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第40話 社交界の終わりと、眠れない夜


 社交界がひとまず終わり、私とシリウス様は用意されていた馬車に乗って会場を後にした。


「ふぅ……」


 王都のパーティーへ参加するのは初めてだったから、正直言って今になって緊張の糸が解け、全身から力が抜けていくような感覚がある。


 ガタゴトと心地よい振動を与えながら進む馬車の中は、私たち二人きり。


 先ほどまでの社交界での出来事が、頭の中に渦を巻いていた。初めての場で何とか立ち回ったつもりだけれど、果たして上手くやれていたのだろうか――そんな不安ばかりが募ってしまう。


 隣に座っているシリウス様も、まだパーティーの余韻を感じるように目を閉じている。

 私は顔を横に向けると、そっと声をかけた。


「……シリウス様、先ほどは私が先走ってしまったり、失礼がなかったでしょうか?」


 すると彼は静かに目を開け、柔らかな笑みを浮かべて私を見つめる。


「先走る? そんなことはなかったと思うが。リリアナ、どうしたんだ?」


 その優しい視線が、まるで何もかも見透かしているようで照れくさい。

 私は目線を下に落として、小さく肩をすくめる。


「いえ……はじめての社交界だったので、至らないところが多かったのではないかと……不安になってしまいました。挨拶の順番や言葉遣い、あるいは話をしていた方への受け答え……。それに、あのライムとのやり取りも……」


 ライムは最後に悔しそうな顔をして去っていったけれど、私の対応が本当に正しかったかどうか、まだ自信がない。


 私はできるだけ落ち着いていたつもりだけれど、どこかでミスをしてしまったのではないかと胸がざわつくのだ。


「君はとても頑張っていたよ。むしろ、隣で見ていて誇らしかった」


 シリウス様は、そう言って私の手を軽く握ってくれた。

 彼の体温が私の指先へ伝わってきて、心がふわりと温かくなる。


「それでも……私の知らないルールとか、貴族の慣習があったと思うんです。私、自分でも気づかずに失礼をしていないか……」

「失礼? いや、君ほど礼儀正しく、そして自分の意志を持って行動できる貴族夫人はそうそういない。言葉遣いも立ち振る舞いも、隣で見ていて完璧だったよ」


 シリウス様の強い肯定に、私の不安が一気に解きほぐされるような気がした。


「リリアナの振る舞いは、辺境伯夫人としても聖女としても文句の付けようがない。君は自分が思っている以上に人を惹きつける力があるよ。俺はそれを、ずっと間近で見てきたんだ」


 シリウス様の言葉は真摯そのもので、嘘やお世辞を言っているようには思えない。


「ありがとうございます……でも、私はまだまだ足りない部分も多いと思います。もっと、シリウス様や辺境伯家のためにできることを見つけて、頑張りたいんです」


 そう言いながらも、彼が真剣な面持ちでそう言ってくれるのは素直に嬉しい。

 微熱のような恥ずかしさが頬を染めていくのを感じる。


「君らしいな、本当に。そういうところも好きだが」

「あ、ありがとうございます」

「……リリアナ」


 シリウス様は、そのまま私の手を握りしめたまま、じっと私の目を見つめてくる。

 心臓がドキドキと早鐘を打ち始める。


 ――こんなにも近くにいるのに、まだ足りない。もっと彼の温もりを感じたくなってしまう自分がいる。


 一方で、こんな場所でそんなことをするのは、やはり恥ずかしいと思う気持ちもある。


「……リリアナ、少し顔を上げてくれるか?」

「えっ……」


 彼にうながされるように顔を上げると、シリウス様はゆっくりと私に近づいてきた。


 息がかかるほどの距離に驚き、思わず目を閉じてしまう。


 馬車の揺れとともに、そっと唇が触れ合った。


 柔らかな感触と、甘いような息遣いがほんの一瞬だけ重なり合う。だけどそれは一瞬だけじゃなく、まるで時間が止まったかのように長く感じられた。


 静寂の中に聞こえるのは私たちの鼓動だけ――それがどちらのものかもわからないくらい、耳の奥で大きく鳴り響いている。


「……っ」


 軽く唇を離すと、私もシリウス様も頬を赤らめて、互いにぎこちなく目をそらしてしまう。


「す、すまない。こんな場所で……」

「いえ……私も、嫌じゃありませんでした……」


 むしろ、嬉しかった。


 そう言おうと思ったけれど、恥ずかしくてうまく口に出せない。


 馬車の中は薄暗いから、きっと私の顔がどれだけ赤くなっていても見えづらいだろうけれど、それでも気恥ずかしい。


 そんな私の様子を見て、シリウス様は小さく笑みを零した。


「君が今日、どれほど素晴らしかったか、何度でも伝えたかったんだ。リリアナ、ありがとう。君がいてくれるだけで俺は幸せだよ」


 その言葉が、先ほどのキス以上に胸に響いてしまい、私は思わず俯いてしまった。


「もう……そんなこと……言われたら……余計に恥ずかしいじゃないですか……」

「ははっ、悪い。でも本心だ」


 そうこうしているうちに、馬車は屋敷の敷地内に入り、しだいに速度を落としていく。長いようで短い帰り道だった。


 馬車が停止し、御者がドアを開けてくれると、私たちは少し落ち着きを取り戻したかのように席を立つ。


「さあ、着いたようだ。夕食を用意させてあるから、一緒に食べよう」


 シリウス様が手を差し出してくれたので、私も慣れた手つきでその手に自分の手を重ねる。

 キスを思い出したらまた胸が高鳴ってしまうけれど、きちんと足取りを整えて馬車から降りる。


 屋敷の扉を開けると、使用人の方々が丁寧に迎えてくれた。

 ネリーの姿も見える。彼女はちらっと私とシリウス様の姿を見て、何か気づいたような笑みを浮かべているように思えたが、あえて深くは突っ込まないでいてくれるらしい。


 互いに上着や装飾品を外すために一度だけ別々の部屋に移動した後、屋敷のダイニングへ向かった。


 夕食は、今日は特に品数が多くはないものの、いつもと違う王都の料理に舌鼓を打てるのは嬉しい。


 ただ、さっき馬車であんなことをしてしまったせいか、まともにシリウス様の顔を見られない自分がいて、少し落ち着かない。


 だけど、彼はいつも通り穏やかな笑みを浮かべて、私が好きそうな料理をすすめてくれる。


「リリアナ、これはなかなか美味だぞ。よかったら食べてみてくれ」

「あ……ありがとうございます。いただきます」


 一口運んだ料理はやはり美味しくて、私の身体に染み渡るようだ。食べている間は少し意識が料理に向くおかげで、心を落ち着けられる。


 夕食を食べ終わり、簡単に明日の予定をシリウス様と話してから、「それではおやすみなさい」と挨拶して自分の部屋に戻る。


 部屋に入り、ドアを閉めた瞬間、ふうっと息をついてからドレッサーの前で頭を抱え込む。


「はあ……」


 先ほどの社交界での出来事が鮮明に脳裏を駆け巡る。ライムとの言い合い、使用人の女性の治療、周囲の人々の視線……そういうひとつひとつがぐるぐると私の中で回っている。

 しかし、それ以上に私の胸をドキドキさせているのは馬車の中でのこと。


 あの甘く、そして熱っぽい感触がどうしても忘れられない。



 鏡越しに映る自分の顔は、まだまだ火照りが冷めきっていない。


 自分でも驚くほど赤くなっていて、こんな顔をシリウス様には見せたくないな、と思う。

 ベッドの縁に腰かけても、胸がドキドキしたまま落ち着かない。


 先ほどシリウス様が言ってくれた優しい言葉の数々が、何度もリピートされるように頭の中でこだまする。


 ――「君はとても素晴らしかった」「君がいてくれるだけで俺は幸せだよ」


 そんな言葉に加え、ほんの一瞬だけれどあんなに甘く触れ合ったキスのことを思い出すたびに、顔の熱が再燃してしまう。


「ああ、もう……」


 気づけば、枕に顔を埋めて足をばたばたと動かしている自分がいて、なんだか恥ずかしいやら、嬉しいやら。


 こうしていると、そのうち部屋から抜け出して、シリウス様に会いに行きたくなる衝動に駆られそうだ。けれど、さすがにこんな夜更けに部屋を訪ねるのは少し躊躇われる。

 私は両手で自分の頬を軽く叩いてみた。


「よし……落ち着け、私……」


 部屋の灯りを少し暗めに調整して、ゆっくりとベッドに横になった。


 しかし、こうして横になっても先ほどの出来事の余韻がどうしても消えてくれない。


 ――恥ずかしいけれど、嫌ではない。むしろ、いっそすべてをさらけ出して彼の隣で甘えてしまいたい気持ちがある。でも、それを今すぐ実行するだけの勇気はない。


 いつ、彼と初めての夜を過ごすのだろうか……。


 それを考えるだけでまた顔が熱くなってくる。


 私は枕を抱きしめながら、ベッドの上で身を丸めた。


「寝られないわ……」


 ぽつりと自分でも呆れるほど小さな声が漏れる。


「……明日も予定があるっていうのに……」


 そう呟きながら、いつの間にか瞼が重くなっていくのを感じた。


 夢の中でも、きっと私は彼とのキスを思い出すのだろう――そんな確信めいた予感を抱きながら、私は静かに目を閉じた。



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