番外:宰相の野望
短編にしては長いです。悪役宰相の話。
アントン・ザントは野心溢れる男である。
彼はとある国の侯爵家三男として誕生した。茶髪に碧眼の美男子で、飛びぬけて優秀な頭脳を持った息子に両親は喜び、最高の教育をと寄宿学校に通わせた。
努力を惜しまない性格のアントンは両親の期待に応えようと勉学に励み、その国で最高と誉れ高い大学に首席で入学した。
見聞を広げるべく留学も何回かした。首席をキープしていたので学校が奨学金を出してくれ、何の苦労もなく思い切り勉強することができた。順風満帆、我が世の春。アントンは存分に人生を謳歌した。
当然のように首席の成績で卒業したアントンは、そこでようやく挫折を味わうことになる。
アントンには二人の兄がいた。長男は侯爵家の跡取りとしてすでに結婚し、家の経営に携わり実績を築いていた。次男の兄も長男を補佐するべく子爵位を父から譲られていた。そんな二人の兄にとって、優秀すぎるアントンは自分を脅かしかねない危険な存在に成り果てていたのである。
お家騒動を懼れた兄二人はタッグを組んでアントンを追い出した。家を出る末息子のために男爵位でも買ってやろうとした父を説得し、出ていかざるを得ない状況を彼がいない間に作り上げてしまっていたのだ。
「お前の優秀さを男爵程度に押し止めておくのはもったいない」
「アントンならどこへ行っても立派にやれるさ」
大学を卒業して、さあこれからという時にこの仕打ち。両親はすっかり兄に丸め込まれてにこにこと同意していた。さも親切に、アントンのためにといわんばかりの善意の裏にある悪意に気づいたのはアントンだけだった。
身内から捨てられたという事実は若いアントンに深い爪痕を残すことになる。彼も貴族の生まれだ、家のために、国のために貢献しようと勉強してきたのだ。自分を捨てた兄たちを、アントンは生涯許さなかった。
家を出されたアントンは留学時に知り合った友人の家を転々とし、スポンサーを探した。彼の才能に目を付けていた者は多く、生国から離れた国の商人の支援を受け、社交界に出入りするようになった。
その商人の祖国が、レナリアたちが生まれたこの国である。
他国の美青年貴族はたちまち評判になった。三男ということで個人資産は期待できないが、血統はお墨付きである。ぜひとも我が家の婿にと声をかけられるようになった。
アントンはそれらの誘いをのらりくらりとかわした。他国者がちやほやされる状況はよろしくない。アントンとて、もてるのは大変嬉しかったし自尊心を満足させたが、婚約をと言ってくる家の中にはすでに婚約者がいる令嬢もいて、相手の男に恨まれるのを恐れたのだ。
なにより、彼には野心があった。どこかの家に婿入りするのではなく、この国でこの国の貴族となり、人々の、兄たちの頭を下げさせるのだ。
それには婿では立場が弱すぎる。誰もが認めざるをえないほどの地位を、彼は欲していた。
アントンを支援した商人フェリクス・リントンはその野心ごと彼を買っていたようだ。金を惜しまずに彼をあちこちに連れていき、名と顔を売らせている。女にもてていることを危惧するアントンにもっともだなと同意し、夜会よりクラブを重点的に回るようになった。
アントンは留学の経験があるので各国の情勢に詳しい。政治クラブでは激論を交わし、趣味の集まりなら最新流行を作り上げた。やがて会員制の派閥クラブに招かれるようになった彼は、半分成功したといえるだろう。
派閥の主張をひたすら聞きに徹し、意見を求められれば率直に答える。しだいに信頼を集めたアントンの工作で派閥争いが沈静化し、手を組むようになっていった。この頃のアントンと、後に彼の最大の敵となるカノプス・ドゥーシャスは仲が良かったらしい。ドゥーシャス公爵家の夜会にアントンは頻繁に出席していた。
アントンがこの国に来て三年、ついに噂を聞きつけた国王が謁見を許した。この時の王はエリックの祖父であり、可もなく不可もなく無難に国を保っていた。
王がアントンに訊ねたのは以下のようなことであった。
「他国と比べて、我が国はどうか」
「何が不足しているか」
「今後、我が国が繁栄するためにはなにをすべきか」
アントンはまだ二十代半ばの若造である。さてこの野心溢れる男がなにを言うか、と王はからかうつもりであったらしい。
王の下問にアントンは別段気負うことなく答えた。ただし、内心ではついにこの時が来たと大興奮していただろう。彼は言った。
「まあ、良くはありませんな」
あらためていうが、王の御前である。
王に対し王の国を「良くはない」と言い切ったアントンは、狙い通り王の度肝を抜いた。
「何が不足しているかと言いますと、まずは金が不足しております。貴族にばかり金が集中して、平民、特に農民はいまだに物々交換です。これでは経済が回りません。王の威光を隅々まで浸透させるのなら、金を国中に行き亘らせなければならないでしょう。さらには、どうもこの国は古臭いものが多いですな。技術の発展が他国と比べて遅れているように思います。貴族の子弟を一箇所に集めて教育を施すのは悪い手ではありませんが、集中しすぎて狙いやすいという点では危惧いたします。また、これでは研究者が育ちにくいと愚考します」
このようなことをアントンは故事を交えて語り、王を感心させた。
故事や古典を用いて遠回しに表現するのがこの時代の貴族の国語だが、それにしてもアントンには忌憚がない。一つひとつの問題点は気づいている者が他にもいるだろうが、王に進言するには憚りがあって言えなかったことだった。
いってみればアントンは運を摑んだのだ。直答を許した手前、王はアントンを咎めることはできない。
感心したが、率直すぎてむかついた。さてどうしてやろうかと王が息を吸った時、アントンの運命は決まった。
「……よくぞ言ってくれた。アントン・ザントよ、我が侍従として仕えることを許す」
「ありがたき幸せにございます」
王が見たのはアントンの覚悟と喜びだった。この日、ここに立つために、彼は命をかけたのだ。
その度胸と野心を王は気に入った。王とは孤独な存在である。誰も彼もが王に気を使い、自分の言葉で飾らずに、時として苦言を呈する者は貴重だった。
侍従となればアントンは王の側近くに控え、求められれば知恵を出す。他国出身者としては破格の待遇であった。
「アントン! いや、ザント殿とお呼びせねばな。とにかくおめでとう!」
真っ先にフェリクスが祝いに来てくれた。王はアントンのために屋敷を用意してくれたのだ。
「ありがとう。君のおかげだ、フェリクス」
「謁見の話は聞いたぜ。君なら大丈夫だろうと思っていたが、ずいぶん思い切ったな、血の気が引いたよ」
「あれくらいやらないと認めてもらえないと思ったんだ。追放されたら別の国に行けばいいだけだしな」
苦笑するアントンにフェリクスは誇らしげに笑った。
「おかげで我が国は君という才を逃さずにすんだってわけだ」
アントンが下賜された屋敷は、かつての王族が身分の低い愛人を住まわせていたものだった。男爵クラスの狭いが小奇麗な家で、家具もそのまま残っていた。
「家具を新しくするならうちで引き受けるが?」
商人らしく抜け目ないフェリクスに首を振る。
「いや、下賜されたといってもすぐに新しくするのは心象が悪い。まずは使用人だな」
王は不要なものを手放しただけでも、王家の所有だったのだ。すぐに処分してしまってはうるさく文句をつける貴族が出るだろう。それより使用人だ。王家から派遣されていた管理人は引き上げてしまったため、アントン一人で住んでいる状態である。
「使用人か、慎重に選ばないと」
「メイドは推薦されるだろうから、料理人をお願いしてもいいか? 信頼のおける、腕に自信のある男がいい」
使用人は密偵にうってつけだ。よそ者でありながら王の気に入りとなったアントンを妬んで、あるいは取り込もうと、必ず送り込んでくるだろう。家の中で見張られているストレスで、下手をすると潰されかねない。
フェリクスはにやりと笑った。
「まかせろ。うちの料理人の弟子に腕のいいのがいる」
料理人はその最たるものだ。料理に毒を仕込まれたり、単純に不味いものをだされたりと危険がつきまとう。よって信頼のおける者を雇うのが常識だった。あいにくアントンには伝手はなく、フェリクスに頼んだのはそのまま彼への信頼に繋がった。
フェリクスの料理人には弟子が何人かいる。その中でも腕に自信のある男を彼はアントンの屋敷に派遣した。自分の仕事に誇りを持っている男は、その仕事を汚すような真似はしない。毒を入れる心配はいらないと太鼓判を押した。
メイドや執事は数日で集まった。王宮に出仕したその日に声をかけてきた貴族が不便だろうと紹介してくれたのだ。用意の良さから貴族の息がかかっていると見てよい。アントンは承知の上で喜び感謝して彼らを雇い入れた。密偵は裏を返せばどこに繋がっているのかわかる糸のようなものだ。貴族たちを探る良い理由ができた。
アントンは王の影で国政に携わっていった。金の増産はさすがにすぐにできる問題ではなかったので、まずは技術の発展と教育機関の改善に取り掛かった。
「まず、学校に通っているのがほぼ貴族であるというのは問題です」
「平民が学んだところでどうにもなるまい」
アントンの主張に馬鹿にしたように鼻で笑う貴族の言い分はある意味正しい。
平民に限らずこの国は世襲制だ。子供が親の後を継ぐのが当然、文字すら必要な者しか覚えず、算術は商人になる者が学ぶものであった。
そして娘はいずれ嫁いで家を出ていく。それが一般的だった。
「その考えが間違いなのです。家を継ぐ気がないのに長男だからと継がされるのはその子にとって不幸でしょう。次男、三男ではなおさら悲惨です。せめて文字と算術を学び、どこへ行くにしても困らないように指導するべきではありませんか?」
アントンは極めて残念、と首を振る。
「技術の発展がないのはその弊害です。そもそも親に言われるままの学問にどれだけの価値がありましょう。意欲のある者を歓迎し、新たな道を切り開く。平民の中に天才が生まれても育たないような国では才能の無駄ですぞ」
「しかし、それでは農民が減るのではないか?」
「その心配はございません。どんなに学んだところで現状を変えたくない者は一定数おります。よその土地へ行き一から始める資金のないものはまず家で稼いでからになりましょう。農業は国の基盤、それに誇りを持つ者もおります」
農民など労働者階級でも最下層だと思っている貴族はぴんとこないようだ。アントンはふっと笑って説明した。
「たとえば、冷害や病気に強い品種を生み出したいと思っている者や、土壌改良に励んでいる者もおります。農家の知恵ですな。そうして収穫量をあげればそのぶん潤うのですから、苦労の多い農民でもやる気がでるでしょう。そのために学ばせるのです」
「……なるほど」
王がうなずいた。
「アントンよ、知恵を独り占めするのではなく、国全体に行き亘らせるのだな?」
「その通りでございます。さらに研究を続け、成果の出た者には褒賞を与えればより意欲が湧きましょう」
公立学校であっても通わせることを渋る親は多い。どうしても金がかかるからだ。農民はあまり金の価値を理解せず、そんなことより家を手伝えと思っている。それでは国が育たない。これからのことを考えると平民にも教育させたほうがいいのだ。
アントンは学ぶ楽しさを知っている。それをこの国の子供たちにも、と訴えた。もちろん本心では別のことを考えている。
教育はある意味洗脳に近い。学校に通わせてやり、進む道の拓けた彼らはアントンに感謝するだろう。国の根幹となる農業従事者を味方につけるためだ。
アントンが王と貴族の前で農業の話をしたと知ったドゥーシャス公爵が、議会で切り出した。
「陛下、まずは小麦の価格を安定させましょう」
ドゥーシャス公爵の顔は喜びに満ちている。彼と同じことを考えていたシクルシス伯爵もうなずいて同意を示した。
「小麦か……」
しみじみと呟いたのは誰だったのか。
小麦の価格安定は、長年先送りにされてきた議題だった。
パンが主食のこの国で、まず真っ先に価格を一定にしたのは塩だった。塩は人が生きていくために欠かせない栄養素である。幸いこの国は海に面しており、塩に困ることはない。どの地方に行っても安価で流通されるようになった。
小麦はどうかというと、これも国中で作られている。しかしそれが問題だった。どこかの地方で豊作でも、別の地方では不作、ということが起こるからだ。当然価格は変動する。誰だって、高く買ってくれるところに卸したい。結果として飢饉の際に貴族による買い占めが起こり、平民が食糧不足に陥る、ということがまかり通っていた。平民の不満が溜まり、ついに火を吹いたのも一度や二度ではない。
「国が小麦を買い上げ、それを市場に卸せばいいのです。店頭価格は上限を決めておけば飢饉の際にも平民の口に入るでしょう」
買い占めた貴族が領民に分け与えればいいのだが、そういう貴族は少ないのが現実だ。不安感から買い占めたものを手放すのは、人間の心理として難しいのはいうまでもないだろう。
ドゥーシャス公爵の発言に農務大臣も同意した。
「店頭価格と卸値があまりにもかけ離れていることに不満を持つ農家は多くございます。それを解消できるのであれば農民も喜びましょう」
「小麦以外のものを作っている生産者はどうする」
「野菜は季節ごとに作物が違う。今のままでも良かろう。まずは小麦です」
野菜農家をどうするかの問いにはシクルシス伯爵が答えた。飢饉や旱魃でも育つ作物の研究は急務といえる。
「しかし、それでは不作の時はどうします? 価格が変わらないとなれば出し渋る者がでますぞ」
財務大臣が渋い顔をした。国が買い上げるとなると赤字を覚悟しなければならなくなる。
「そうならぬよう、一定価格で買い上げておくのだ。豊作時に買い上げておけば不作の時も賄えるだろう」
なにも買い上げたものを年内に売りさばけと言っているわけではない。市場に出回る量を国が管理すると言っているのだ。
「…………」
今までそれで儲けてきた貴族たちは、当然ながら良い顔をしない。領内の商人を説得するのが手間だと考えている。
表情にこそ出さないが、貴族たちの顔を見た王は苛立つのを感じていた。
アントンが遅れていると言ったのは、こうした旧体制にもあるのだろう。彼の祖国は小麦や塩などの、人が生きていくうえで最低限必要な食料の価格を安定させている。代わりに酒や煙草などの嗜好品などの税金が高いのだ。ついでにいうと医療にかかる費用も安く、優秀な学生への奨学金も国が援助している。
それに比べて我が国はどうだ。王は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。我が国のなんと古いことよ。これではいずれ他国からの圧に圧され、飲みこまれてしまうだろう。
「ドゥーシャス」
王の声に場が畏まった。
「小麦を安定させるための策は」
「はっ。これに」
ドゥーシャス公爵が差し出した資料にうなずいて、王は目を通した。この件については何度も問題として上がり、その度にドゥーシャス公爵が提案してきたことだ。いままでは潰されてきたが、今は違う。絶好の機会を逃すはずがなかった。
ドゥーシャス公爵の資料に載っている商会の名は王でさえ知っているものだった。公爵領贔屓になることなく、なるべく各貴族の顔を立てる形になっている。
「さすがよ、ドゥーシャス。農務大臣と図り、これを実現させよ」
「はっ。必ずや」
ドゥーシャス公爵が喜びを隠しきれない顔で頭を下げた。貴族たちがざわめいたが、王の視線に顔を伏せた。
「これは国家の大事ぞ。幸い我が国は近年豊作で戦もない。こうした大事は国が平和の時こそ行うものだ。危機に瀕してから慌てているようでは遅すぎる」
言ってから、王はアントンの影響を受けているなと自覚した。ここ最近は彼とのやりとりが楽しくてついのめり込んでいる。ふっと笑いが漏れた。
そのアントンは会議に参加する資格がないため、部屋で待機していた。
「おかえりなさいませ、陛下。会議はいかがでしたか」
「お前の言った通り、ドゥーシャスが出てきたぞ」
王が愉快そうに笑うのに、アントンはほっと頬を緩めた。
「ドゥーシャス公爵であればまず間違いはないでしょう」
アントンのドゥーシャス公爵の印象は『国家の要』だ。先王の同腹の弟というだけあって国への意識が極めて高い。高齢だが、そのぶん甥である王にも厳しくすることのできる数少ない人物だ。
自分の敵となるのはドゥーシャスだ、とアントンは見定めていた。人ではなく国に忠義を抱く者はきわめて厄介だ。金ではなく、人の心を優先させるからだ。
たいていの人間は金で動く。欲望というのは際限がなく、持つ者を魅了し、一度道を踏み外せば元には戻れない悪魔めいた力があった。アントンは欲で動く人間のほうが好きだった。わかりやすいぶん、好感が持てる。操りやすいのだ。
対してドゥーシャスは公爵という身分でありながら金に執着しない男だった。生まれた時からあらゆる物に恵まれて、だからこそ人に対して寛容だ。持てる者特有の傲慢なやさしさを自然に身につけている。ノブレス・オブ・リージュは彼のためにあるような言葉だ。
アントンがもっとも嫌悪する類の男だった。憎しみすら抱いている。
嫉妬だとわかっている。だが、ドゥーシャスの寛容さ、周囲へのやさしさが兄たちを彷彿とさせ、アントンを苛立たせるのだ。
アントンも侯爵家の生まれだが三男で家を継ぐ資格はない。それはわかっていたのに兄たちはアントンを恐れ、妬み、排除した。少なくともアントンは兄に疎まれたと思っている。両親ですら庇ってくれなかった。なに一つ与えられないまま捨てられたのだ。その思いがアントンを傷つけ、血を流し続けている。
自分だけが不幸だとは思っていない。恵まれた者がドゥーシャスだけだとも思っていない。ただあの無神経な善意がアントンを苛むのだ。出会ってしまったことが不幸、そういうことになる。
敵として認識した以上、必ずドゥーシャスを潰す。潰さなければ自分が潰されるだけだ。今は手を取り合っていても、ドゥーシャスはこれ以上アントンが国政に絡むのを良しとしないだろう。
アントンの予感はやがて現実になった。
アントンの言を聞いた王が大臣、貴族と図り、実行する。功労者であるアントン・ザントに爵位をと声があがることがあった。しかしドゥーシャス公爵とその一派がそれを阻み、アントンに与えられるのはいくつかの名誉職と年金付きの褒章、それにともなう財産だけだった。
他国者、というのは表向きの理由で、ドゥーシャス公爵はアントンの胸に潜む野心の炎を見抜いていた。このままあの男の言いなりになってしまっては、国が乗っ取られてしまうと危惧したのだ。ドゥーシャスは派閥を組み、アントンの野望を阻んできた。
ここで運命が、アントンの味方をする。
運命、などという曖昧な表現になったのは、そうとしかいいようがない偶然が起きたからだ。
国王が崩御したのである。
まだ四十代の若さであった。
最大の理解者を失ったアントンは、悲しむよりも憤った。ここまで来て、なぜ。置いて行かれた、裏切られた気分だった。
「……まだだ、まだ」
こんなところでは終われない。王の改革はいまだ道半ばだ。王が死んでも、次がいるではないか。
次期国王は二十代、父王の早すぎる死に狼狽えるばかりの頼りない若造だった。
アントンは彼に近づいた。
元より王の信認を受けていたアントンである。その立場を利用して新王を庇護し、頼りないと白い目を向ける周囲から彼を守ってやった。慣れない政治に疲れ切った彼に息抜きを覚えさせ、ドゥーシャスよりもアントンだ、と心を傾けさせる。
ドゥーシャスの小言や耳に痛い諌言に自信を失った王は、狙い通りアントンに傾倒した。ドゥーシャスたちから逃げるための快楽は王を夢中にさせた。
はじめは本当に逃げるだけだった。ドゥーシャスや臣下たちの待つ謁見を遠乗りと称して引き延ばし、慌てふためく様を見て楽しむ。夜会ではこっそり賭博を覚えさせた。今まで王太子としてきっちり管理されていた彼は、人を振り回す楽しさを知ってしまったのだ。ざまあみろ、と溜飲を下げたことだろう。
ドゥーシャスの叱責などもはや追い風にしかならず、彼から逃げるために王はますます享楽にのめり込んでいった。
ドゥーシャスの正しさは、ふがいなさを自覚している王にとって毒でしかないのだ。王はドゥーシャスを遠ざけ、後始末をしてくれるアントンに縋りついた。
アントンが最後に教えた快楽、遊びは女だった。
王妃となった女性はまだ子を産んでいなかった。とある国の王女で気位が高く、日に日にだらしなくなっていく夫に幻滅したらしい。ドゥーシャス公爵夫人と仲の良い彼女はドゥーシャス公爵に代わって王を責めた。彼女にしてみれば、王に即位したくせになに一つ、子供の一人も成していない夫に危機感を抱いていたのだ。
なにより王の母、つまりは姑になぜか王妃が責められている。あなたがもっとしっかりしてくれないと。早く子供を産んでみんなを安心させてくれ。夫が夜遊びに走るのはあなたに魅力がないからだ。
王太后には王太后の言い分があるだろう。姑として、なによりかわいい息子を奪った女にちょっと嫌味を言っている程度に思っていたのかもしれない。
だが結果的に、それは女の闘いにゴングを鳴らしただけだった。そして王はそこから逃げるように側室を作った。アントンが紹介した女性は伯爵令嬢で、自分の価値をよくわかっている女だった。一番高く自分を買ってくれる男として王のものになり、その対価として夜の夢を支払った。王太后や王妃にもなかった甘い言葉と思いやり。これだけで、彼女は側室となり、王の子を産んだ。
王に種があることが証明されたわけだが、これにショックを受けたのは王妃だ。自分のところに来ない夜、夫が別の女を抱いているのである。わかっていてもこうして子供という形になると、彼女の女としてのプライドは酷く傷ついた。
それみたことかと王妃を嘲笑っていた王太后も、次から次へと側室を作る王にこれはまずいとようやく気づいた。
王宮で半生を過ごした女は王宮の恐ろしさを身に沁みて知っている。このまま王妃が男子を産まなければ、王族同士、血で血を洗う争いが繰り広げられるだろう。
幸か不幸か、王は我が子を愛している。王太后は言った。
「子供たちを死なせたくなければ、王妃のもとに通いなさい」
言葉の意味がわからないほど王は馬鹿ではなかった。彼もまた王宮で育ったのである。王の寵愛がどの妃にあろうとも、王太子という身分は揺るがない。その重石があるかないかでは、争いが小火で済むか、王宮延焼になるか、大きく変わってくるのだ。
王が王宮で右往左往している間に、後始末係だったアントンが宰相に就任した。王を探すよりアントンに直接仕事を持って行ったほうが早いと大臣や貴族が気づいたからである。
王をそのような立場に追いやった張本人だとわかっていたが、現実にアントンは役に立った。なんといっても彼はドゥーシャス公爵と違い、融通が利く。賄賂も、コネも、醜聞の揉み消しも、アントンが「なんとかしましょう」と言えばなんとかなった。ドゥーシャスよりよほど使い勝手が良かったのである。
アントンが宰相になった頃、ドゥーシャス公爵家でも代替わりがあった。
後を継いだカノプス・ドゥーシャス侯爵は王家を見限ったのか親しみを見せず、良識派も王家に一歩引いた態度を取るようになっていった。
勝利を確信したアントンの次の手は、子供を作ることだった。王宮に入れた側室たちから王が王妃の元に通っていると摑んでいたアントンは、王太子の側近となる子供が必要になると考えたのだ。
その頃のアントンは膨れ上がった財産で宰相にふさわしい屋敷を建てて住んでいた。彼と繋がりを持ちたい貴族や商人が娘を差し出し、愛人とその子もいる。
結婚しなかったのは意地かもしれない。貴族令嬢にも、裕福な商家の娘にも、アントンは愛を注がなかった。彼の中には空虚な穴がぽっかりと開き、金でも愛でも満たされることがなかった。
やがて王妃が男子を生み、アントンは同時期に男子を生んだ女と結婚した。彼女は男爵令嬢の五女で、フェリクス・リントンの口利きでやってきたメイドだった。まだ少女といえる年頃の娘ははじめこそ怯えていたが、今までの女にそうしていたように愛を囁きやさしく体を拓くとたちまちアントンに恋をした。
今までの女と違ったのは、ジュリアスを生んで結婚したことで、自分が一番愛されていると思い込んでしまったことだ。しがない男爵令嬢の五女が今をときめく宰相に愛されて結ばれる。陳腐な恋愛小説のようなサクセスストーリーにすっかり酔いしれた。
アントンのミスは、そんな妻に子育てを任せてしまったことだろう。おかげでジュリアスは、少し夢見がちな、アントンの期待とは裏腹なまっすぐな少年に育ってしまったのだ。忙しさにかまけて息子をないがしろにしていた父親は、たまに顔を見せては息子に文句をつける、典型的な『ダメ親父』になっていた。
「ドゥーシャスの子はジュリアスより五歳も上。このままでは宰相の座はドゥーシャス公爵家に取られてしまうぞ」
アントン・ザントの野望はこの国にザント家を根付かせ、永遠に繁栄することだ。爵位はなくともアントンには財がある。今なら議員や貴族を買収することも可能だ。
それをしないのはアントンのプライドだった。彼は平民ではなく貴族に生まれた。貴族というのがいかなるものか、爵位がどれほどの重みを持つのか知っている。
貴族の当主ともなれば領地に領民、彼らを動かす臣下がつく。だが、たとえ兄弟であろうとも当主とそれ以外では天と地ほどの差があるのだ。だからこそ、兄たちはアントンを追い出した。
恵まれた青春時代だったとは思う。勉学において金銭面での苦労はまったくなかった。恋はしなかったが友人はできた。
輝くほどの青春を過ごして家に帰ったアントンを待っていたのが兄たちからの追放である。あまりの落差に若者は絶望した。愛されていると思っていた両親でさえ、追放する弟の優秀さを褒め称える兄の悪意に気づいてくれなかった。
あの日以来、アントンは兄を見返すことに執念を燃やし続けた。兄たちを遥かな高みから嗤って見下ろしてやるのだ。血の繋がった家族でさえ邪魔になれば容易く家族を捨てる。その恨みがアントンに愛を拒絶させていた。
今はアントンが政治を掌握しているが、ドゥーシャス公爵家は必ず巻き返しにくる。隙を見せるわけにはいかなかった。
せっかく王太子の側近という駒を手に入れたのだ。肝心の駒が使い物にならないようでは話にならない。
「私がお前くらいの頃にはすでに大学から声がかかっていたぞ。セイリオスにも劣るとは、それでも私の息子か」
冷たく吐き捨てられたジュリアスはびくりと体を縮ませ、涙を浮かべた。これしきのことで泣きだすとは、ますます期待外れだ。
「セイリオス・ドゥーシャスは必ず我が家の敵になる。泣いている暇があったら勉強しろ」
「はい、父上」
泣きながら勉強している幼い息子を見てもなにも感じなかった。自分があれくらいの頃は勉強が楽しくて仕方がなかったものだ。なぜこんな子供の勉強程度でつまづくのか、アントンはため息と共に苛立ちを吐き出した。
セイリオス・ドゥーシャスは父のカノプスに倣い王家とは線を引き、あまたの王女との婚約をすべて蹴ってシクルシス伯爵令嬢と婚約を結んだ。
シクルシス伯爵とドゥーシャス公爵は親友で、その子供たちは幼馴染だという。家格の違いを跳ねのけてまでとなると、よほどシクルシス伯爵令嬢を愛しているか、王家との関係を強めることを嫌ったかになる。
アントンは後者だと解釈した。少年の恋など熱病みたいなものだ。熱に浮かされても冷めればそれまで。幼馴染であれば王家避けの政略結婚だろう。
そう思っていたある日、王に呼ばれた。珍しいことに王妃も一緒だった。
「アントン、困ったことになった」
蒼ざめた王に、アントンは顔に出さずに笑う。何度目だ、王の困りごとは。毎回アントンが解決してきた。アントンのやることなら間違いない、と王もわかっている。
王家の証である赤い瞳にはアントンに対する反抗心が浮かんでいるが、人臣の心が離れている王が頼れるのはもはやアントンだけだった。
「何事が王の御心を悩ませているのでしょうか」
「……エリックが、アイリーン・シクルシス伯爵令嬢と婚約したいと言い出した」
王の言葉を理解するのに瞬き一つの時間を要した。
「……王よ、それはなりません」
「わかっている。なんとか諦めさせたいのだが……」
あの馬鹿王子、余計なことしやがって。アントンは心の中でエリックを罵倒した。
先日大々的に開かれた王太子の誕生日パーティで、エリックはアイリーンに会っている。さすがに王太子を祝福する場を欠席するわけにもいかず、シクルシス伯爵家とドゥーシャス公爵家も来ていたのだ。あまり会話は弾んでいないようだったが、アイリーンの美貌に見惚れていたのは気づいていた。
おそらくなにも考えずに初恋の少女を望んだのだろうが、相手が悪すぎる。アイリーンの後ろにはドゥーシャス公爵家がついているのだ。彼女に手を出せば、ドゥーシャスが黙っていまい。
「王太子妃とするにはシクルシス伯爵令嬢ではいささか劣ります。殿下には王太子として、しかるべき国の姫君と婚姻を結んでいただくのが国のためかと」
「それも言ったのですが、エリックは意固地になるばかりで……」
王妃がため息を吐きつつ途方に暮れた。
甘やかすからだ。罵倒が表に出ないよう、困り果てた苦笑を浮かべる。
「わかりました。殿下と話をしてみましょう」
王太子のエリックには、親である王と王妃でさえ気を使っている。王は数多の側室と兄弟がいる環境に負い目を感じ、王妃はエリックに期待するあまりに我が子の周囲を早くから囲ませてしまったと後悔していた。
本来ならもっと伸びやかに、視野が広くなるよう様々な人や物事に触れさせて育てるものだ。興味を抱いた分野の学者を招いたり、外遊や公務で外国に連れていったりと、思考と想像力を重視する。
そうしなかったのは単純に王家の金庫が空なのと、次期王太子争いが激化している最中に生まれてしまった不運だった。
王妃の胎から生まれたエリックこそ正統な王太子である。今まで王位という甘美な夢を見せられていた兄たちにしてみれば、いきなりやってきたエリックにすべてを掻っ攫われたようなものだ。彼らを後援していた貴族たちは潮が引くように王太子争いから手を引いた。社交でよそよそしくなり、支援がなくなって自由に使えていた金が激減した。あまりの差に愕然となったことだろう。
恨みは当然エリックに向かう。そして王は、そんな子供たちに詫びることもできない。
王妃はもっと切実だった。彼女はエリックが胎にいた頃から身の危険を感じてきた。何人もの毒味役と護衛を雇い、それでも足りずに祖国の父に頼んで医師を派遣させ、彼にしか診断をさせない徹底ぶりだった。
エリックが生まれてからはさらに過激になった。まだ身分のなんたるか、王宮がどういう場所なのかも知らぬ、年端もいかないエリックと同い年の子供たちを呼び寄せてエリックの『友人』にした。アントンの息子ジュリアスもその一人だ。友人という名の人質である。
「ジュリアス」
「ち、父上……!」
エリックは頭ごなしに反対されてふてくされ、部屋に閉じこもっている。控えの間にはエリックの側近となる子供たちと護衛、女官が困り顔を見合わせていた。
「父上ではない。王宮では宰相、もしくは閣下と呼ぶように」
「は、はい」
開口一番叱られて、ジュリアスがしょんぼりと肩を落とす。そのわかりやすさにアントンはため息を吐きたくなった。
「殿下は、中か」
「はい」
「シクルシス伯爵令嬢のことで?」
「はい」
今度こそため息が出た。
「宰相閣下、私もあのような殿下ははじめてです。なんとか叶えて差し上げられませんか」
ジュリアスが言ったのを皮切りに、子供たちが口々にエリックを擁護した。
「わ、私からもお願いします! 殿下は本気なんです!」
「殿下は王太子なのですから、婚約者はご自分で決めるものなのではありませんか」
「本当に、シクルシス伯爵令嬢を愛しているのですよ!」
お願いします! とジュリアスたちが頭を下げるのを、アントンは冷たく見下した。
たかが子供の初恋で簡単に頭を下げるなと怒鳴りつけてやりたかった。それでも私の子か。王太子一人操れずに、これでは先が思いやられる。
「王太子だからです」
アントンは扉の向こうに聞かせる声で言った。
「王太子だからこそ、婚姻による結びつきは重要になります。殿下、聞いておられるのでしょう。たかが伯爵令嬢が王妃になるなど、臣民が納得するものでしょうか?」
「アイリーンのなにが不満だ!」
扉の向こうからエリックが怒鳴った。
「令嬢の個人的な才は関係ありません。身分の問題なのです。どうしてもとおっしゃるのであれば、側室になさればよろしい」
自分の生まれと父親のことを考えてみろ。アントンの突き放した言葉には鋭い棘が含まれていた。
姑と側室に挟まれ苦しんでいる母と、自分を厄介者扱いする兄を持つ子供に、どんな影響を与えるのか考えもしない。
「シクルシス伯爵令嬢はすでにドゥーシャス公爵家の嫡男セイリオス殿と婚約しております。王がお認めになった婚約を、殿下の我儘で破棄するわけにはいかないのです」
「…………」
「ですので、まずはセイリオス殿と結婚させ、その後側室に召し上げればいいのです。何事も順序というものがございます」
「それではアイリーンはセイリオスの妻ではないか」
「さようでございます。ですが、シクルシス伯爵令嬢とセイリオス殿はまことの恋仲であると、もっぱらの噂でございます。殿下のお気持ちを叶えるのであれば、そのような二人を引き裂くことになりますが?」
エリックが息を飲む気配がした。
王と王妃はここまではっきり言わなかったのだろう。ジュリアスたちも今さらのように気まずそうにしている。
アイリーンはドゥーシャス公爵家の息子と婚約している。良識派最大の有力貴族を敵に回すつもりかと言われても、エリックは納得などできなかったに違いない。派閥争いがわからないほど愚かではないが、それならなおさらアイリーンと婚約して王家と良識派の繋がりを強くすればいいと訴えたのだ。
単なる権力争いではないのだ。面倒なことにセイリオスとアイリーンは相思相愛、心という、人の持つ非常に厄介な感情が絡んでいる。
ここで二人を引き裂けば、確実に王家は恨まれる。
セイリオスもそうだが、アイリーンは絶対に許さないだろう。相手に幻滅して終わった恋ならともかく、強引に引き裂かれた恋では女は生涯忘れないし許さない。男なら女をある種神聖化して心の中に住まわせ、別の女を愛することができるが、女はそうではない。現状と重ね合わせて自分ならああする、自分ならこうする、と空想してしまう。幸福でなければなおさら過去の男で慰めようとするはずだ。そして、恨みは自分をそのような状況に追い込んだ男と、止めなかったアントンにまで及ぶだろう。下手をするとドゥーシャス公爵家と手を組んで牙を剝きかねない。アイリーンは危険なのだ。
目に見えている地雷になぜわざわざ突っ込んでいく真似をするのか、アントンには理解できなかった。
「殿下、男なら、惚れた女のために身を引くのも愛でございますぞ」
意外なことに、エリックにこう言ったのはアントンだった。ただしアントンの諌言は、初恋を自覚したばかりの少年には酷すぎた。正直に告白して玉砕してこい、と言ってやれば、エリックは案外素直に従っていたかもしれない。
この時のエリックには、恋を実らせたセイリオスと比べてどうしてだ、という理不尽にしか聞こえなかった。
エリックの啜り泣きに舌打ちしたい気分になったアントンは、話は終わった、と思った。
そうではなかったと知ったのは、セイリオスが失踪してからである。
アントンはエリックを慰めるために自分の娘を差し出そうかと思案中であった。認知していない妾腹の娘だが、だからこそ遠慮なく使い捨てにできる。娘のほうも社交界に出して都合の良い男を捕まえるよう仕込んでおいた。愛人とはいえアントンは宰相だ、日陰者ではなくそれなりの待遇をしておいたのはそのためである。
女の味を知れば失恋など容易く忘れるだろう。いずれ心を伴わない行為に虚しさを覚えるだろうが、一度強烈な快感を知ってしまえば体は求めるものだ。
そこにセイリオスの失踪。アントンの出鼻はくじかれた。その上、
「父上、お助け下さい」
セイリオスを害したのが息子たちエリックの側近だという告白に卒倒しそうになった。
「詳しく説明しろ」
怒気を孕んだ父親の低い声に、真っ青になったジュリアスが途切れ途切れに白状した。
「で、殿下が……。セイリオス様さえいなければとお嘆きになったのです。我らを信頼してくださってのこと、なんとしてもお力にならねばと思い、セイリオス様に直談判したのですが、断られ……」
その時のことを思い出したのか、ジュリアスが体を震わせた。
「それで」
「こ、子供を、諭すような口調でした。私とて、なにも知らないわけではありません。ド、ドゥーシャス公爵家がどういう存在なのか、わかっているつもりです。そ、それを……」
笑われたのだ。セイリオスの態度はまったく聞き分けのない子供に対するものであった。エリックの側近として敬われ、大人にも負けていないと意気込んでいたジュリアスたちはカッとなった。
「最初に! 最初に剣を抜いたのはクロードです! ほんの少し、お、脅すだけのはずでした! それが!」
「殺したのか」
「いいえ! わか、わかりません。血が、流れて、怖くなって……!」
アントンはジュリアスを殴りつけるとすぐに部屋を出た。ジュリアスに関心を払わず、息子の様子がおかしくなっていたのに気づかなかったアントンのミスである。
「旦那様?」
「ジュリアスを謹慎させろ! 家から一歩も出すな!」
執事が困惑しながら聞いてきた。
「いつまででしょう?」
「私が良いと言うまでだ!」
余計なことをしてくれた。アントンは怒りに任せて殴ったことを後悔しなかった。どうせならきちんと殺していれば良かったのに、おそらく血まみれになったセイリオスを見て我に返ってしまったのだろう。詰めが甘すぎる。
セイリオスは生きているに違いない。失踪騒ぎは犯人であるジュリアスたちへの警告だ。自首してくるのを待っているのだ。
もちろん自首させるわけにはいかなかった。ジュリアスだけならまだしも、他の側近は高位貴族の子息である。今になってジュリアスが言い出したということは、他の家はまだ知らないか、狼狽しているのだろう。
それにしても遅い。致命的なほど知るのが遅すぎた。今から手を打つにしてもできることが限られている。ドゥーシャス公爵家の反撃を予想して迎え撃つにはあまりにも情報が遅かった。
「クソ……!」
らしからぬ悪態をついたアントンは王宮に馬車を走らせ、側近の親を召集した。やはり彼らは事の真相を知らず、アントンの報告に蒼ざめた。
セイリオスが子供たちに襲撃され、逃げたもののどこかで死んでいてくれたほうが――良いと言ってはいけないが、まだ良かった。知らぬ存ぜぬを貫けばいいだけだからだ。
だが生きていて、しかも動機まで知っているとなると厄介だ。ドゥーシャス公爵家は完全に敵に回った。アントンがドゥーシャスを嫌い、それでも消すのではなく遠ざけたのとはわけが違う。
恨まれたのだ。
嫌悪と怨恨は種類が違う。嫌悪は個人的感情で、きっかけがあれば逆転して好感を抱くこともある。相手に勝利すれば綺麗に消え去るだろう。
恨みの感情は消えることがない。それどころか代々続く可能性すらあった。
アントンは人に嫌われることは厭わなかったが、恨みは買わないように気をつけてきた。恨みの念がどれほど恐ろしいか知っているからだ。自分の身に置き換えてみればわかる。いまだに兄のしたことを許せず、位人臣を極めることで恨みを晴らそうとしている。すべては兄二人を見返すため。アントンはその恨みを野望に変えて登り詰めてきた。
「良識派の貴族に知られたら、一気に攻勢に出られますぞ」
誰もが気づいていながら恐ろしさに言い出せずにいたことを、アントンはあえて口にした。
ごくり、と喉を鳴らしたのはクロードの父親で近衛騎士団長ヴィクトールである。
「近衛も捜索に加わってセイリオス殿を探しております」
ヴィクトールはなんとか近衛がセイリオスを発見し、その功でもってドゥーシャス公爵家に慈悲を乞うつもりなのだろう。アントンはしかしそんな甘さを否定した。
「セイリオス・ドゥーシャスを発見したら、死亡していたと報告していただきたい」
殺せ、という意味である。ヴィクトールが息を飲んだ。吹き出した汗が額を伝う。
「な……」
「セイリオスは王宮に忍び込んだ賊によって殺害され、遺体を捨てられたのです。よろしいか、発見するのは遺体でなければならないのです」
側近の親たちは、アントンの言わんとすることを理解して顔を見合わせた。
ドゥーシャス公爵家に反撃されないためには、犯人はどこの誰とも知れない賊にするしかないのだ。そして、そのためには真実を知るセイリオス死んでもらわなければならなかった。
「家を保つためには綺麗事など言っている場合ではありませんぞ。我々は、もはや窮地に立っているのです」
それは、と反対しようとした者も口を噤むしかない。自家より上位の貴族を攻撃しておいて、赦しを得ようなど考えが甘いのだ。
「元はといえばエリック殿下のアイリーン・シクルシス伯爵令嬢への横恋慕が発端です。このことはすでにシクルシス伯爵もご存知でしょう。我々にできる手段はこれしかありません」
アントンが断言したことに、ヴィクトール以外の者がほっとしていた。頭で理解していても、騎士としての潔癖な矜持は納得できないらしい。
「王家とドゥーシャス公爵家の対立が表面化すれば、国を揺るがすことになります。それだけは避けなければ……」
アントンはわざとらしく嘆いてみせた。ヴィクトールが沈痛な面持ちでうなずいた。
王家とドゥーシャス公爵家が対立すれば、血が流れる。エリックの兄王子を擁する貴族が剣を取って争うだろう。そうなれば、ヴィクトールの息子も巻き込まれる。
王への忠誠と息子への情を、見事に突いた言葉だった。
ヴィクトールが歯を食いしばり、拳を握ったのを確認し、アントンは緘口令を敷いた。
「……各々方、くれぐれもセイリオス・ドゥーシャスを見逃さぬように。彼は、生きていてはならないのです。なによりこのことが知られればお家断絶は免れません。殿下のためにも、誓っていただきたい」
アントンが頭を下げた。この狡猾な宰相が頭を下げて頼んだことで、親たちも同意せざるを得なかった。本来なら自分たちが言い出さなければならなかったことをアントンに言わせた、という後ろめたさがある。高位貴族の自分たちが、貴族でもない宰相にすべてを押し付けたのだ。ならば一蓮托生もしかたがないこと。これで彼らはアントンに逆らうことができなくなった。
とはいえやはりジュリアスが黙っていた期間の遅れは致命的な痛手だった。アントンが張り巡らせた捜査網に引っかかることなく、セイリオス・ドゥーシャスは完璧に姿を消していた。
エリックとアイリーンの婚約が成立したのはそれから一年後のことである。
ジュリアスは父の怒りと謹慎がよほど堪えたのか、アントンに相談事を持ちかけることはなくなった。他の側近たちも家に迷惑をかけた自覚があるのか、余計なことはせず、黙ってエリックの傍に侍るようになった。
余計なことならまだいいが、適切な報告もしなくなった。
アイリーンはあきらかに不本意といった態度を隠さず、祝福する周囲に応じつつも笑みを見せなくなった。エリックに対しても同じで、口数少なく、けして笑わず、つまらなそうにぼんやりしているか、友人の影に隠れているようになっていった。
女の心すらコントロールできない子供の王太子。エリックはあれから成長しておらず、それどころかジュリアスたちが『エリックのために』やらかしたことに気づいていないようだった。
「殿下、よろしいですか。伯爵令嬢を王太子妃、ひいては王妃にするのであれば、まず殿下が臣民の見本となる王でなければなりません」
色々と頭が痛いが、アントンは念願かなって浮かれるエリックに釘を刺した。
「うむ、わかっている」
絶対にわかっていない。むしろアイリーンを手に入れたことで、自分の願いは結局すべて叶うのだと勘違いしていそうである。
「むろん、シクルシス伯爵令嬢にも王妃の心得を学んでいただきますが、身分の低い生まれの王妃となると他国の目は厳しくなりましょう。シクルシス伯爵令嬢を守るのは自分であるとしっかり自覚した行動を心掛けてください」
「わかっていると言っておろう。心配性だな、アントンは」
安心できる要素がどこにもないから言っているのだ。
アイリーンが笑わないのは王太子との婚約に緊張しているからだと思っているらしい。無駄な前向きさがとんでもない方向に飛び火しそうで、アントンは不快になった。
兄王子たちに邪険にされ、命の危機さえあったというのに、恋は盲目かアイリーンとの婚約に酔いしれるエリックは恨まれることの恐ろしさを忘れたようだ。おまけに王妃が流した「シクルシス伯爵がアイリーンを説得した」という噂のせいで、シクルシス伯爵は味方だと思い込んでいる。
そんな都合良くいくか、とアントンは色惚けするエリックに怒鳴りつけたくなる。
アイリーンとシクルシス伯爵の目を見てみろ。あれは緊張ではなく呆れと軽蔑だ。諦めてすらいない。あれは復讐を心に決めた者の瞳である。
このままエリックに調子づかれては困る。エリックには、父王と同じ傀儡になってもらう予定なのだ。
学院に入学するまであと二年ある。その間にエリックの頭を押さえつけておこう。
アントンはアイリーンを利用することに決めた。
◇
「メグレスを?」
エリックに話を持ち掛けられたシクルシス伯爵は、つい眉を顰めそうになり、慌てて耐えた。
「うむ。将来の義弟だからな。側近として召し上げよう」
エリックは名案といわんばかりだ。
これからアイリーンは王太子妃としての教育がはじまることになっている。場所は王宮だ。王妃と高位貴族の夫人が教育係として付く予定だった。
「アイリーンも一人で王宮に通うのは心細かろう。メグレスと一緒に来ればいい」
「なるほど……。お心遣い、ありがとうございます」
頭を下げるシクルシス伯爵だが、エリックにこうした気遣いができるとは思っていない。
伯爵令嬢が王太子の婚約者など、他の令嬢にしてみれば妬みの対象でしかない。特にアイリーンはセイリオスと婚約していた事実があった。なおさら当たりは強いだろう。一人で王宮に通えば虐められる可能性があった。それを考えるとエリックはアイリーンを思ってくれているのだと取れる。
だが。
「メグレスはアイリーンに懐いております。姉を盗られると嫉妬して生意気を言ってもご容赦ください」
「はは、そうなのか。かわいい弟なのだな。……羨ましいよ」
囁くような語尾にシクルシス伯爵が痛ましげに目を細める。
エリックと異母兄弟の仲は一向に良くなる気配がなかった。アイリーンと婚約したことで、水面下では悪化の一途をたどっている。
結婚とはすなわち血を繋ぐ行為だ。エリックを上手く排除できても、アイリーンの胎に子供がいたら、その子が男子であったら、王位継承権は当然その子に行く。兄たちはさぞかしやきもきしているのだろう。
弟にしても他人事ではない。王の子でありながら平等ではない、というのは歪みを生じさせるのに十分な理由だった。
孤独なのだろう。その点では同情の余地があるが、だからといってアイリーンが犠牲になる謂れはなかった。
正論と同情、そして王太子の召喚で断れないようにする。エリックの後ろにアントンがいることを察したシクルシス伯爵は、にこやかに承諾した。
◇
アイリーンがメグレスを連れて王宮に通うようになると、ドゥーシャス公爵が社交から遠ざかるようになった。
セイリオスが失踪してからはドゥーシャス公爵夫人の心痛を慮って控えていたが、社交は情報交換の場でもある。夫人が出なくても公爵本人は出席していた。
「ジュリアス、メグレス・シクルシスは殿下と上手くやっているのか?」
「はい。義兄とは認めない、と宣言していましたが、明るく話し上手ですので殿下もかわいがっております」
「…………」
アントンは舌打ちした。メグレスを人質に取ったつもりが、どうやら彼はスパイ活動に励んでいるようだ。エリックも周囲も、幼いメグレスの無邪気さについ口を滑らせるのだろう。
「父上?」
外すか。いや、来いと言ったのはこちらだ。情報を抜かれたからとすぐに遠ざければ子供に怯えたと侮られる。
子煩悩だと思っていたが、シクルシス伯爵はずいぶん冷静にメグレスを使ってきた。
「セイリオスのことは、何か言っていたか?」
ジュリアスの顔が固くなった。
「いいえ……。そういえば、メグレスの口からセイリオス様の話を聞いたことがありません」
目を反らしながらジュリアスが言うには、メグレスは王宮女官の噂話や王都で流行しているものの話はするものの、アイリーンやセイリオスの話はしないという。
「殿下はアイリーン様の話を聞きたがるのですが、姉上は渡さない、お嫁になんか行かないと駄々をこねてばかりです」
まさに、子供だからで許されてしまう横暴だ。
「そうか」
「アイリーン様が、その……、殿下にそっけないぶん、メグレスには救われる思いですね。なんだかんだ、気が楽です」
なるほど。ジュリアスを下がらせたアントンはソファで思案に沈んだ。メグレスとアイリーンで飴と鞭を使い分け、エリックと側近を油断させているわけだ。それにまんまと嵌っている息子も腹立たしいが、シクルシス伯爵が一枚上手だったのだろう。
ドゥーシャス公爵は跡取りが失踪し、メグレスを養子に迎えるのではという話が出ている。通常なら親戚に持っていく話だ。正式な届け出はまだだが、噂を裏付けるようにメグレスがドゥーシャス公爵家を頻繁に訪問している。公爵夫人を慰めるためという名目で、おそらくセイリオスとのやりとりをしているのだろう。そのくせセイリオスは影も形も見せない。
いっそ不自然なほどセイリオスは出てこないのだ。不気味ですらあった。あれほど華やかな見た目の男がこうも隠れていられるものなのだろうか、アントンは疑問に思い、他国にも捜査の手を伸ばしている。それでも見つからないのだ。
ドゥーシャス公爵家の動きは密偵のメイドから報告を受けている。最近になって植物収集家を他国から招いて、海の向こうにある旱魃に強い作物を集めさせているという話だ。その植物収集家について調べると他国の庭師の息子で好きが高じてあちこち旅をしながら収集に励んでいるらしい。
ここでアントンが自ら確認していれば気づいただろうが、セイリオスはきっちり他国の身分証を手に入れていた。髪の色を変え、入国する時には色付き眼鏡で目の色をごまかす念の入れようだった。
この時点でアントン・ザントが懸念したのはドゥーシャス公爵領の独立ではなく、ドゥーシャスとシクルシスが手を組んでの革命であった。良識派の貴族が血を流すことを良しとしない可能性もあるが、民衆を煽っての襲撃やザント家排除に動く可能性はある。
もう一つ、亡命という手もあるが、アイリーンがエリックの婚約者になった以上、どこの国も受け入れることはないだろう。明確な非が王家になければアイリーンだけ送り返されることもありうる。
いずれにせよ、シクルシスがドゥーシャスと離れることはないと見ていい。
貴族とは、土地と国に根付いてこそだ。歴史と伝統を築き、国に貢献し、民を安堵させることで成り立つ。ただそこに長く住んでいれば良いというものではないのだ。貴族は貴族の血と誇りを持って生まれた者だけが貴族になれるのだ。
アントンは他国出身者だがこの国のどの貴族よりも貢献してきた。ここまで上り詰めて、蹴り落とされるわけにはいかない。
「シクルシスがドゥーシャスと離れないのならそれで良い。両方まとめて始末するだけだ」
――皮肉なことに、アントンの野望は叶うことになる。ドゥーシャス公爵領の独立、という最悪の形でドゥーシャスとシクルシスはアントンの前から消えた。
◇
アントン・ザントが唯一認知した子供、ジュリアス・ザントが妻にと選んだのは、ちっぽけな地方の子爵令嬢だった。
「レナリア・スティビーと申します。どうぞよしなに」
ぴしっとカーテシーを決めたレナリアは、宰相への婚約報告だというのに貧しさが窺える中古のドレス姿だった。
はじめまして、でも、お久しぶりです、でもない。アントンとレナリアは毎日顔を合わせている。
国王に即位したエリックがもっとも信頼を寄せる王宮女官、それがレナリア・スティビーであった。
そして、アントンの『天敵』でもあった。
レナリアの行動は、アントンには読めないのだ。彼女が何を考え、なぜそうしたのか、まったく理解できなかった。シクルシスやドゥーシャスとはまったく別の意味で、苦手なタイプの人間だ。
「彼女、レナリアと結婚します」
どことなく誇らしげに言い切ったジュリアスに、アントンは卒倒しそうになった。
彼女がなにをしたのか知らないアントンではない。
はっきりいって、アントンの計画をぶち壊してくれたのはレナリアだ。
エリックをこきおろしたかと思えばアイリーンに一歩も引かずに戦ってみせ、あのセイリオスさえ退けた。あの時レナリアがエリックに入れ知恵さえしなければ、アントンは軍を動かしてドゥーシャスとシクルシスを捕らえることができただろう。追放どころか国家反逆罪で処刑できたのだ。
女傑。エリックの懐刀。腹心。女官になってからもレナリアの快進撃は続いていた。エリックが真面目に公務を取り行っているのは、レナリアに尻を叩かれているからだともっぱらの評判だ。
「な、にを勝手に……! 王女殿下との婚約話を進めているのを忘れたか!」
アントンの怒声にジュリアスは肩を竦めただけだった。
「アナベル王女でしたら、すでに意中の方がいらっしゃいます」
紅茶の名産を答えるような口調でレナリアが言った。彼女には周知の事実であるらしい。
「ええ。ですので婚約のお話はないとアナベル殿下には説明いたしました」
「な……」
息子の明確な反抗にアントンは頭が真っ白になる。
「王宮ではそういう噂が広がるの早いんですよ」
宰相が知らないほうが驚きだ。レナリアはアントンの情報の遅さに驚いたようだった。
アントンがジュリアスと婚約させようとしていた王女は泣いて嫌がり、想い人に告白したのだとレナリアが告げる。
「アイリーン様のことで反省なさった陛下が、力になるとおっしゃってくださいました」
子供のすることだと甘く見て、痛い目に遭ったのがアントンと王家である。エリックの成長をレナリアは嬉しく思った。
人の心を蔑ろにして、思い通りに進めても、必ずどこかで報いが来るのだ。即位してからのエリックは父王と同じくアントンの操り人形だったが、できる範囲で手を差し伸べていた。妹姫の恋を応援するのも、相手が彼女を憎からず想っているのを知っていたからである。嫁き遅れにでもならない限り、政略結婚はさせたくないと言っていた。
「父上、昔陛下に言ったことを覚えていますか? 母上の実家は男爵家ですよ、身分を考えれば王女殿下を降嫁させるなど不遜すぎます」
伯爵令嬢が王妃では身分が低いと言ったのはアントンである。自分の言葉が返ってきたことに、アントンは愕然とした。
「レナリアの実家は子爵家ですから、順当といったところでしょう」
ジュリアスが勝ち誇った笑みを浮かべた。
「お前は……貴族を、宰相を、なんだと思って……」
掠れ声のアントンに、ジュリアスが鋭い視線を向ける。
「レナリアこそ貴族です。他人に親切で時に厳しく、常に誇りを忘れない。自分のためではなく、世のため人のために力を尽くす。それこそが貴族でしょう」
アントンが獲得した宰相位など、卑怯な手段で王を傀儡にして成り立つものではないか。ジュリアスが後を継いだところで貴族に良いように使い潰されるのが関の山だ。
「その娘を娶るなら勘当するぞ!」
「父上」
ジュリアスが父親の正面に立った。
そういえば、息子とまっすぐに向き合ったことがあっただろうか、とアントンは思った。いつの間にか父の身長を越え、若く精悍な顔つきになっている。目元はアントンによく似ているが、その瞳はまるで知らない男と対峙しているかのようだった。
「私は、私です。あなたの夢を、私に押し付けないでいただきたい」
レナリアの手を取ったジュリアスが、まぶしいものを見るように目を細めた。
「勘当、おおいに結構。私は陛下の側近としての職もありますし、家を出されたところで困ることはありません」
「ジュリアス!」
決別の言葉にアントンは絶望の叫びをあげた。血を分けた家族に捨てられる痛みが古傷を再び切り付ける。
父親の叫びにもジュリアスは冷めたままだった。レナリアがため息を吐き、彼の手を振り払った。
「レナリア?」
「ジュリアス様、本当に私と結婚したいのなら、父親をきちんと説得してください」
「父を説得など時間の無駄だ。陛下すら無視して事を進める人だぞ、君の身が危ない」
「私だって別に結婚しなくても困らないんですよ、ジュリアス様。結婚するのなら祝福して欲しいんです。というか、父親一人説得できない男はちょっと……」
「レ、レナリア……」
これだから駄目なのだ、というような目でレナリアはアントンとジュリアスを眺める。相互理解のための歩み寄りこそあの時足りないものだった。そんなこともわからないのか、という目で見られ、アントンはつい目を反らしてしまった。
なぜこんな女に、という思いと、ああ息子の見る目は確かだという安堵が胸を浸す。
レナリアは、人が絶対に言われたくないことを本能的に知っている。アントンが血を流す傷口を瞬時に見定め、応急処置をしてくれた。
「貴族、貴族、か……」
レナリアとジュリアスの結婚が、アントンの寿命を縮めた一因であることは間違いないだろう。アントンは財産目当てだと、あくまで反対をしてみせたが、一向に意に介さないレナリアと諦めないジュリアスに、立場が逆転したのを感じ取っていた。
なによりレナリアとの結婚を国王が後押ししたのである。マルティン、シュテファン、クロードがそれを学院で同窓生だった貴族たちに伝え、学生時代の伝説を覚えていた彼らは面白がって二人を応援した。すでにレナリア・スティビーの名は王宮に轟いている。
見えない大きな波に飲み込まれる感覚にアントンは呻き、ついに結婚を許した。
「あの娘には、神がついているのか」
そう言った。
結婚式で、悔し紛れに呟いたアントンにレナリアはけらけらと笑い、
「神じゃなくて仲間がついててくれるんですよ!」
笑顔で祝福する友人たちの輪の中に飛び込んでいった。
自分を悪だと自覚している人は潔くて好きです。




