今世も捨てたものじゃない 前編
「先生――いいニュースと悪いニュースがあります」
「開口一番、それ?」
先生こと即位して間もなく一年を迎えるクロード・ヴェーデン国王の青い瞳は、眉間に皺を刻んで読んでいた書類から私に移った。
ここは、建国より二千年を数える世界最古の国、ヴェーデン王国。
魔女が住まう深い森に囲まれた高台の上にあり、周囲の国々が栄枯盛衰目紛しく変化するのを悠々と眺めてきた。
その中心に立つ王城の国王執務室を訪ねた私は、山盛りの書類と格闘していた先生の側まで寄っていって繰り返す。
「いいニュースと悪いニュースがあるんです」
「バイトちゃん……さては、それが言いたいだけでしょ?」
「まずは、いいニュースから」
「どっちから聞くかは選べないシステムなんだ?」
私はキョロキョロと辺りを見回してから、先生の耳元に口を寄せる。
現在、国王執務室には私達二人きりなのだが、どこで誰が聞き耳を立てているかもわからないからだ。
壁に耳あり障子に目あり、である。
ちなみに、今世はグローバルに大活躍中の反社会的勢力マーロウ一家で育った私ことロッタも、長年その耳だとか目だとかの役目を担ってきた。
そんな私を王太子妃に、さらには王妃にしてしまったのが先生だ。
彼は書類を右手に持ったまま、ポンポンと自分の左腿を叩いてみせた。
座れ、ということらしい。
今世での再会時に刻まれた先生の左脇腹の傷はもうすっかり癒えたが、彼が私を左側に置きたがる癖は消えていない。
また、やたらと私を抱っこしたがるのは、仕事が煮詰まっていらいらしている時だ。おそらく、猫ちゃんを抱っこして癒されるみたいな感覚なのだろう。
私は言われるままに、白いズボンに包まれた先生の左腿に腰掛けると、ちょうど近くなった左耳にコソコソと囁いた。
「アルフ様に、春がきました」
「へえ、それはめでたいね。それで? 悪いニュースとは?」
「お相手が、既婚者でした」
「……なんだって」
とたん、頭が痛いといった顔をした先生だったが、すぐにそれを訝しげな表情に変える。
「いや、待てよ。アルフに限って不倫なんてするかな? あいつ、潔癖なところがあるだろう? ――バイトちゃん、アルフが不倫していると結論づけた根拠を示しなさい」
前世は敏腕弁護士だった先生の質問に、私も大真面目な顔をして答える。
「お城の庭の隅にある小屋で密会を重ねているのを確認しました。ここ数日は毎日です」
「いつの間に内偵調査していたんだか……。しかし、小屋で会っているだけでは、二人が関係しているとは限らないんじゃないか?」
「だって、人目を忍んで落ち合って、いつも一時間ほど滞在してから頬を上気させて出てくるんですよ? あれは完全にヤっとるでしょう」
「いや、生々しいな。ヤっとるとか言うんじゃありません」
アルフ・ヴェーデンは今世の先生の父親違いの弟で、二十歳の誕生日を迎えると同時に王位継承権を放棄し、兄の忠臣となることを誓った実直な青年である。
そんなアルフ殿下と密会していると思しき相手は、宰相執務室で働く美人と名高い女性文官だ。
現宰相である父パウル様に師事しているアルフ殿下とは、日常的に関わりの多い人物でもある。
前述した通りの既婚者で、子供は三人。夫は、近衛師団に属す騎士だった。
「お兄様の強火オタクだった弟君が、初めての恋……できることなら応援してあげたかったんですが、不倫はいただけません。旦那さんにバレて、アルフ様が剣でグサーッとされるところまで余裕で想像できますもん」
「まあ、感心はしないね。将来俺の右腕となるべき人間のスキャンダルは望ましくない」
「そういうわけですので……先生、なんとかしてください」
「突然の丸投げ」
清廉とした印象が売りのアルフ殿下にとって、不義密通は大きなイメージダウンになるに違いなかった。
はたして彼は、それを自覚しているのだろうか。
王族たるもの、リスクマネジメントを怠ることは許されない。
先生は読んでいた書類にささっとサインを施して処理済みの山に加えると、とにかく、と口を開いた。
「まずは事実関係を調査しないといけないね。アルフは……ああ、ちょうど宰相執務室が休憩に入る頃合いだな」
「いつも、アルフ様が彼女とヤっとる時間ですよ」
「ヤっとるとか言うんじゃありません。アルフのそういう場面、全然想像できないんだけど」
「私もですよ。そもそも一人で受け止められる自信がないので、先生に相談したんです」
時刻は午後三時。
侍女がやってきてお茶の用意をしようとするのを断ると、先生は私の手を引いて国王執務室を後にした。
アルフ殿下と女性文官の密会場所と思しき小屋までは、広大な庭を突っ切らねばならない。
ところが、王城の庭は普段から社交の場となっており、私達は目的地に着くまで度々足を止めることになる。
「やあ、クロードにロッタ。ちょうどいいところに来たね」
「一緒にお茶にしないかい? お菓子もたくさん用意してあるよ」
まず出会ったのは、色とりどりの花々が咲き誇る中でお茶を楽しむ、前君主夫妻だった。
エレノア様は長男である先生に玉座を譲って以降、悠々自適の隠居生活を送っている。
パウル様も長年の確執を乗り越え、先生とも本当の父子のように酒を酌み交わすまでになった。
そんな義両親が囲むテーブルには所狭しとお菓子が並んでおり、私は一瞬にして目が釘付けになる。
「母上、父上、申し訳ありません。急ぎの用がありますので、今日のところは――」
「お菓子をいただきます」
「こらこらこら。さっそく目的を忘れるんじゃないよ」
「おかしー!」
花に誘われる蝶のごとく、ふらふらと寄っていこうとするものの、先生にガッチリと捕まえられてしまった。
両手をジタバタさせる私とそれを抱え込む先生を、エレノア様とパウル様が微笑ましそうに眺めている。
「目の前にあるお菓子の誘惑に抗うなんて、私には到底無理ですよぅ。そんなの、先生が一番知ってるでしょうー」
「はいはい、お菓子なら後でたっぷり食べさせてあげるからね。今はアルフの動向を探りにいくところでしょ?」
「……はっ、そうでした! アルフ様がヤっとる現場を押さえに行くんでした!」
「ヤっとるとか言うんじゃありません」
道ならぬ恋に走っているかもしれない弟君のことを思い出した私は、苦渋の思いでお菓子から視線を引き剥がす。
なにしろ、こうしている間にも、あの純粋無垢だったアルフ殿下が既婚者と不適切な関係を結んでいるかもしれないのだ。
そんなことなど知る由もないエレノア様とパウル様は、微笑みを交わしつつ言った。
「何だかわからないけれど、行くところがあるのだね?」
「お菓子は包んであげるから、たくさん持っておいき」
理解のある義両親のおかげで無事お菓子をゲットした私は、呆れ顔の先生に手を引かれて再び歩き出す。
しかしその後も、様々な相手が私と先生の――いや、主に私の行く手を阻むことになった。
「おやおや、陛下に妃殿下! 今日も仲睦まじくていらっしゃいますなぁ!」
満面の笑みを浮かべて言うのは、こちらは今日も信楽狸にそっくりなボスウェル公爵である。
パウル様の兄である彼も、庭園の花を愛でつつ年嵩の貴族達とお茶を楽しんでいた。
先ほどパウル様にもらったお菓子の中からゼリービーンズをお裾分けすれば、代わりに中身がたっぷり入ったシュークリームを持たされてしまう。
続いて、通りすがりのモアイさんこと近衛師団長モア・イーサンにより、ゼリービーンズは彼の妻が焼いたというスコーンへとメタモルフォーゼ。
今更ながら、モアイさんが妻帯者であることが判明した。
さらには、副団長ダン・グレゴリーによりクッキーに、総料理長によりガレットに、カラスのハトさんにより謎の赤い実に、ゼリービーンズはそれぞれ華麗な転身を遂げることとなる。
「わわ、お菓子がいっぱい……! 異世界まで来てわらしべ長者を体現することになるとは思いませんでしたね、先生!」
「わらしべじゃなくてゼリービーンズだけどね。バイトちゃんが幸せそうで俺も嬉しいよ。そろそろ本来の目的も思い出してもらえると、もっと嬉しいんだけどなぁ?」
「はっ……今、思い出しました! いざ! お菓子食べながらアルフ様の痴態を見届けしましょう!」
「いや、弟の濡れ場をデバガメなんて、冗談でも御免なんだけど。それはそうと……ハトさんにもらった赤い実、それ何?」
そうこうしているうちに、目的の小屋が木立の向こうに小さく見えてくる。
残ったゼリービーンズを先生と自分の口に放り込みつつ、小屋の状況を遠目に確認しようと目を凝らした時だ。
すぐ側のクレマチスの生垣がガサガサと大きく揺れたかと思ったら、バッと何者かが飛び出してきた。
「先生、下がってくださいっ!」
「バイトちゃん!?」
私はスカートの下に隠していたナイフを握り締め、先生の前に躍り出る。
もう一年以上も前になるが、突然の襲撃によって先生やパウル様が深傷を負ったことがあった。
先生に至っては、ナイフに塗られていた毒で死にかけたのだ。
当時のことを思い出すと、私は今でも背筋が凍るような気分になる。
二度とあのような事態に陥らないよう、今世は生涯をかけて先生を――クロード・ヴェーデンを守ると決意した。
そんな私の前に現れたのは……
「ひえっ……!?」
あろうことか、存在そのものがトラウマとなっている女。
悲鳴を噛み殺すのに失敗した私に向かって、彼女――マーロウ一家の先代ボスの娘ザラ・マーロウは、顔を輝かせて両手を広げた。
「ロッタちゃーん! 会いたかったわー!!」
「ひえええっ……わ、私は会いたくなかったですー!!」
私はとっさに、ハトさんにもらった謎の赤い実を投げつける。
それがうまい具合にザラの口に飛び込み、すっぱ! と叫んで彼女がもんどり打った。動きが怪異じみていてとにかく不気味だ。
赤い実は、どうやら赤スグリだったらしい。
栄養素が豊富で美容効果があると言われるスーパーフードだが、酸味が強いため人間はジャムなどにして食べる。
その酸味でザラが怯んでいる隙に、私は慌てて先生の背中に逃げ込んだ。
彼を守るという決意に反するが、身体が勝手に動いてしまうのだからしょうがない。
「こわいこわいこわいこわい……」
「なぜ、ザラ・マーロウがここに?」
先生はザラの登場に眉を顰めつつも、背中に張り付く私には満更でもなさそうな顔をする。
するとここで、また新たな人物が加わった。
「――ザラ、ハウス」
「わんっ」
ザラが飛び出してきた茂みの向こうから、今世の私にとっては最も耳慣れた慕わしい声がする。
犬のように鳴いて駆け戻っていくザラを目で追い――
「いや、なんで! あんたが堂々と城の庭でお茶しているのかなぁ? ――レクター・マーロウ!」
「ははは、お邪魔しておりますよ、国王陛下」
今度は先生が悲鳴を上げる番だった。




