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歴史改編:第一次世界大戦

 さて、続きましては第一次世界大戦についてです。

 セルビア人テロリストによるオーストリア皇太子暗殺、いわゆる「サラエボ事件」に端を発する「戦争を終わらせるための戦争」は、参戦国すべてが予想もしていなかった大戦争へと発展しました。

 各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしますが、それまでの数十年間に構築されていた各国間の同盟網が一気に発動されたため、主要な欧州列強の参戦を押しとどめることはできませんでした。

 まず皇太子を暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国が、暗殺犯の出身国であるセルビア王国に一方的な最後通牒を突き付けます。

 オーストリア=ハンガリー政府は、この事件にセルビア政府が深く関与しており、こうしたセルビア民族主義者のテロ活動こそが自国領土であるボスニア=ヘルツェゴビナを脅かすことを目的とした同政府の策謀だと考えていたのです。

 大国であるオーストリア=ハンガリーとの戦争を避けたいセルビアは、列挙された要求の多くを受け入れましたが、それでも回答に満足しなかったオーストリア=ハンガリーは、とうとうセルビアに対し宣戦を布告。

 すると、同じスラブ人国家としてセルビアを後援していたロシア帝国は、友邦を守るために一部動員(のちに総動員)を開始します。

 一方、オーストリア=ハンガリーと同盟関係にあったドイツ帝国は、そんなロシアに最後通牒を突き付けてセルビアを支援しない旨の確約と動員の解除とを要求しますが、それが断られるや否や、ロシアに対して宣戦布告し総動員を開始します。

 それを受けたロシアは、ドイツ+オーストリア=ハンガリーに対して兵力面で不利だったため、同盟関係にあったフランスに西部で第二戦線を開くよう要請。

 普仏戦争の復讐に燃えていたフランスは当然のようにロシアからの要請を快諾し、ドイツからの中立要求を撥ね付けて即座に予備軍を動員します。

 それを見たドイツは、これを開戦の合図と受け取り、隣国ルクセンブルクを攻撃するとともに、フランスに対しても宣戦を布告。

 「シュリーフェン計画」と名付けられた対フランス侵攻作戦に基づき、中立国であったベルギー国内を大兵力で突破しつつ、フランス本土めがけて進軍を始めます。

 戦略的に好ましくない二正面作戦を選択したドイツは、広大な国土を有するロシアより早く、地理的に短期決戦が望めるフランスを屈服させようと目論んだわけです。

 しかしその結果、ベルギーへの中立侵犯に激怒したイギリスがドイツに対して宣戦布告してきます。

 そしてイギリスと同盟を結んでいた日本もまた、連合国としてドイツ相手に宣戦布告することとなったのです。

 こうした流れで勃発した本作での第一次世界大戦(グレート・ウォー)ですが、全体の流れとしては、勃発までの経過と同じく、史実と大差ありません。

 大きく違うのは、主要参戦国の顔ぶれです。

 まず、アメリカ合衆国が連合国として参戦してきません。

 その理由はズバリ、南北戦争から継続するイギリスやフランスとの対立関係に帰属するものであります。

 さらに言うなら、自国と対峙するアメリカ連合国への備えのため、欧州に兵士を派遣する政治的余裕が存在しなかったためでもあります。

 議会制民主主義を建前とする合衆国は、たとえ政府が大戦への参加を望んだとしても、議会による「明確な敵国=南部連合が目の前にいるのに他国の戦争にわざわざ自国の国民を送り込むなど、正気の沙汰ではない」という声に従わなくてはならないのです。

 史実においてドイツのUボートが無警告で民間船を撃沈した、いわゆる「ルシタニア号事件」でも、英米の仲がこじれている本作のような状況では、渡航者として被害に遭う米国市民の数が一桁以上は少ないものになるでしょうし、むしろそうした状況下での合衆国政府は、あらかじめ自国民の渡欧に対して注意喚起、ぶっちゃけ言うと渡欧を制限する道を選ぶのでは、と予想します。

 それ以前に、イギリスの豪華客船がニューヨークに代表される合衆国内の港を主要寄港地として選択していたかどうかが疑問ですらあります。

 おそらく「ルシタニア号」も、カナダのハリファックス(ないし南部連合のマイアミ)~リバプール航路を軸に運航していたのではないでしょうか。

 だとしたら、ドイツの潜水艦戦で巻き添えを食う合衆国市民は史実と比べものにならないくらいに減少し、議会や国民世論の参戦圧力は、ほとんど無視していいレベルに推移すること疑いなしです。

 合衆国の国民にとり、海の向こうの無法者国家ドイツより、すぐ目の前にいる宿敵(南部連合)のほうが大きく映るのは、ある意味仕方のないことでもありますから。

 もちろん、戦時国債の購入という方法で協商国側(先手を打った「侵略国」である同盟国側は、さすがに支援対象にできなかったでしょう)への資金援助はするでしょうが、他国の戦争に自国の若者を送り込むなどという選択を、当時の合衆国有権者は決して支持しなかったでしょう。

 そんな合衆国に代わって欧州に軍隊を派遣してくるのが、史実では存在していない南部連合です。

 戦争の終盤、南部連合が若いエネルギッシュな軍隊を送り込んできたからこそ、協商国側は硬直した西部戦線で攻勢を採れ、疲れ切ったドイツ軍を打ち破ることができたのです。

 もっとも、そんな南部連合にしたところで、当初は参戦などするつもりはありませんでした。

 理由は合衆国のそれと同様です。

 「自国の北に隙あらば自国を滅ぼそうと企んでいる敵国がいるのに、他所様の戦争にくちばしを突っ込む余力などない」といった具合です。

 そんな南部連合を参戦の方向へと突き動かしたのが、大西洋公海上で発生した装甲巡洋艦「ストーンウォール=ジャクソン」の沈没事件です。

 1917年1月、アメリカ連合国大統領ウッドロー=ウィルソンは「勝利なき平和」を提案し、交戦各国に対して直接会談を呼びかけました。

 ところがです。

 ドイツの首相であるテオバルト=フォン=ベートマン=ホルウェークは「この呼びかけは2、3日遅すぎた。ドイツの潜水艦はすでに出航してしまった」と述べ、無制限潜水艦戦の通告という形でウィルソンの呼びかけに答えたのです。

 この回答に失望したウィルソンは、ただちにドイツとの国交を断絶しますが、この時点ではまだ大戦参加への決断はなされておらず、国民もまた、そこまでの対応を望んではいませんでした。

 こうした流れが一気にひっくり返るのが、1917年4月に起きた装甲巡洋艦「ストーンウォール=ジャクソン」の沈没事件です。

 これは、南部連合の国務長官を乗せてイギリスに向かっていた装甲巡洋艦「ストーンウォール=ジャクソン」が、アイルランド西方の公海上で謎の爆沈を遂げた一件であります。

 南部連合海軍は、これをドイツのUボートによる攻撃だと主張しますが、当のドイツ側は、自国との関与を全面否定。

 しかしその一方で、「それでは、その証拠を出せ」と詰め寄る南部連合側の要求を、あろうことか「軍秘に付き回答できない」と居丈高に突っぱねたのです。

 これは、当時のドイツ帝国が軍部独裁体制となっており、内政や外交より軍事上の都合を優先させるようになっていたからであって、総合的な国策としては完全な失敗と言っていい対応でした。

 弁明のひと言もないこのような言い方であれば、要らぬ疑いを掛けられても仕方がありません。

 ましてや、自国が無制限潜水艦戦を仕掛けている身であることを踏まえて考えれば、状況証拠は完全な「クロ」であります。

 確かに、後年行われた潜水調査によれば、「ストーンウォール=ジャクソン」の沈没原因は、雷撃など外部からの攻撃によるものではなく、(原因こそ不明ですが)弾火薬庫の爆発による事故の可能性が高いとの結論が出ています。

 つまるところ、「ストーンウォール=ジャクソン」の沈没に関しては、ドイツの手はほぼほぼ真っ白でありました。

 ですが、そんなことは当時の人間にわかろうはずなどありません。

 ドイツからもたらされたこの誠意なき回答に、南部連合の国民は激怒しました。

 沈没した艦の名が、南北戦争の英雄として人気の高い将軍であったことも影響しました。

 そして1917年4月、「ジャクソン将軍を忘れるな」を合い言葉に、南部連合はドイツに対して宣戦を布告するのです。

 厭戦気分の蔓延しだした西部戦線において、一国どころか一兵ですら欲しかった協商国側にとって、この「ドイツによるオウンゴール」は存外の幸運でした。

 イギリス首相デビッド=ロイド=ジョージはアメリカ合衆国と交渉し、ある程度の政治的妥協と引き替えに「戦争期間中は、アメリカ連合国へ軍事力を行使しない」という言質を引き出すことに成功します。

 これにより大手を振って動員を行えるようになった南部連合は、ヨーロッパに向けて大量の兵士を送り込むことになるわけです。

 そして、1918年3月に始まったドイツ軍の春期攻勢、いわゆる「皇帝の戦い」に初めて大規模投入された南部連合陸軍は、フランスのフェルディナン=フォッシュ将軍の指揮の下、7月の「第二次マルヌ会戦」の主力となって戦い、疲れ切ったドイツ帝国に勝利の希望を失わせるほどの戦果をもたらしたのでした。

 では一方、欧州以外の国々では、史実と比べてどのような変化があったのでしょうか。

 まず、日英同盟に基づいて参戦した日本が絡むアジアにおいての状況です。

 意外なことに、当初のイギリス政府は日本の参戦を求めていませんでした。

 彼らが極東の同盟国に求めたものは、あくまで海上護衛等の間接的軍事協力であって、派兵をともなう大々的な参戦は、むしろ「余計なお世話」だと考えていた節があったのです。

 ところが、この戦争をアジア地域のドイツ領を獲得する好機だと捉えた日本政府は、日英同盟を盾に積極参戦。

 ドイツ帝国の拠点である青島要塞を攻略するとともに、脱出したドイツ艦隊の捜索/追跡のため、太平洋の各地に艦隊を派遣しだしたのであります。

 イギリスは、アジアからインド洋・地中海に続く海上輸送路の維持に日本海軍の協力が必要不可欠と考えていましたので、渋々ながらこれを容認。

 ドイツ東洋艦隊を追って南洋諸島にあるドイツ領を日本が奪取することも、認めざるを得なくなりました。

 しかしながら、「この隙に日本がアジア権益を火事場泥棒するのではないか」というイギリスの危惧を熟知していた元老・伊藤博文は、加藤高明外相が主張する対中強硬姿勢を表立って非難。

 総理大臣・大隈重信に働きかけ、史実における「対華二十一カ条要求」のような真似をしない旨、政府の動きに制限を掛けたのでした。

 熟練の政治家である伊藤には、いま焦って火中の栗を拾わずとも、協商国側が同盟国側に勝利してしまえば求めている利権の大半が向こうの方から転がり込んでくるのが見えていたのです。

 そうした伊藤の姿勢は、いまだ根強い影響力を持っていた大陸国論者から「対英追従」と罵られるものでありましたが、結果としては正しかったとしか言いようのない結末をもたらします。

 日本の背信がないことを確信したイギリスは日英のパートナーシップをさらに重要視するようになり(自国の商船を護衛してきた日本の巡洋艦に砲撃を見舞ったオーストラリアみたいな国もありましたが)、フランスにおいては、自国の駆逐艦建造を日本企業へ依頼するまでになりました。

 両国は、日本帝国が自分たちにとっての「アジアの番犬」であることを再認識したわけです。

 そんなこんなで、伊藤によって抑制された日本帝国の行動は、アジアに権益を持つイギリスやフランス、合衆国、加えて辛亥革命によって建国が成ったばかりの中華民国をも安堵させることとなりました。

 史実と異なるコチラの日本を象徴するのが、金剛型戦艦4隻を中心とする第三戦隊の欧州派遣です。

 当時保有する最強級の戦力を遠く離れたヨーロッパに送り込むことで、日本は「我が国はアジア/太平洋地域に野心を持たない」と国際社会に宣言して見せたのです。

 そして、スエズ運河から地中海を経由してイギリス本国艦隊に編入された4隻の金剛型は、イギリス「大艦隊グランドフリート」の第4巡洋戦艦戦隊として「ユトランド沖海戦」にも参加。

 フランツ=フォン=ヒッパー提督率いるドイツ偵察部隊との交戦で大損害を出したデビット=ビーティー提督指揮下の巡洋戦艦部隊救援のため、ホーレス=フッド提督の第3巡洋戦艦戦隊とともに戦場へ急行します。

 その際、指揮官とともに轟沈した旗艦「インヴィンシブル」の仇討ちとばかりにドイツ巡洋戦艦「リュッツォー」と「デアフリンガー」を大火力(14インチ砲)にモノを言わせて撃沈し、その存在価値を高らかに主張したのでありました。

 こうして史実を上回る損害を受けたドイツ高海艦隊ですが、それでも史実どおり、戦場からの退却には成功します。

 しかしながら、貴重な巡洋戦艦隊が大打撃を受けたことに変わりはなく、以後のドイツ艦隊は史実以上に消極的な姿勢を採ることになるわけです。

 この様に、陸でも海でも勝利の目処が立たなくなったドイツ帝国を、今度は国内の混乱が襲います。

 ブレスト=リトフスク条約によってロシアとの講和が成り東部戦線の負担が消滅したものの、「皇帝の戦い」に先んじる1918年1月に首都ベルリンを初めとする産業の中心部で100万人規模の反戦ストライキが発生するなど、ドイツ国内の厭戦感情はすでに由々しきものでした。

 ドイツ政府はこうした動きに強硬姿勢で臨んだのですが、慢性的な食糧不足(戦時中、公立病院において精神病患者が約7万人餓死しています)によって不満の溜まっていた国民、特に労働者階級相手には完全な逆効果として働きます。

 ドイツの各地で、デモ、暴動、ストライキ、職場放棄が大規模に発生しました。

 加えて、日露戦争のロシア軍と同様、この当時のドイツ軍もまた、士官以上が貴族や教養市民層出身者で下士官や兵士の多くが労働者階級の出であるという構造的な問題を抱えていました。

 これは、「ドイツ軍」という巨大な組織の内部において、社会階層間の政治的対立が比較的表面化しやすかったことを意味します。

 そのため、上記のような国内の混乱はたちまち軍内部にも波及し、出口の見えない戦いに疲れ切り明日に失望していた下級兵士らよる命令不服従が多発。

 それどころか、自国の敗北が近いことを悟った部隊による反乱の脅威すらが広まっていきました。

 こうなっては、もはや戦争どころの話ではありません。

 強気の言動を崩すことなく「最終的な勝利のために」ドイツ国家のすべてを差配してきたドイツ陸軍参謀次長エーリッヒ=ルーデンドルフ将軍ですらが重圧によって心を病み、政府に対して協商国側との講和を要求しだしたくらいです。

 そして1918年11月、キール軍港で発生した水兵たちの反乱を皮切りに「ドイツ革命」が勃発。

 帝都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされました。

 それを受けたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、やむを得ずオランダに亡命。

 残された政府は協商国側に和を乞い、第一次世界大戦は実質的な終戦を迎えることになるのでした。

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