第41話 シリウスの考えと、バシュタ伯爵家の堕落
翌朝、柔らかな朝日が窓から差し込み、シリウスは一人、薄暗い自室の隅で悩みを抱えていた。
「……いつ、リリアナと初めての夜を迎えるべきか」
そう考えるのは男性として仕方ないことだし、夫としては大事なことだ。
辺境伯家の当主としても、大事なことである。
(あの夜のキスの余韻が、今も胸に熱く残っている。しかし、初夜というのは一生に一度の大切な瞬間。焦っても良いはずがない……)
彼は深いため息をつきながら、心の中で自問自答する。
かつての契約で一カ月に一度の営みが定められていたが、今はその縛りは解かれ、自由な夫婦の営みが許されている。
「だが自由だからこそ、初夜をどう迎えるか、決めかねてしまうな……」
シリウスはため息を繰り返し、朝の準備を終えて執務室へと向かった。
執務室ではネオがすでに待っていた。
「おはようございます、シリウス様」
「ああ、おはよう。今日の仕事は?」
「王都に来てからいろんな貴族からの手紙が多いので、その返事などです」
「面倒だが、仕方ないことだな」
そう言って二人は仕事を始める。
しばらくしてから、シリウスが口火を切り出す。
「ネオ、ちょっと相談に乗ってもらえないか」
ネオは朝の業務に取り掛かっている様子であったが、すぐに穏やかな表情で答えた。
「はい、シリウス様。なんでしょうか?」
シリウスは、やや戸惑いながらも声を低くした。
「その……一般的な夫婦の初夜というのは、いつするものなんだ?」
「……なんとも答えづらい質問ですね」
「べ、別に俺とリリアナのことを聞いたわけじゃないだろ」
それが答えなのだが、ネオはため息を隠しながら考えて答える。
「一般的には結婚式の当日の夜では?」
「……確かにそうか。だがそれを過ぎてからだと?」
「それは、あとは夫婦二人のタイミングかと思いますが」
「タイミング……か」
「無理に日程を決めるものではなく、奥様のペースなどもあるので、その時が来るのを待たれるべきではないでしょうか」
笑みを浮かべながら無難に答えるネオ。
「……確かにそうだな。だがこういうのは男らしく誘うべきというのも聞いたことがあるが」
「それは知りませんよ」
思わず執事としてじゃなく、ネオは友人のような対応をしてしまった。
ネオは一瞬考え込み、低い声で続けた。
「かつては毎月一度という契約がございましたが、その規定は既に破棄されております。今は、シリウス様とリリアナ様の自由な意思で決められる状況です」
「そう、だな」
「だから私が何か言うよりかは、お二人で決めるのがよろしいかと」
「……うむ、その通りだな」
いつの間にか「一般的な夫婦」という建前を外して、普通に「シリウスとリリアナ」の話になっているが、ネオは指摘しなかった。
「シリウス様、答えは焦って求めるものではなく、自然な流れに任せるべきかと存じます。お二人が共に過ごす時間の中で、自然とその瞬間が訪れるでしょう。リリアナ様の気持ちを尊重し、まずは日々の穏やかな営みを重ねることが大切です」
「……焦らず、自然に任せるか」
シリウスは心の中で、リリアナの柔らかな微笑みを再び思い出しながら、深く頷いた。
「そうか、急がずとも良いのだな。リリアナが、心からその時を迎える日が来るのを、待つのみだ」
シリウスは、ネオの言葉に少しだけ安心感を得た。
ネオは話が一区切りついたと思ったので、仕事の話に変える。
仕事というよりかは、報告事だ。
「シリウス様、リリアナ様のご実家のことなのですが……」
「リリアナの実家……あの者達が、どうかしたか?」
◇ ◇ ◇
バシュタ伯爵家の当主、リリアナの父親は、朝一番の書斎で拳を握りしめながら叫んだ。
「くそっ! こんな状況じゃ、どうにもならん!」
領地経営が完全に行き詰まり、事業成績が日に日に下がっていく現状に激怒していた。
領民たちの非難の声が、彼の耳に不快な雑音のように響く。
「エメリ、お前が信用できん連中に財政を任せやがったからだ! このままじゃ、我が家は丸ごと没落する!」
すぐそばから、リリアナの義母、エメリ夫人が、冷ややかな声で応戦する。
「な、何を言っているの、あなた! あなたが領地から離れて、遊び惚けているから、まともな判断ができないのよ!」
バシュタ当主は眉をひそめ、激昂しながらもさらに詰め寄る。
「ふざけるな! お前が信頼できる会計士を雇わず、適当な連中に丸投げした結果がこれだ! 金が次々と俺たちの懐から奪われていくんだ!」
エメリは声を荒げつつも、毅然とした態度を崩さない。
「あなたこそ、いつも外で遊び歩いて、家のことを顧みないから、こんな事態になるのよ!」
その部屋には、リリアナの妹のセシーラもいた。
両親が言い合っているのを止めたいが、何もできずに端で震えている。
そんなセシーラの様子を見て、バシュタ当主がイラついて声を荒げる。
「セシーラもだ! なんでお前は聖女としての力が発揮できないんだ! 何が原因なんだ!」
「あなた、セシーラが可哀想でしょ! この子はただ調子が悪いだけで……!」
実の娘であるセシーラを守るエメリ。
セシーラは何も返すことができず、ただ俯くばかりだった。
(本当は……リリアナから魔力を吸い取っていたせいだと、言うわけにはいかない……)
当主は拳を握りしめ、溜め息交じりに呟いた。
「この家はこのままじゃ事業成績は下降線をたどり、領民たちの非難も止まらん……どうすれば、再び誇り高き伯爵家として立ち直れるというのだ!」
エメリは冷ややかな目をこちらに向けながら、反論する。
「あなた、もう少し賢明になりなさい! 私たちの財政は、あんたが無責任に外で遊んでいるせいで、どんどん悪化しているのよ!」
当主は激昂し、声を荒げた。
「くそっ! 全てはお前の管理の甘さだ! 信頼できる者に任せろと言われても、お前は適当な連中に丸投げして、我々の金をむさぼらせる!」
エメリは顔を真っ赤にしながらも、譲らずに返す。
「あなたが、領地をほったらかしにしているから、まともな人間が現れないのよ!」
セシーラは、その激しい口論を黙って見つめるしかなかった。
内心で、彼女は自分が隠している秘密に苦しみ、言葉にできずにいた。
(私が、リリアナからあの魔力を奪っていた事実は、隠し通さないと……)
当主は、ふと窓の外に目を向け、荒れ果てた領地の様子を見ながら、さらに嘆いた。
「このままでは、領民たちは我々を嘲笑い、完全に没落する。くそっ、どうすれば……」
エメリは、呆れたように肩をすくめながらも、静かに答える。
「あなたの無責任さが原因なのよ!」
当主は激しく腕を振り、怒りを爆発させる。
「そんなの、ふざけた言い訳だ! 俺たちが今まで苦労して築いてきた名誉が、こんな簡単に崩れていくなんて……」
しばらくの沈黙の後、当主は低い声で呟いた。
「リリアナが……あいつがいれば、こんなことにはならなかったのかもしれん……」
彼の口からはその言葉が漏れてしまう。
エメリは当主の呟きを聞くと、また声を荒げた。
「あなた、そんなことを考えているのね! あんな役立たず、いない方がマシよ!」
「だがあいつがいた時は財政破綻しなかった! お前もあいつに仕事を任せていたのだろう!」
「そ、それは少しよ! あんな役立たずがいなくても仕事はできるわ!」
「現に、できていないではないか!」
エメリはそれには言い返せない。
(本当は全部あの子に任せていたけど、それは言えないわ……!)
当主は苦々しく笑いながら、頭を振った。
「くそっ、言っても仕方がない! この家は……もうすぐ没落してしまう。どうすれば、再び誇りを取り戻せるというのだ……」
セシーラは、ただ俯くばかりであった。
(私が……私が、リリアナを追い出すために、役立たずにさせたのが、すべての原因になっている……?)
そう絶望するも、今さら後悔しても遅い。
当主は、再び拳を握りしめながら、低く呟いた。
「俺たちは、何とかしなければならん。だが、どうすれば……」
エメリは、ため息をつきながらも、静かに言葉を続けた。
「まずは、信頼できる会計士を見つけることよ。あんたが領地を放置している間に、金はどんどん奪われるわ!」
当主は、目を閉じて激しくため息をついた。
「くそっ、こんな状態でどうやって家を救えばいいというのだ……」
部屋には、重苦しい沈黙と、領民たちからの非難の囁きが遠くから聞こえてくるような気がした。
「本当に、もうすぐ崩壊してしまうのか……」
当主はそう呟きながら、明日のことすら見通せぬ不安に苛まれていた。




