今世も捨てたものじゃない 後編
紫色のクレマチスが生い茂る生垣の向こうは、開けた場所になっていた。
そこにテーブルと椅子を並べて優雅にカップを傾けていたのは、グローバルに大活躍中の反社会的勢力マーロウ一家のボスである。
今世の私ことロッタの保護者役であり、前世でも洒落にならない関わり方をした相手なのだが……ひとまずは割愛する。
なお、そんなボスの向かいには、薬と並行してえげつない毒を作ることで定評のある森の魔女アンがにこやかに腰掛けていた。
「いったい、どこから……」
「もちろん、城の正門から堂々とお邪魔しましたが?」
悪びれもせずにボスが答えたとたん、先生はぐりんっと首を回して背中に張り付く私を見た。
その動きがフクロウっぽくてウケる、と口にしそうになったが、彼の目が三角になっていたため思い止まる。
「バイトちゃん、この状況に心当たりがあるのなら言いなさい」
「えーっと、えーっと……もしかしたらなんですが、先日門番のおじいさんにボスを紹介して、私の保護者なので顔パスでよろしくってお願いしたからかもしれません」
「もしかしたらじゃなくて、疑うべくもなくそのせいだよね? いいかい、バイトちゃん? 彼は、反社会的勢力のボスなの! 王妃の君と堂々と繋がってちゃいけない相手なわけっ!!」
「安心してください、先生! ボスがマーロウ一家のボスだと知ってるのは、裏社会に精通している人間だけですから! 善良な一般市民である門番さんは、全く気づいていらっしゃいませんよ!」
この後、何も! 安心! できないっ!! と先生の雷が落ちるのはいつものことである。
「先生だって、ボスを舞踏会に招待したり結婚式に呼んだりしたじゃないですかー!」
「舞踏会は仮面で顔を隠していたし、結婚式もちゃんと根回ししてから呼んだんだよ! こうやって気軽に遊びに来られるのは、想! 定! 外っ!!」
私と先生のそんなやりとりを、ボスは面白そうに眺めていた。
一方ザラは、彼の足下に忠犬よろしくお座りしている。今はあの位置が彼女の〝ハウス〟なのだろうか。
かつては悪の権化のようだった女は、数々の悪事を罪に問われない代わりに、人間としての尊厳をすっかり奪われてしまった。
いつの間にボスに調教されたのかと戦慄を覚えるものの、意外にもザラ本人は幸せそうだ。
しかし、ボスはそんな彼女を一瞥することもなく、ニヤリとした笑みを浮かべて先生を流し見た。
「ロッタとの夫婦ごっこは順調のようで何よりでございます、陛下。ところで、二人揃ってどちらへおいででしょうか。この先には、なんの変哲もない小屋が一つあるだけだと記憶しておりますが?」
「夫婦ごっことは心外な。レクター・マーロウともあろう方が、随分と野暮なことをおっしゃる。愛する妻さえ隣にいれば、なんの変哲もない小屋は贅を尽くした宮殿にも劣らぬ素晴らしい場所になるのですよ」
「いやはや、惚気られてしまいましたなぁ……あいにく、あの小屋には先客がおられますよ。先ほど弟君が、何とも挙動不審な様子で入っていかれましたからね」
「いや、知っとるんかい」
先生とボスがそんな茶番を演じている間に、私はアンのチェリーパイをホールでゲットし、ザラの頭にはカラスのハトさんが着地する。
鋭い爪を装備した足で頭をガシガシ踏み付けられ、ザラが子犬みたいにキャンキャン鳴いた。
一時間ほど前からここでお茶をしているらしいボスやアンによると、アルフ殿下だけではなく女性文官もすでに小屋に入っているという。
「王弟殿下のスキャンダルは、陛下のおみ足を引っ張ることになるやもしれませんね。我がマーロウ一家では別れさせ屋のご依頼も承っておりますが、いかがでございましょう。今ならお安くしておきますが?」
「せっかくのお申し出ですが、お断りします。弟の不始末は私の不始末。万が一の場合も、他人の手を借りるつもりは毛頭ございませんので」
早々に事情を察したボスからの提案を、先生はぴしゃりと跳ね除ける。
そうして、チェリーパイを丸齧りしていた私の肩を抱いて、いよいよ件の小屋に向かって歩き出した。
ボスの視線を背中に感じる。
それがようやく外れた頃、小屋はすぐ目の前まで迫っていた。
チェリーパイの最後の一片を口に放り込んだ私は、指についたパイの粉を落としつつ、隣を歩く先生をおずおずと見上げる。
「先生、もしも本当にアルフ様が既婚者とお付き合いしていたら……やっぱり別れさせるんですか?」
「双方に自制を促すつもりではいるよ。アルフも相手も大人なんだから、最終的には自己責任になるだろうけどね」
先生はそんな突き放したような言い方をした後、すぐにこう続けた。
「不倫は、結局は誰も幸せにならないし、その結末は総じてろくでもない。相手にはすでに子供もいるわけで、因縁は子々孫々続いていくことになるだろう。アルフには、そうしっかりと伝えるよ」
前世において、先生は不倫を発端とした修羅場や泥沼裁判に数知れず立ち会ってきたため、その言葉には重みがあった。
「先生は、アルフ様に幸せになってもらいたいんですね?」
「まあ、曲がりなりにもあいつは俺の弟だからね」
小さく肩を竦めた先生が、私の口の端に付いていたパイの粉を親指で拭う。
と、その時だった。
「……っ、あ、待て! そんなにしては、だめだっ……!」
突如、小屋の中から悩ましげな声が聞こえてきたのである。
間違いない。アルフ殿下の声だ。
それに重なるように、妙齢の女性のくすくすと笑う声も響いた。
「あああっ……い、いけない! やめて、やめてくれっ……!」
さらに、悲鳴にも似たアルフ殿下の声が続き、私は先生と顔を見合わせる。
「まさか、アルフのやつ……相手に弱みでも握られて、いいようにされているんじゃ……」
「えええ!? ア、アルフ様が……えっちなお姉さんに、無理やりぃ!?」
弟君の貞操の危機かもしれない!
のんきにチェリーパイを食べている場合ではなかった!
居てもたっても居られず、私達は一気に小屋へと突入する。
簡素な木の扉を先生が蹴破り、私はいつでもナイフを抜けるようにしながら中へと飛び込んだ。
ところが――
「「――え?」」
次の瞬間、私も先生も目が点になった。
というのも、いたいけな弟君は、えっちなお姉さんに組み敷かれているのではなく……
「ワフッ! ワフワフッ!」
「キューン……」
「キャン! キャンキャン!」
モッフモフの子犬に塗れていたのだから。
「あ、兄上に義姉上……!? ど、どどど、どうしてここに!?」
小屋の中には、柴犬っぽい明るい茶色の毛並みをした子犬が四頭いた。
そのうちの一頭に舐め回され、顔中よだれでビショビショのアルフ殿下が、私と先生の姿に目を丸くする。
えっちなお姉さん、もといアルフ殿下の不倫相手と目された女性文官は少し離れた場所にある木箱に腰掛け、眠る子犬を膝に抱いていた。
なんということはない。
アルフ殿下は町で拾ってきた子犬をこっそりこの小屋で飼っていて、ひょんなことからその秘密を知った女性文官が世話を手伝っていた。
ただ、それだけのことだったのだ。
「つまり……私の完全なる勘違い、ってことですか……」
呆然と呟く私の隣で、先生がアルフ殿下に呆れた顔を向ける。
「そもそも、どうして隠す必要があるのかな。犬くらい、堂々と飼えばいいだろうが」
「だ、だって……子犬達、本当に可愛いんですよ? 彼らを前にして腑抜けた姿を、兄上に見られたくなかったんです……」
「大丈夫ですよ。お兄様だってこう見えて、全然腑抜けた顔しますから」
「バイトちゃん、黙ろうか? あと、全然の使い方間違っているから気をつけて?」
現在この国の最高権力者は、国王となった先生である。
そんな兄王から、子犬達を王宮で飼おうと腑抜けた顔を晒そうと問題ないと言われて、アルフ殿下は安堵した様子だった。
ようございましたね、と微笑む女性文官の慈愛に溢れた眼差しは、王弟殿下に対するというよりも、幼児に対する母のそれ。
そんな彼女とアルフ殿下が色っぽい関係にあるのでは、なんて疑ってしまった自分が、私はとてつもなく恥ずかしくなる。
「せ、先生……無駄な時間を過ごさせてしまって、ごめんなさい……」
「でもまあ、いい息抜きにはなったよ。ちょっと仕事が煮詰まっていたからね。バイトちゃんと――愛する妻と散歩したおかげで、気持ちもほぐれた。結果的には有意義な時間になったよ」
「先生、ありがとうございます……でも、よくそんな歯の浮くようなセリフ吐けますよね?」
「……バイトちゃん、お菓子没収ね」
子犬は、アルフ殿下が二頭、女性文官が膝で眠っていた一頭を、さらには先生も残りの一頭を抱え上げた。
私は先生に没収されないよう、お菓子の山をぎゅっと抱き締める。
私達が小屋を後にすると、ボスとアンはまださっきの場所でお茶を楽しんでいた。
ボスの肩にはハトさんが止まり、足下ではザラが丸くなって微睡んでいる。
ここでふとあることを思い出した私は、そういえば、と口を開いた。
「いいニュース、もう一つあったんでした。先生、聞きたいですか?」
「あー、はいはい。聞かせてもらおうかな」
ハトさんのことが気になるのか、先生が抱っこした子犬がジタバタと暴れ出す。
それを宥めつつおざなりに返事をした彼に――私は、少々はにかみながら告げた。
「えっとですね……実は、赤ちゃんができました」
「……え?」
とたん、先生はぐりんっと首を回して私を見る。
その動きがやっぱりフクロウっぽくてウケると口にしそうになったが、彼の目がこぼれ落ちそうになっているのを見て思い止まった。
その場に居合わせたボスやアルフ殿下、女性文官も驚いた顔をしている。
アンだけは、お祝いの準備をしなくっちゃ、と張り切り出した。
瞬きも忘れてこちらを凝視する先生に向かい、私は笑顔で続ける。
「さっき、侍女頭さんに付き添ってもらって検診を受けたんです。ちょうど、三ヶ月目くらいですって」
「ど――どうしてそれを! 先に! 言わないのっ!!」
とたん、先生は子犬を放り出し、代わりに私を抱え上げた。
おかげで、私が抱えていたお菓子は散らばるわ、放り出された子犬はハトさんに飛び付こうとしてボスの足下にいたザラを踏みつけるわ、それに怒ったザラと子犬四頭による全力追いかけっこが始まってしまうわで、てんやわんやである。
そんな混沌とした光景は、今世の私と先生の波瀾に満ちた人生を暗示しているように思えた。
けれども……
「今世最高の、いいニュースだ」
そう断言した先生があまりにも幸せそうだったから――私は、今世も捨てたものじゃないと思ったのである。




