10:悪役令嬢は笑わない
「私、あなたが大嫌いです」
さほど大きくないレナリアの声は、ざわついていたダンスホールに響き渡った。
場がいっせいにしんと静まり返る。
アイリーンはすぅっと真顔になったが、やがて聞き分けのない子供を見る目になった。
「殿下に同情しているの? それとも本気で好きになったのかしら?」
「殿下は関係ありません」
レナリアはちらりとアルカイドを見て、アイリーンに目を戻した。
「あなたはとても素晴らしい人です。やさしく、賢く、聡明で、淑女の鑑ですわ」
「まあ。ありがとう」
本気で褒めていることがわかり、アイリーンは意外そうに礼を言った。
レナリアが一歩、エリックから離れ、アイリーンに近づく。
「まるで女神様みたいな人。そう思います。現にあなたの周囲には信者がいっぱいいます。あなたはいつも完璧で、だからこそ完璧な人が集まっている。あなたについていっても、私は幸せになれない。いつ失敗するか、間違えてしまわないかびくびく萎縮して、あなたの完璧さを崇めるだけの犬に成り下がる。そんな息苦しい生活なんてとても耐えられません」
「…………」
アイリーンを表すなら『本気で努力する天才』だ。彼女の努力は必ず報われる。そのために力を惜しまない人が周囲に集まって、彼女を成功させている。
レナリアの父のような、努力を踏みにじられて成果を人に奪われたことなどないのだ。だからこそ、虐げられた者の痛みを理解できない。置いて行かれた者たちがなにを彼女に思うのか、理解できない。
理解できないから、自分たちだけで幸福な新天地に旅立とうとすることができたのだ。
「女神を信仰するのが悪いとは思いません。あなたに人生を捧げて幸せを感じている人もいます。セイリオス・ドゥーシャスとアイリーン・シクルシスがいるのは心強いことでしょう」
「それなのにあなたはわたくしが嫌いなの?」
「ええ。だって私は馬鹿なんです。馬鹿だから、今できることを精一杯やるしかありません。いつも完璧でいるのは疲れます。疲れたら休みたいし、失敗したら励ましてもらいたい。成功すれば褒めてもらえて、そうしてみんなで笑いあえたらそれで良いと思えるちっぽけな人間なんです」
もう一歩、近づいたレナリアは、エリックを振り返った。
「私は、お仕えするなら女神ではなく人間がいい」
「レナリア……」
完璧な女神。アイリーンにかかる期待は並大抵のものではないだろう。彼女はそれに応えるだけの才能があり、努力をしてきた。そんなアイリーンを見て周囲も喜んで付いて来た。
だがもしも失敗したら、アイリーンにふさわしくないと周囲から排斥されるだろう。卒業パーティで生徒を分割した今日のように。
女神の決定だ。天啓に誰が逆らえるだろう。誰も反対できない、いや、それが素晴らしいと誰もが信じたからこんなことになったのだ。
それはとても恐ろしいとレナリアは思う。アイリーンについていったらレナリア・スティビーの心が消えてしまう。
呆然と名前を呼んだエリックに微笑みかけ、レナリアは再びアイリーンに向き直った。
「殿下は、好きな女一人振り向かせることもできない情けない方です。側近さえまともに従えられない。心は弱いし小心者だし、言ったことに責任持てないから周囲に察して動けという態度だし」
「レナリア」
正直に言いすぎだ。エリックは感動して損した気分になった。
「はっきり言いすぎだろ……。もう少し、こう、マシュマロに包むくらいのやさしさをだな……」
「マシュマロでも贅沢だろ」
「マシュマロの中に何が入ってるかわからないやつだよ、それ」
「めちゃくちゃ酸っぱいかめちゃくちゃ辛いかのどっちかだろ」
ジュリアスたちがこそこそ言いあっている。最近遠慮がなくなってきた側近たちに、より友情が深まったといえばいいのかなんなのか、エリックも悩むところだ。渋い顔をして睨みつけた。
「ね?」
「は?」
そんな彼らに嬉しそうな顔をしたレナリアに、なにが「ね?」なのかわからずアイリーンが戸惑った。
「殿下は怒らないでしょう。だから殿下から離れていかないんです。アイリーン様のようなカリスマはないけど、殿下は放っておけないんです。これだって一つの、王の器なんだと思いませんか?」
「お飾りにしかなれない男が、王の器?」
セイリオスが吐き捨てた。彼の女神を侮辱されて怒る寸前らしい。
「はい」
レナリアはあっさりとうなずいてセイリオスの怒気を弾き返した。
「いつも完璧を求められて気を抜けないって疲れるじゃありませんか。言っておきますけど、どんなに完璧でも磨かないと曇りますよ。そして、完璧さには限りがありません。はじめに満足を味わってしまえば、今は良くてもみんなの欲求は大きくなるばかりです」
思ってもみない指摘にセイリオスは明らかにショックを受けた。
「その点殿下はラッキーです。国王陛下がアレですから、ちょっと良いことしただけでも高評価が得られます! さらに失敗しても殿下だからで済むでしょう。殿下だって人のこと言えないんですから強くは責められません!」
ビシッとエリックを手で示したレナリアはセールストークをかます販売員のようだった。エリックは自分のセールスポイントのあまりの馬鹿馬鹿しさに額を押さえて天を仰いだ。エリックについてきた生徒たちも誰ひとり否定せず、そうだよなとうなずきあっている。
「殿下の弱さは強みでもあるんです。アイリーン様と殿下なら、だんぜん殿下のほうが人間くさくて好感が持てますわ」
まったく容赦のないレナリアの言葉の数々に、アイリーンは唇を噛んだ。流れ弾が命中したジュリアスたちも胸を押さえている。
レナリアは優雅にカーテシーを決めた。
「お元気で、アイリーン様。ご多幸をお祈りしておりますわ」
祈るだけならただである。嫌いな女に頭を下げるだけですむなら安いものだ。レナリアの在り様は、苦渋を舐めてきた下位貴族の矜持だった。
「…………」
じっと厳しい目でレナリアを見ていたアイリーンは、それは優雅なカーテシーを返した。金のドレスから光が粒子になって輝くような、女神そのものの姿であった。
「ありがとう、レナリアさん。あなたにも幸多からんことをお祈りいたしますわ」
アイリーンはいまだ怒りに震えているセイリオスの腕に手を乗せた。
「行きましょう、セイリオス様」
「アイリーン! あんな女の無礼を許すのか」
「許す許さないではありませんわ。わたくしたちはもはやこの国の貴族ではないんですもの」
ドゥーシャス公爵家は本日付けで独立し、ドゥーシャス公国を建国した。セイリオスとアイリーンは他国の人間になったのだ。そしてそうである以上、招かれざる客はエリックたちではなくセイリオスとアイリーンである。エリックが捕獲命令を出せばたちまち追手がかかるだろう
新たな国の第一歩を輝かしいものにしたかったセイリオスは、その邪魔をしたエリックとレナリアに憎悪を抱いた。ちっぽけな虫けらにすぎないと思っていた存在が小癪にも噛みつき、セイリオスの女神に痛打を与えるなど許せるものではなかった。
アルカイドは一時惹かれた少女を瞼に焼き付けるように見つめている。あの時の予感が今日実感となった。彼の視線に気づいたレナリアが目を潤ませ、会釈した。
「……行きましょう、セイリオス様」
「アルカイド」
「こんなところで立ち止まるわけにはいきません。他のどんな国よりも素晴らしい国を造り上げる。我々にはそれができます。彼らに見せつけてやればいい。……そうでしょう? 我が君」
親友として、臣下として、様々な思いを飲み込み切り捨てたアルカイドに、セイリオスがぐっと喉を詰まらせた。
「……もちろんだ。私は私の民を幸せにしてみせる」
たとえそれが、際限のない道であっても。
決意表明のような、負け惜しみのようなセイリオスの言葉と表情を、エリックは立ち尽くして受け入れていた。
愛する女性と結婚できればどれだけ幸福になれるだろうと思っていた。彼女のことを想うだけで胸にあたたかなものが満ち、嬉しいような気恥ずかしいような、居ても立っても居られないむず痒い感情が湧き上がって、それに振り回されていた。
アイリーンの笑顔をごく当たり前に与えられているセイリオスが憎かった。だが、憎いというよりは、羨ましかったのだろう。今はそんな醜い感情は微塵も湧いてこない。
「アイリーン、今までありがとう」
セイリオスに守られて去って行く後ろ姿にそう言っていた。アイリーンは一度足を止めたが振り返らず、余韻すら残さずに彼女を信仰する者たちが待つ国へと帰っていった。
「行っちゃいましたね」
「そうだな」
彼ら全員が出ていくのを待って、レナリアがエリックに微笑みかける。
「殿下、頑張りましたね」
「……そうかな」
親が子供を褒めるようなそれに、エリックは胸が熱くなった。
「それじゃ、卒業パーティはじめましょうか!」
「え?」
驚いたエリックだったが、なるほど、とうなずいたジュリアスの説明に納得した。
「そうですね。陛下と宰相が乗り込んできても、卒業パーティだと言えばまた足止めできます。国外追放されたセイリオスとアイリーン様たちが逃げる時間を稼がなくては」
「屋敷に残っている使用人と楽団は今日のパーティに雇われただけだそうです。せっかくですし、やりましょうよ!」
マルティンとシュテファンが右往左往していた給仕や楽団に指示を飛ばす。ハッとなった裏方アルバイトの生徒たちもワインや料理を並べだした。
「殿下! みんなに開会の挨拶をお願いします!」
クロードがエリックを中央に引っ張った。
あれよあれよとはじまる卒業パーティのやり直しに、言い出しっぺのレナリアは「料理がもったいないから」と言えなくなった。笑みを貼り付けて、冷やされていたシャンパンをグラスに注ぎ、エリックに渡す。
「どうぞ、殿下」
「あ、ああ」
エリックは生徒たちの顔を見回した。
アイリーンへの婚約破棄と追放劇に高揚している彼らは、卒業パーティというより後夜祭の気分になっていた。今夜は無礼講だ、とわくわくした目でエリックの合図を待っている。
一応エリックへの礼儀もあって真面目な顔つきだが、唇が笑っている。期待が隠しきれていなかった。
「皆、せっかくシクルシス伯爵が用意してくれた卒業パーティだ。おおいに踊り、ありがたく飲んで楽しむと良い。乾杯!」
乾杯! グラスがエリックに向かって掲げられ、シャンデリアの光を弾いた。
「楽団、音楽だ!」
マルティンが声をかけると慌てて楽団員が楽器を構える。可哀想な楽団員は、雇い主に置いて行かれて呆然としていた。
「レナリア!」
こそこそと生徒の群れに紛れ込もうとしていたレナリアを、ジュリアスが引っ張り出した。
「え、ええ~?」
レナリアは助けを求めてジュリエッタに手を伸ばしたが、
「ファーストダンスを殿下が踊ってくれないと、私たちが踊れないわ!」
「レナリア、頼んだ!」
パートナーと踊りたいと売り渡されてしまった。
「良い友人だな」
「追加料金請求しますからね!」
ぽいっと隣に放り出されたレナリアに、エリックが一礼する。その姿は正しく王子様だった。
「一曲踊って頂けますか?」
「はめられた……」
ここで断ることなどできるはずがない。恨めしい顔で手を取ったレナリアを抱き寄せ、エリックは少年らしい笑みを浮かべた。
ワルツが流れ、二人が踊りはじめる。
レナリアは、まさか自分が王太子のファーストダンスのパートナーになろうとは夢にも思わなかった。人生はなにが起こるかわからない。一生一度の、もう二度とない夢物語の中心に、自分がいるような気がした。アルカイドへの失恋に泣く暇もない。アイリーンに失恋したエリックと、アルカイドに失恋したレナリア。失恋コンビがファーストダンスなんてなんだか不吉な組み合わせだ。
エリックは吹っ切れたように笑っている。本当は、声をあげて泣きたいのだろうと思うと胸が痛んだ。王太子として生まれ、泣くことすら制限されてきたエリック。彼はようやく愛のなんたるかを知った。
「レナリア」
「はい」
さすがに王子様である。エリックは優雅にステップを踏んだ。授業で習った程度のレナリアでも不安を覚えないほどリードが上手だ。
「王とはなんだと思う?」
エリックの赤い瞳の奥にある迷いを見つけたレナリアは考えた。
エリックにはとにかく自信がない。彼がやったことは稚拙な苛めとやつあたりと当てつけだけで、人として褒められた行為ではない上になんら効果がなかった。自己肯定感が低く、レナリアのツッコミにやられっぱなしだった。
「王様は、みんなを幸せにする人だわ。みんなの幸せが自分の幸せだと思える人。そのために働く人よ」
レナリアは自信を持って答えた。王とは本来そういう人のことだ。父のような懸命に働く者にも目を配り、国民の誰もが幸せに笑っていられる国を造る。そうしてみんなを笑顔にしてはじめて自分も心から笑える人。それが、王だ。
レナリアの答えにエリックは瞳を潤ませた。くるくると踊りながら、自分を囲む生徒たちを見る。彼らはエリックの国民代表となる貴族だ。
「壮大な仕事だ」
「そりゃそうですよ。なんてったって王様なんですから」
いつか交わしたことのある会話に似ている。エリックは瞼を瞬かせて涙を弾くと、曲の終わりにレナリアの手に感謝のキスをした。
思いがけないキスにレナリアが真っ赤になり、生徒たちがわっと歓声をあげて中央に雪崩れ込んできた。次の曲が奏でられ、楽しげに踊り出す。
「レナリア、次は私と踊ってくれ」
やっと解放されたと息つく暇もなく、やはりこの男がレナリアを捕まえた。
「ジュリアス様まで!?」
「お前がいると楽しい。王妃にはしたくないが。友人として共に在ってくれ」
ジュリアスの切実な願いに、レナリアはきょとんとした。
「私たち、とっくにお友達でしょう?」
今度はジュリアスが呆ける番だった。くしゃりと笑み崩れた彼は、踊りながら、
「その通りだ!」
この時間がいつまでも続けばいい。そう思っていた。
◇
馬車に揺られながら、アイリーンは直前まで予想していた快哉もセイリオスとの愛の語らいもなく、ひたすら考え込んでいた。
「……アイリーン」
「セイリオス様、申し訳ありません」
アイリーンは頭を下げた。たかが女一人とレナリアを侮った結果がこれである。アホの子の仮面を被ったあの女にまんまとしてやられてしまった。
「よい。あの場での流血沙汰を避けられただけでも上々だ」
実は密かにエリック殺害まで考えていた。エリックと側近たちが怒りに任せて乗り込んできた場合の措置である。
どんな理由があろうと王太子殺害は重罪だ。まさか学院に残した――切り捨てた貴族の子弟を引き連れてくるとは予想だにしなかった。あのプライドだけは無駄に高いエリックが、自ら恥を晒すなど考えられないことであったのだ。
「殿下から婚約破棄されるとは思いませんでした。レナリアさんは味方につけておくべきでしたわね」
アイリーンは同乗している兄を見た。アルカイドはぼんやりと窓の外を眺めている。
「お兄様……見る目がおありですわ」
「終わった話だ」
恋にもならなかった想いである。アルカイドはそう自分の心に決着をつけた。アルカイドとレナリアの間にあった感情は、芽吹く前に摘み取られたのだ。アルカイドが、根元から切り捨てた。レナリアも納得して終わりにした。
「私は、レナリアよりも主と妹をとったのだ。後悔は、しないさ」
アルカイドはセイリオスの国の貴族になる。国のために結婚し、妻を愛するだろう。それで良いのだ。アルカイドが選んだのは自分の誇りであり、主である。
セイリオスとアイリーンが描いていた国外脱出の、どれよりも最良の道のりを迎えられた。エリックが名にかけて国外追放を宣言した以上、宰相にも阻むことはできない。
注意すべきは暗殺だが、戦争は回避できたといっていいだろう。おかげで行動を共にした貴族も安心して移動させることができた。
それなのにアイリーンの胸をざわつかせているのは、レナリアに面と向かって「大嫌い」と言いきられたことだった。アイリーンの持つ美徳を一つひとつ褒め称えながら、そんなアイリーンだからこそ嫌いだと。まっすぐに否定されたことがアイリーンの心を曇らせていた。
「セイリオス様……わたくしは可愛げがないのでしょうか?」
レナリアの言ったことをまとめると『可愛げのない女』がアイリーンの総評になる。
エリックにもさんざん言われたことだ。あの時は子犬が吼えている程度にしか感じなかったが、今になって効いてきた。
「そんなことはない。アイリーンの声は小鳥の囀り。その叡智は人々を導き潤す泉の源流。誰もが愛さずにはいられない。私にだけ甘える様は、子猫のように愛らしい」
セイリオスは口癖のようになっていた『女神』を使わなかった。やはり、少なからずレナリアの言葉はセイリオスに影響を与えていた。
「わたくしの喜びはセイリオス様の喜びですわ。こうして共にいられる日をどれだけ待ったことでしょう」
「私もだ。私のアイリーン。私の愛」
アイリーンの不安を嗅ぎ取ったセイリオスは腕を回し、彼女の頭を自分の肩に乗せた。
「あんな無礼な小娘の言葉に惑わされることはない。君はただ愛されていればいいのだ」
「ええ……」
でも、その小娘がすべてを逆転させたのだわ。アイリーンは思う。
セイリオスとアイリーンが用意した独立宣言の場にいたのはボンヌ学院の生徒と良識派の貴族たちだ。彼らはレナリアの言葉を聞いて目が覚めたような顔をしていた。アイリーンが仕掛けた勝利の熱狂に冷や水を浴びせたのはレナリアである。
今まで、アイリーンは人々の頭上で君臨する女王だった。身分は伯爵令嬢にすぎないが、自分の知恵と行動力で事業を展開し、発展させてきた。
そんなアイリーンを面前で人格否定してきたのだ。女神のごとしと認めながら、信奉者にはなりたくない、と。
セイリオスに恋をした瞬間から、アイリーンはその恋だけを見つめて生きてきた。他の女に彼を取られないように自分を高め、誰よりも彼にふさわしい女になろうと努力してきた。
女であることを後悔したことはない。だが、今日ほど男に生まれていればと思ったこともなかった。
悔しい。男であればエリックと戦い、自分の手で国を開くことができたかもしれないのに。あるいはこの国で、宰相から権勢を奪取してやることができたのかもしれない。
「セイリオス様、わたくしを離さないでくださいませ。あなたの妻になることが、わたくしの夢でございました」
「もちろんだ。アイリーン、愛しているよ」
アイリーンにはそれだけの才覚がありながら、女というだけで男に愛されて生きるしか道がないのだ。セイリオスを愛したことを後悔していない。けれど、女神になりたいと望んだことは一度もなかった。
セイリオスがアイリーンのこめかみに口づける。目の前で妹と義弟の睦まじさを見せつけられたアルカイドはちいさく息を吐き、また目を窓の外に戻した。
エリックたちが上手くやってくれたのか、あるいは国外追放の報が回っているのか、実にすんなりと馬車は国境を越え、セイリオスを元首とする国に辿り着いた。
ドゥーシャス公国は正式に独立を宣言し、祖国と袂を分かち独自の道を歩み始めた。
◇
その後、エリックは十九歳の若さで王位を継いだ。長年の酒と女と怠惰な生活に王の心臓が悲鳴をあげたせいである。その日も王は側室の元に通っており、朝目覚めたら冷たくなっていたという。隣で国王に死なれていた側室の悲鳴が王宮に轟いたそうだ。
宰相が暗殺したという噂が流れたものの根拠はなく、だがあの男なら不要となったらやりそうだとは思われていた。学院を卒業し成人していたエリックが政治に携わるようになっており、真面目に公務に取り組んでいたおかげか即位後もスムーズに王の仕事をこなしていた。
エリックが結婚したのは二十三歳になってからである。若くして王となった彼には(女に関しての評判は極めて悪かったが)結婚の申し込みが後を絶たず、一番条件の良かった国の王女が王妃になった。彼は王妃が連れてきた侍女を側室に迎えたが、それはどちらかというと王妃の負担を減らすためで、王妃との仲は良好だったらしい。実際王妃との間に三男二女をもうけたが、側室とは子供を作らなかった。
エリックは自分が寂しい子供時代を送っていたからか、積極的に子育てに参加した。子煩悩のエピソードとして、彼は長男の王太子フェルディナンドにこう言っている。
「好きなようにやってみなさい。失敗してもフォローくらいはしてやる」
実際エリックは子供の失敗に周囲が諌めるほど寛大だった。彼は決まって「私よりましだ」と笑っては女官長に叱られていた。フェルディナンドは後年「父は弱い人だった。だからこそ、弱い者の気持ちを良く理解していたのだ」と語り、父を懐かしんでいる。
女官になったレナリアは順調に出世したが、ジュリアスの求婚に根負けしてついに折れ、二十歳で結婚した。この時代の女性としては晩婚である。彼女が一番心配していた弟妹は末の妹がまだ学院入学前だったが、婚家の援助を断って自力で絵師になるべく専門学校に進んだ。高位貴族に借りは作りたくないところはレナリアにそっくりだが、それにしてもガッツのある家族である。
子育てがひと段落したレナリアはエリックの要請に従い女官長に就任した。あいかわらず物おじせず、エリックに対し厳しいツッコミを入れていたらしい。一説には父親が女官長に叱られている姿を見ていたからこそフェルディナンドは賢王になったのではないかといわれている。自分の失敗で自分の父が叱られていたら、しかもそれを見せられたら、子供は反省する。子育てを終えた女性らしい感性でエリックの育児を手伝った。
王妃が自分の侍女を側室にした理由には、レナリアの存在があった。王に信頼されているレナリアが王妃である自分を差し置いて王宮で権勢を揮うのではと恐れたというがその形跡はない。レナリアは女官長として権勢を揮うより、仕事をしているほうが好きなたちであった。
アントン・ザントが宰相であった頃には頭を押さえつけられていたエリックだったが、宰相の死後は親政に乗り出し、ゆるやかに国力を回復させていった。四人の側近が王を支え、不正には厳しかったが失敗に叱りつけることはなく、反省させ、褒めることで部下を育てることに腐心した。
エリックの後を継いだフェルディナンドは『獅子王』と呼ばれ、彼の時代にこの国は最盛期を迎えることになる。
◇
ドゥーシャス公国は滑り出しこそ順調だったが、その後は苦労の連続だった。
公妃アイリーンが手掛けた事業のもっとも大きな取引相手だった、彼らの祖国と国交断絶したせいである。
エリックにまんまと足止め喰らって初動が遅れた宰相のやつあたりである。みすみすセイリオスを逃がし、広大な公爵領が独立したとなると大打撃であった。これを回復させるために宰相はアイリーンの化粧地とするはずだったシクルシス伯爵領を没収。その他ドゥーシャス公国の国民となった貴族たちは領地財産没収の憂き目にあった。国家反逆罪の対価としては安いものだが、納得できない貴族も多かった。
さらに他国もわざと卒業パーティを同日にぶつけてエリックに恥をかかせようとしたことが広がり、ドゥーシャス公国との国交を渋った。高い関税がかけられ、入国審査も厳しく制限する措置をとった。
他国に関してはセイリオスが根回ししていたが、シリウスと名乗り身分を偽ったことと、一国の王太子に対しあまりにも礼を欠いた態度が問題視されたのだ。他国にしてみればドゥーシャス公国の独立はしょせん『一人の女を巡る騒動』にすぎない。祖国の王太子にあそこまでやる者が、他国の王に敬意を払うのかと白い目を向けた。祖国を捨ててまでやることか、と一笑されたのだ。
結局国交回復にはエリックの即位まで待たねばならず、不利な条件下での条約を結んでからという彼らにしてみれば屈辱的なものであった。
セイリオスとアイリーンが下手に出てまで国交を望んだのは、当時ではいかんともしがたかった大問題があったからである。
ドゥーシャス公国の貴族となった者たちが祖国に置いて行かざるをえなかった、墓地である。こればかりは迂闊に動かすことができなかった。各地の貴族がいっせいに墓を掘り返したらなにを企んでいるのかすぐさま発覚する。改葬するには金と時間がかかり、新たな墓地はドゥーシャス公国だ。どうしようもなかった。
当時は国交が断絶されるとは考えられていなかった。計画ではアイリーンがエリックを断罪し王家から譲歩を引き出す予定だったのだ。
ところが蓋を開けて見れば国境を閉ざされ、なんとか墓参りに行けば祖国を捨てたくせにと冷たくあしらわれる。早くなんとかしてくれと要望が押し寄せたのは当然といえよう。
公妃アイリーンには様々な話が残っている。その美貌とやさしさで誰からも慕われていたが、兄の妻だけは唯一苦手としていたらしい。苦手、とやわらかく表現しているが実際には嫌悪に近いものがあった。
アルカイド・シクルシスの妻は美人とはいえないが明るい性格で、誰にでも屈託なく接する笑顔の絶えない人であった。夫にも時折驚くような言動で振り回していた。アイリーンに対しても物おじせず、思ったことをそのまま言い、公式の場以外では夫の妹として接したからかもしれない。アルカイドは妻を『愛しい人』と呼び、生涯慈しんだ。
賢妃として知られているアイリーンだが、彼女は『笑わぬ美女』としても有名だった。彼女は滅多に笑わず、その微笑みを見た人は天にも昇る気持ちだったと書き残している。アイリーンに憧れた令嬢たちはこぞって笑うのを止めた、というのだから彼女の影響は計り知れない。
アイリーンが笑わない理由は諸説あるが、それは、本人に聞いてみなければわからないことである。
本編はこれにて完結です。お付き合いいただきありがとうございました!
いかがでしたでしょうか? 当初はアイリーン視点での話だったのですが、物凄く暗い話になりそうだったのでレナリアを中心とした話になりました。アイリーン側だとまったく違うお話になると思います。
最低のクズ扱いだったエリックと側近ですが、乙女ゲームを舞台にした小説にはよくある設定だと思います。
国のその後についても賛否あるかと思いますが、国家が崩壊するには理由が弱く、かつ国全体を巻き込んだムーヴメントでないとそこまで行かないな、とこうなりました。いってしまえば十六歳の少年少女がやることですからね。
アイリーンは本気で努力する天才、とあるように、努力しても叶わなかった人の気持ちが理解できません。努力すればできるでしょ、できないなら努力が足りないのよ、と思っちゃう人です。けっこうきついですよね。
諸悪の根源アントン・ザント宰相の話やジュリアスとレナリアのなれそめ(?)、アイリーンの話など、番外編を書いていく予定です。




