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39 先生の未練と私の未練

 前世で私が死んだ後、先生は事務所を畳んだ。

 海外に移り住んで弁護士を続けるも、以前のような覇気はない。

 最終的には碌でも無い死に方をしたようだが、そこら辺はどうにもあやふやで判然としなかった。

 にもかかわらず、私の最期だけがあんなに鮮明なのは、それだけ私の死が彼にとって衝撃だったということだろうか。

 先生に振り回されてばかりとか、見捨てられないとか、上から目線なことばかり思っていたが、それが独り善がりだったことを知り、私は居たたまれなくなった。


「先生、ごめんなさい……」


 目の前で人が死ぬのは、想像以上に辛い経験だろう。

 それが親しい相手で、無惨な死に方であったらなおさら。

 心臓にボーボーに毛が生えた先生も例外ではなかった。

 深層心理の中にいるせいで、彼の絶望と悲しみがダイレクトに伝わってくる。

 大げさでも自惚れでもなく、前世の先生の人生を狂わせたのは〝私の死〟だった。

 私を守れなかった、むざむざと死なせてしまったことを、先生は死ぬその瞬間まで後悔し続けたのだ。

 さっき、私が前へ出て庇おうとした時、先生があんなに取り乱して拒絶した理由が分かったような気がした。


「先生……」


 アンは、未練があるから千年もの間転生を繰り返して魔女の花を育ててきたと言った。

 記憶を持ったまま生まれ変わる理由が未練だとしたら、先生にとってのそれは、やはり前世の私の死だろう。

 となると、私自身が抱えて転生した未練とは、はたして何なのだろうか。

 両親を残して逝くこと。友達ともっと遊びたかったこと。大学を卒業できなかったこと。就職、恋、結婚――きっと、前世の未練なんて挙げ出したら切りがない。

 けれども、一番心残りなのは……


「先生が、私のいない間にまた無茶しないかって、心配だったんだよね……」


 前世において、私は先生の仕事絡みで危ない目に遭う度に、今度こそアルバイトを辞めてやるんだと思いつつも、結局最後まで辞められなかった。

 時給が良くて先生がイケメンで、彼の作る賄いに胃袋を掴まれていたのも事実。

 だが、私がアルバイトを辞める踏ん切りがつかなかった最大の要因は、自分が離れたとたんに先生が死んでしまうのではないかという不安を抱いたことだった。

 私は手の甲で涙を拭い、立ち上がる。

 前世も今世も、結局は先生を見捨てることなんてできないのだ――だって、出会ってしまったから。

 そのせいで、私は何だか今世もまた安らかな最期を迎えられる気がしなくなった――それでも、先生の側にいたいと思ったのだ。


 願わくば、せめて――来世こそは畳の上で死にたい。


 そんな私の気も知らず、自分の言葉が否定されるなんて微塵も思っていない、いっそ憎たらしいほど晴れやかな顔をして先生が宣った言葉を思い出す。


『バイトちゃんのことは特別に思っているんだよ。前世では何人も人を雇ったけれど、最後まで俺のもとに居てくれたのは君だけだったからね。ねえ、こうして新たな人生で再会したことに運命を感じないかい? ちなみに俺は感じる』


「私も、今なら感じますよ、先生。前世ではほんの短い間しか一緒にいられなかったですけど、今世こそは――」


 私は再び走り出した。

 自分が、何のために先生の夢の中にいるのかを思い出したからだ。

 先立って私の夢を訪れたボスは、思い出の中の私とではなく、私自身の意識と会話を交わして目的を告げた。

 つまり、この夢の中のどこかに存在しているはずの先生自身の意識を見つけ出し、蠱毒の呪いに打ち勝たせなければ、彼を目覚めさせることはできないだろう。

 周囲の白い世界では、相変わらず先生のドキュメンタリー映画が何度も何度も繰り返し上映されている。

 しかし、私はもう過去になんて気を取られることもなく、ひたすら今を生きる先生を探して駆け回った。

 ボスが、前世で自分を殺した男の生まれ変わりだという事実はいまだ受け入れ難いものの、今はひとまず心の隅に追いやることにする。

 そうして、どれくらい走った頃だろう。

 ふいに、ずっと遠くの方にぽつんと一つ、扉が立っているのに気付いた。

 私は吸い寄せられるように、その扉の前まで駆けていく。どれだけ走っても全然息が上がらないのは、生身じゃないからだろうか。

 辿り着いたのは、随分と飾り気のない扉だった。

 真ん中に細長い長方形の磨りガラスが差し込まれたスリットドア――先生が前世で開いていた弁護士事務所の扉だ。

 さっき意気揚々と開いたとたんに血塗れの自分と対面することになったのだから、見間違えるはずもない。

 ところが、ドアノブに手を掛けるのを、私は一瞬躊躇した。

 再び、自分の死に様を見せ付けられるのが怖かったのだ。

 それでも、この扉の向こうに探し求めた先生自身がいるような気がして仕方がない。


「……よし」


 しばしの逡巡の後、私はさっきみたいにいきなり開けるのではなく、ノックをしてみることにした。

 コンコン、と右手でスチールの扉を叩く。夢の中なのに、その感触はいやにリアルだ。

 少しして、「はい」と返事があった。前世の先生の声だ。

 はっと息を呑んだ瞬間、私は自分の左手が何かを握り締めていることに気付いた。


「えっ、これ……履歴書……?」


 いつの間にか服装も、仮装舞踏会用の黒猫のコスプレから、シャツワンピースとサンダルという前世の装いに変わっている。

 それは、さっき先生のドキュメンタリー映画の中で見た、面接当日の装いだった。

 カチャリ、と音を立ててドアノブが動く。

 ゆっくりと開いた扉の向こうには、先生が――かっちりとしたスーツを身に纏った前世の先生が立っていた。

 日本人らしい茶色の瞳が私を映して優しく細まる。


「やあ、いらっしゃい」


 先生の台詞も表情も、初対面の時のそれだった。

 私は、ここまで傍観するしかなかった彼の思い出の中に、唐突に組み込まれてしまったのかと思ったが……


「――もう、どこにも行かせないから」


 中に入って扉を閉めたとたん、ぎゅっと正面から抱き竦められて、これがただの思い出なんかじゃないことを確信する。

 だって、前世の私達は雇い主とアルバイトという関係でしかなかったのだ。

 こんなに思いの丈いっぱいに抱き締められた思い出なんて、あるはずもなかった。


「せ、先生……?」


 先生は私を抱き上げると、事務所の奥へと歩いていく。

 受付用のローカウンターやパーテーションで区切られた会議室の横を通り過ぎ、部屋の中が丸見えにならないよう置かれた観葉植物を避ければ、先生のデスクと私のデスク、奥にコンロが二口付いたキッチンが現れた。

 その向こうの窓の外は墨で塗り潰したみたいに真っ黒で、明かりは一つも見えない。

 どこからかかすかに、ブンブン、と虫の羽音のようなものだけが聞こえてくるような気がした。

 先生は自分のデスクの前に腰を下ろすと、私を膝の上でぎゅっと抱き締める。

 決して離すまいとするその腕の中で、私はただただ戸惑うばかりだった。


「――君に、ずっと側にいてもらいたかった」


 私の肩口に顔を埋め、先生がぽつりと呟く。

 それを皮切りに、彼の思いが溢れ出した。


「君がいると心強かった。フォローが上手だし、人好きする子だからね」


「君が就職活動を始める前に、口説くつもりでいたんだよ。このままうちに就職しなよってね」


「君のために、もっと飯を作ってやりたかった。君と、もっと一緒に飯を食いたかったんだ」


 先生は痛いくらいの力で私を抱き締めて、絞り出すような声で吐き出し続ける。

 私は目を丸くしてそれを聞いていた。

 先生にとって前世の未練とは、単純に私を死なせてしまったことへの後悔だと思っていたのだ。

 ところが、実際に彼自身の口から紡がれた思いはもっとずっと温かくて、私に対する情に溢れていた。

 前世の先生との付き合いは、正直一年にも満たない短い時間だったけれど、彼がこんなに自分を必要としてくれていたことを知り胸が熱くなる。

 私は、とたんに先生の表情が見たくなって、自分の肩口にくっ付いた彼の頭を両手で掴んで引き剥がす。

 そうしてその顔を覗き込んだとたん、私ははっと息を呑んだ。



「せ、先生……? どうしちゃったんですか……?」



 さっき扉を開いて対面した時、確かに私を映して優しく細まった茶色の瞳に、光がなかった。

 それどころか、視線が明らかに不自然な様子でうろうろと動き、焦点が定まらないようだ。


「バイトちゃん、どこ……? 俺の目の前にいる? ねえ、ここにいる!?」

「い、います! いますよ! 先生が今抱っこしてるの、私ですよ!?」

「……っ、聞こえない! もうずっと蜂の羽音がうるさくて、何も聞こえないんだっ!!」

「――えっ?」


 そのとたん、これまでかすかに聞こえていたブンブンという虫の羽音のようなものが、突然大きくなった。

 驚いて顔を上げた瞬間、私はひっと喉の奥で悲鳴を上げる。

 さっきまで墨で塗り潰したみたいに真っ黒だった窓の向こうから、巨大な蜂が一匹、こちらを覗き込んでいたからだ。

 ブンブンと、羽音はますます大きくなっていき、私は思わず両手で耳を塞ぐ。

 そんな私を、先生は今度は隠すみたいにぎゅっと抱き竦めて叫んだ。


「もう、どこにもいかないで! ここにいなきゃ、あの蜂に食われてしまう! バイトちゃん、ずっと俺とここにいなきゃだめだ!」

「先生……」


 どこにもいかないで、ここにいなきゃ――そう、狂ったみたいに繰り返す。

 その姿があまりに先生らしかぬ様子だったからだろう。私は逆に冷静になった。

 このおかしな状況を作り出しているのは、先生を冒している毒に違いない。

 おそらく、毒虫だらけの壷の中で最後に生き残ったのは蜂だったのだろう。それが、蠱毒となって先生を呪っているのだ。

 このまま彼の意識を事務所という小さな箱の中に閉じ込めて、じわじわと殺すつもりなのかもしれない。



「――そんなこと、絶対にさせるもんか」



 私は身体を捩って先生の腕の中から抜け出すと、彼の頬を両手で挟んだ。

 そうして、お互いの鼻先がぶつかるくらいに顔を近づけて、蜂の羽音に負けじと叫ぶ。


「先生、ここはだめです! 過去ここにいちゃ、だめなんです! こんな場所に、未来なんてないんですからっ!!」

「……バイトちゃん? バイトちゃんの、声かな? 何? 何て言ってるの……?」

「先生、一緒に帰りましょう? 私と一緒に夢から覚めて、未来に行きましょうよっ!!」

「ああ……だめだ、聞こえない。バイトちゃんの声が聞きたいのに……」


 私はギリリと歯噛みした。

 必死に叫べども、今一歩蠱毒の呪いに勝てないのだ。

 そんな私を嘲笑うかのように、蜂の羽音はますます大きくなった。

 一体どうすれば、と頭を抱えかけた――その時である。





 ぐー……





 相も変わらず空気を読まない私のお腹が、突然大きく鳴いた。

 さすがにこのタイミングはない、と我がことながらげんなりと項垂れたのだが……



「……お腹が空いてるの?」



 先生の口から、まるで前世での初対面を彷彿とさせるような台詞が飛び出して、私はぱっと顔を上げる。

 すると、今の今まで光がなくて焦点も合っていなかったはずの彼の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。

 その中には、目をまん丸にした私が映っており、思わずまじまじと眺めてしまう。

 すると、茶色のアイリスは徐々に青色へと変化し始め――やがて、そこに映り込んだ私の顔も前世のものから今世のロッタへと変わっていった。


「先生……? 私の声、聞こえてます?」

「うん……」


 あんなにうるさかった蜂の羽音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 窓の向こうにも、もうその姿はない。

 ぐー……、ともう一度お腹が鳴ると、先生は苦笑いを浮かべて私を抱き締めた。


「たいへんだ。君を飢えさせないって約束だったのに、こんな場所にいては飯も作れないよね?」

「そう、そうですよ! ここにいたら、私、お腹が空き過ぎて死んじゃいますからっ!」

「それはいけない。絶対だめだ。一刻も早く目を覚まさないとね?」

「はいっ!」


 ここにはいられない――先生自身がそう思ったからだろう。

 前世で一緒に過ごした懐かしい事務所の光景は、インクに水を落としたみたいにゆっくりと滲んで輪郭がなくなり、やがて跡形もなく消え去る。

 気が付けば、何もない真っ白い空間に先生と二人並んで立っていた。

 ふと足元を見れば、小さな蜂が一匹転がっていて、まさしく虫の息といった様子でピクピクと小刻みに震えている。

 哀れにも見えるそれを何の躊躇もなく踏みつぶし、留めをさしたのは先生だった。

 不思議なことに、彼が足を退けると、蜂の残骸どころかそこに居た形跡さえもきれいさっぱり無くなっていた。

 あの蜂が本当に蠱毒だとすれば、先生自身がその呪いを断ち切ったことになる。

 失敗した呪いは術者に返ると言うが……はてさて、どうなることやら。

 やがて、遠くの方でゆっくりと朝日のような光が昇り始めた。

 その光を浴びるに連れ、私の身体も先生の身体も透けていく。きっと、先生の目覚めが近いのだろう。

 夢が終われば、そこに侵入している私の意識も弾き出されて元の身体に戻ることになる。

 私達は自然と顔を見合わせ、いかばかりかの離れ難さにどちらともなく身を寄せ合った。

 そんな私達を急かすように、お腹の虫がまた、ぐーっと鳴く。

 先生は私の手を握ると、くすりと笑って言った。

 

「目が覚めたら、さっそく飯を作ろう。バイトちゃんは今、何が一番食べたい?」


 何が一番食べたいか、だなんて。

 そんなたいそう難しい質問に、私はしばしの逡巡の後……


「チャーハン――チャーハンが食べたいです。先生が、私に初めて作ってくれたのと同じのが」


 先生の手を握り返して、そう答えたのだった。



 

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