38 〝おもしれー女〟認定
事務所が入ったビルの廊下を走っていたはずが、いつの間にか周囲は真っ白くて何も無い空間に変わっていた。
いや、何もないというと語弊がある。
真っ白い空間をスクリーンにして、見たことのない映像が、次々と浮かんでは消えていく。
それらが先生の思い出――彼が前世で歩んだ軌跡なのだと気付いた時、私はやっと走るのをやめた。
「……先生の、ドキュメンタリー映画みたい」
真っ白いスクリーンには、様々な年代の先生が映し出される。
幼稚園児くらいの先生もいれば、学生服を着た先生もいた。
可愛い女の子が隣にいるのを見た時は、何故だかチクリと胸が痛んだ。
おそらく先生の両親であろう男女の映像もあったが、随分と素っ気無い様子だった。
やがて、剣道着姿で竹刀を構える先生が現れて、高校までは剣道部だったという話を思い出す。
高校生の先生が「主将」と呼んだ人物は、本当にモアイさん――というか、モアイ像そっくりの彫りの深さで、少しだけ笑ってしまった。
その後はしばらく、勉強に没頭する姿ばかりが目立つようになる。
晴れて司法試験に合格。一年間の司法修習を経て弁護士デビューを果たしてから、個人事務所を開業するまではどこかの弁護士事務所に勤めていたようだ。
私の前にも何人か事務のアルバイトを雇っていたという話だったが、彼ら彼女らの映像はひどく朧げで、誰も長く続かなかったというのが見て取れた。
そして――
ついに来ました、私のターン。
履歴書を握り締め、緊張の面持ちで事務所の扉を叩いた前世の自分を、先生視点で眺めるのはものすごく新鮮だった。
パーテーションで囲まれて会議室で向かい合い、いざ面接が始まったとたん、ぐーっと鳴ったのは前世でも空気を読むことを知らなかった私のお腹。
しかも、聞こえていない振りをするのも難しいほどの豪快な音だった。
『ええっと……お腹が空いてるの?』
『はい、実は……。今日が課題の提出日なのを忘れてまして、昼休み返上でレポートを書いていたのでランチを食べ損ねちゃったんです……』
笑いを堪えつつ尋ねる先生に、私はしょんぼりとした顔で事情を打ち明ける。
すると、そんな私がよほど哀れに見えたのか、先生はしばしの逡巡の後――
『簡単なものでよかったら作るけど、食べるかい?』
そう言って、ちゃちゃっと作ってくれたのは、チャーハンだった。
中華屋さんのみたいにパラパラで、香ばしい醤油の匂いに食欲がそそられる逸品である。
今の今まで忘れていたが、私ってば初対面でいきなり先生に胃袋を掴まれてしまっていた。
そりゃあ、簡単には離れられないわけだ。
ここからの先生の思い出は、私自身が照れてしまうくらいに、私で埋め尽くされるようになる。
『俺が作った飯をやたらと旨そうに、びっくりするくらいたくさん食う』
『キッチンに立つと熱視線を注いでくるくせに、データ入力はすこぶる正確』
『のほほんとした世間知らずなのに、意外にも度胸がある』
『俺にも客にも媚びずにいつでも自然体。たまにズバッと的を射た発言をするから驚かされる』
どうやら私は知らない間に、前世の先生から、少女漫画で言うところの〝おもしれー女〟認定を受けていたらしい。
前世では意識したことがなかったが、先生はよく笑うようになった。
自惚れかもしれないが、私の前では特に。
けれども、一緒に過ごす日々は唐突に終わりを迎える。
私が先ほど傍観するしかなかった、前世の私にとって最期の瞬間がやってきたのだ。
ただし、先生の思い出の中には、この日に至るまでのプロセスが存在していた。
まずはあの男――前世で私を撃ち殺した凶悪犯で、今世では皮肉にも保護者役となっているボス――の正体について。
その風貌通り、彼はさる反社会的勢力の末端構成員、いわゆるちんぴらだった。
その上役が離婚問題で揉めた際、妻の弁護に付いた先生によってこてんぱんにされたことを逆恨みし、舎弟の彼を事務所に怒鳴り込ませたことが全ての始まり。
私が、夫婦間でも強姦罪やセクハラが成立すると知るきっかけとなった事件である。
ともあれ、ちんぴら君が殴り込んできた時、先生はちょうど留守にしていた。
代わりに応対に出た私は、ちんぴら君の剣幕にたじたじとなったものだ。
ただ、その時の彼は拳銃はもとより凶器らしいものは何も持っていなかったため、ひとまずパーテーションで囲まれた会議室に通した。
それまでも気が立った客の相手をしたことはあったが、さすがにその筋の方と一対一で話すのは初めてのこと。
さしもの私も緊張し、とにかく丁重にもてなさねばとお盆の上に並べたのは、勢いのままぶっかけられる心配のない紙パックのジュース、全四種類だった。
『完熟リンゴ味ミカンミックス味リンゴとブドウ味がありますけどどれにしますか!? 今なら期間限定さっぱりヨーグルト味もありますので、是非ともこの機会にいかがでしょうか!?』
会議室に飛び込んでくるなりそう捲し立てた私に、ちんぴら君は一瞬面食らった顔をする。
けれども、そんな突拍子もない行動が功を奏したようで、彼はそれまで吊り上げていた眉を八の字にして、なんだそりゃ、と笑った。
恐ろしいことに、私はこの時、ちんぴら君からも〝おもしれー女〟認定を受けてしまっていたのである。
ちんぴら君は期間限定さっぱりヨーグルト味、私はミカンミックス味をちゅーちゅーしつつ、他愛のない話をしながら先生の帰りを待つことになった。
意外にも会話は弾んだように覚えている。
その日は結局、ちんぴら君は帰ってきた先生にこてんぱんに論破されてすごすごと退散したが、私はそれからいろんな場所でバッタリ彼と出会うようになる。
例えば、大学の校門の前や友達とよく行くカフェ、お気に入りの定食屋、近所のコンビニ――そして、自宅の前。
今思い返してみれば、私はちんぴら君に思いっきりストーカーされていたようだ。
けれども、のほほんとしていた当時の私はまったく気付いておらず、逆に危機感を募らせていたのは先生だった。
先生はちんぴら君のストーカー行為をやめさせようと、私の知らないうちにいろいろ手を回してくれていたらしい。
奇しくも、かつて裁判でやり合ってこてんぱんにした彼の上役の、さらに上役と縁があったのを利用して、私への接触を禁止してくれるよう頼んだのだ。
それから、ちんぴら君はパッタリと私の前に姿を現さなくなった。
けれども、すっかりその存在を忘れた頃、彼は再び先生の事務所の扉を叩いたのである――右手に、拳銃を握って。
事務所に来る前にその拳銃で、私への接触を禁じた上役の上役を撃ち殺していたということは、後から判明した。
『お前が邪魔するから』
『一緒に連れていく』
『これで永遠に俺のものだ』
いったい、私の何がそんなにちんぴら君の心に刺さったのかは今でも分からない。
上役の上役から目を付けられて、組織の中でも居場所がなくなってしまったのだろうか。
とにかく思い詰めた彼は、私を殺して自分も死ぬつもりで、あの日先生の事務所にやってきたのだ。
つまりあれは、ちんぴら君による無理心中。
私は先生への逆恨みに巻き込まれたのではなく、不本意とはいえ自分の色恋沙汰が原因で殺されたのだった。
「何が、〝俺を恨んでいるか?〟なの……巻き込まれたのは、先生の方じゃないですか……」
とたんに、私の頭の中は先生に対する申し訳なさでいっぱいになった。
けれども、先生のドキュメンタリー映画は無情にも続いていく。
白昼の惨劇の第一発見者は、ビルの清掃のおばちゃんだった。
顔見知りだった私の変わり果てた姿を見て、おばちゃんは泣きじゃくりながら救急車を呼んでくれたのだ。
意識が朦朧としていた先生は救急搬送され、事務所では現場検証が始まる。
以降は、まともに見ていられなかった。
一番辛かったのは、私のお葬式の時――今にも倒れそうな顔色をして参列した先生を、父が殴りつけた光景だ。
あの温厚な父が。
穏やかで子煩悩で、ひとり娘の私を目一杯可愛がってくれた父が。
鬼のような形相で先生を殴りつけ、娘を返せ! と叫んだのだ。
「お父さん……お父さんっ……!!」
私はその場にしゃがみ込んで、初めて、前世を思って泣いた。




