているだけだ。彼女たちは雇われてあて馬をやっているのだから当然エリックを立てる。やさしく従順で、可愛らしくエリックに甘え、王太子に対する敬愛を示した。
「特に酷いのは殿下に本気になっちゃった子です。アイリーン様さえいなければと思い込んだのかもしれませんけど、あることないこと言い触らして名誉毀損ぎりぎりです。冤罪吹っ掛けた子までいるんですよ」
どう考えてもアイリーンが嫉妬するとは思えないが、そこは友人たちが動いたことになっていた。ドレスや教科書の破損は定番で、足を踏まれた、階段で突き落とされた、はては毒物を仕込まれたという犯罪まがいのことまであった。
そうとも知らないエリックは浮気相手を庇い、アイリーンを責める始末。エリックがこれでは側近たちもアイリーンを諌めるしかなくなる。
「私たちはアイリーン様を悪く言っていたわけではありません」
「そうだ。もう少し女性として見習って欲しかっただけだ」
「殿下の寵を得ているのならそれに報いるべきだろう」
「嫉妬していなくても、殿下に気を使ってしかるべきでしょう」
ジュリアスたちが弱く反論した。彼らにアイリーンの悪口を言った自覚はなく、ただエリックの気持ちを考えていただけだ。
嫉妬の末に苛めたというのが嘘でも、浮気相手の排除に動いて欲しかったのだ。それなら嘘が本当になる。王太子妃の椅子目当てだろうとエリックと結婚したがっていることになる。せめて、無関心はやめてもらいたかっただけだ。
「本当に冤罪かはわからんだろう」
エリックもそう思っていた。いや、そうであって欲しいと願っていたというほうが正しい。だからアイリーンを責めたのだ。
「冤罪ですよ」
「なぜそう言いきれる」
王太子の婚約者を蹴落とそうとするくらいだ、浮気相手たちが証拠を残すへまをするとは思えなかった。レナリアと違い、もっと賢明な女性を選んだつもりだ。
「アイリーン様がなにもしていないからです」
「?」
「もしもアイリーン様がそんな犯罪まがいの指示を出していたとして、被害者が殿下と別れたくらいで手を引くと思います? むしろ犯罪を知る者を消しにかかってますよ」
「シクルシス伯爵がそんなことを許すまい」
シクルシス伯爵は高潔で清廉潔白な人柄で知られた人物だ。娘が犯罪に走ったとなれば、娘だからこそ厳しく罰するに違いない。
「シクルシス伯爵家だからです」
レナリアは恐ろしいほど真剣だった。
高潔なシクルシス家だからこそ、娘をこうまで追い詰めた浮気相手を加害者に仕立てあげて反撃するだろう。
「娘の婚約者の浮気相手ですよ。どちらに最初に非があるかは一目瞭然でしょう」
「あ……」
「アイリーン様には浮気相手を潰せる理由があります。なのになにもしていないってことは、殿下が浮気しようが心底どうでもいいんでしょう」
「心底どうでもいい……」
レナリアは言わなかったが、アイリーンが浮気相手に反撃して潰したら、それを理由に婚約を破棄してくれるよう王家に訴えているだろう。娘が不始末を起こした、王太子妃にはふさわしくない、エリック殿下に顔向けできないと自ら申し出るはずだ。
なのにそうしないのは、苛めた事実がないからだ。どこにも証拠がない。むしろ歯がゆく思ってさえいるかもしれなかった。
もうやめてくれ。ジュリアスたちは顔を覆った。エリックのダメージが半端ない。がっくりと肩を落とし燃え尽きた人のポーズになってしまっている。あんまりだ。もしかしたらアイリーンがエリックに関心がないのは彼女なりのやさしさなのでは、とすら勘ぐってしまいそうだ。
「よろしいですか、素直になれとはもう言いません。余計なことはしないでください。アイリーン様を見ても喧嘩を売らずにぐっと堪え、目で訴える程度にしてくださいね」
「目で、訴える……」
「メンチ切れって意味じゃないですからね? くれぐれも舌打ちしたり、嫌そうな顔してそっぽ向いたりしないように! そんなことしたら馬糞に群がってる蠅より冷たい目で見られますよ」
レナリアが釘を刺してきた。エリックならやりかねないがたとえがひどい。エリックは死んだ魚の目になり、ジュリアスは空を見上げた。マルティンたちも力なくうなだれていた。
◇
セイリオスの失踪について、エリックは何も知らない。
ただ、ジュリアスたちに内心を打ち明けた後、彼らがなにやら話をしていたことは知っている。
ジュリアスとマルティンはともかく、騎士団長の息子のクロードと、エリックに追従しがちなシュテファンはエリックのためにと先走るクセがある。セイリオスにアイリーンとの婚約を解消しろと直談判したのかもしれなかった。
そこで、なにかがあったのだ。
ジュリアスなら宰相の力を使って揉み消すことも可能だろう。セイリオスは政敵の息子で、ジュリアスを脅かす存在でもある。証拠隠滅くらいはためらわずにやる。おそらくは後始末も。
エリックの想像だ。五歳も年上のセイリオスを相手になにができようという思いもある。エリックと側近は騎士団長直々に剣の稽古をつけてもらっているし、クロードは護衛の役目でもあるので常に帯剣している。いつか真剣で戦ってみたいと言っていたクロードは、セイリオス失踪後にまったくそれを言わなくなっていた。
それでもエリックの想像なのだ。だがその想像は恐ろしい未来を連れてきた。エリックが国王になった時、ジュリアスを宰相にしなければ、側近たちを取り立てなければ。
きっと彼らはこう言ってくる。――エリックのためにセイリオスを消したのに。
側近の不始末は主の不始末だ。あの時、エリックがあんなことさえ言わなければ、彼らは罪を犯すことなどなかっただろう。証拠はどこにもない。目撃者もいない。エリックが勝手に想像して勝手に怯えているだけだ。私が信じてやらなくてどうする。私は彼らの主なのだ。
ジュリアスたちはセイリオスの捜索をしている。痕跡でも見つかればと思っているが、ずいぶん消極的で、不安げだった。芳しい報告は届いてこない。そのことにエリックは心のどこかでほっとしていた。
「アイリーン」
「これは殿下にはご機嫌麗しく」
あれから女子舎に来たエリックにはぴったり張り付くようになったレナリアが、エリックの踵を蹴飛ばして嫌味と舌打ちを阻止した。服の裾を引っ張って褒めろと合図する。
「ああ……そうだな。誰かさんと会ったせいか、この天気のような気分だ」
「さようでございますか」
今日は雨だった。
ざぶざぶと降りしきる雨音が、アイリーンとエリックの間にこだまする。
エリックは絶望的な気分になった。天気までもエリックの敵だ。
「やぁんっ。アイリーン様はエリック様の恵みの雨なんですかぁ? それってずるぅい。えぇ~? じゃあ、レナリアはエリック様のなぁに?」
雨は生きとし生けるものすべてに欠かせないものである。大地を潤し、山を育て、川になって海へと生命を運ぶ。洪水や氾濫するほど降るのは困るが、国の根幹を担う農業において晴れよりも気になるのが雨だ。
貴族には靴やドレスを濡らすうっとおしいものでも、しかるべき時に降る雨は国を左右する。レナリアは見事にアイリーンを恵みの雨にしてしまった。
なるほどこのためについてきたのか。エリックはレナリアの気づかいにほっと頬をほころばせ、側近たちも感謝の目配せを送る。今までの浮気相手と違ってさりげなく相手を持ち上げる、ツンをデレに翻訳する技術は彼らになかったものだった。
「レナリアは……そうだな、砂漠のオアシスだよ」
助かった、という意味で。アイリーンが相手でなければこれだけ気の利いた言葉がでてくるのに、なんて残念な人だろう。レナリアは口元が引き攣らないように堪えつつ、アイリーンを窺った。
「さながら殿下は猛夏の太陽ですわね。スティビーさんとお似合いですわ。ではごきげんよう」
いつまでもうざい奴だな、さっさと沈めばいいのに。いいかげん暑苦しいんだよ。アイリーンの返事は実に見事だった。
はっきりくっきり落ちぶれろ、と言った彼女は極寒の大地にブリザード吹雪かせて通り過ぎていった。
「ツンの期間が、長すぎましたね……」
遠ざかっていくアイリーンの後ろ姿に、レナリアの呟きが漏れた。
学院は9月入学。卒業式は8月で書いています。




