37 知りたくないこと
先生の夢への入り口は、随分と飾り気のない扉だった。
真ん中に細長い長方形の磨りガラスが差し込まれたスリットドアだ。
見間違えるはずもない。それは、先生が前世で開いていた弁護士事務所の扉だった。
広さは十二坪。扉を開けば受付用のローカウンターとパーテーションで区切られた会議室があり、事務所の中が丸見えにならないよう観葉植物を置いている。
奥まった場所にコンロが二口付いたキッチンが備え付けられていて、私は情報収集やデータ入力をしながら、自分のために料理を作ってくれる先生の背中をパソコン越しによく眺めたものだ。
ひどく懐かしい気分になった私は、ドアノブを握って意気揚々と扉を開き――
「……っ!!」
とたんに、後悔することになる。
入ってすぐの床に女が倒れているのを見つけてしまったからだ。
しかも、その女の顔には見覚えがあった。
それもそのはず。
「……私じゃん」
無様に床に転がっていたのは前世の私で、その胸からは真っ赤な血が溢れ出していた。
魔女の花の根っ子が衝撃的なまずさだったことを、まずは記しておこうと思う。
正しくは〝根を煎じたもの〟だが、とにかく苦くて渋くてすっぱくて、一体何の罰ゲームだと思うような代物だった。
カメムシ味のパクチーなんて可愛いものだ。
ここのところ先生に美味しいものばかり食べさせてもらって、すっかり舌が肥えていたものだから余計に辛い。
口に含んだはいいものの、あまりの不味さに喉が飲み込むのを拒否していた。
「うー! ううー!!」
「だから、やめておけと言っただろう」
顔を皺くちゃにして悶える私に、唯一味を知っているボスが呆れた顔をする。
そもそもこんなにひどい味だと、ボスはどうして教えてくれなかったのだろうか。
とはいえ、不味かろうが何だろうが、先生を助けに行くためには飲まねばならなかった。
(早く先生を起こして、美味しいものをたっぷりご馳走してもらわないと割に合わないっ!!)
度胸はある方だと思っている。でないと、ボスとハトさんの慈悲があろうともマーロウ一家で生き残ったりできなかった。
飲み込め! とにかく飲み込め! いいから飲み込め!! と、私は自分の喉を叱咤する。
「んー! んー、んんーっ!!」
「が、頑張れ! 頑張れ……っ!!」
そんな私の手を握り締め、一生懸命応援してくれたアルフ殿下には、後でアメちゃんでもあげようと思った。
ゴクリ、と自分の嚥下する音がいやに大きく聞こえ、最悪の味のものを胃に迎え入れる嫌悪感に生理的な涙が溢れる。
「まっず……」
飲み込むと同時に、私は昏々と眠り続ける先生の傍らに突っ伏した。
まるであまりの不味さに気絶するみたいに、そのまま意識を失う。
そして、気が付けば冒頭の通り。
前世で先生が開いていた弁護士事務所の扉の前に立っていたのである。
「……私じゃん」
扉を開いてすぐに遭遇した、前世の自分の悲惨な姿に、私は思わず後退った。
前世の私は、事務所に押しかけてきた男にいきなり拳銃で胸を撃たれたのだ。
冷たい床に倒れ伏した私の側には、片手に拳銃を握り締めた男が背中を向けて立っていた。
すると、銃声を聞きつけたのか、事務所の奥から真っ青な顔をした先生――前世の先生が飛び出してくる。
とたんに、先生の方に歩き出そうとした男の足に、前世の私が最後の力を振り絞ってしがみついた。
バイトちゃん! と先生の悲痛な声が上がると同時に、男は私の手を振り解いて彼の方へと歩き出す。
敢え無く床に転がった前世の自分の代わりに、とっさに私は男を止めようと手を伸ばしたのだが――
「えっ? は、入れない? 入れないの!?」
確かに扉は開いているというのに、廊下と事務所の間には透明な壁があって、中に入ることができなかった。
どうやら、今の私はただの傍観者でしかないようだ。
そうこうしている内に、先生と男が揉み合いになった。私に駆け寄ろうとする先生を、男が阻んでいるように見える。
声も、途切れ途切れに聞こえてきた。
『お前が邪魔するから』
『一緒に連れていく』
『これで永遠に俺のものだ』
興奮気味にそう告げる男に対し、先生はらしくなく錯乱した様子で、バイトちゃんバイトちゃんと私を呼び続けている。
やがて、拳銃のグリップで頭を殴りつけられた先生は、観葉植物の鉢を薙ぎ倒しながら床に転がり、そのまま動かなくなってしまった。
意外だったのは、男が終ぞ先生を拳銃で撃たなかったことだ。
彼は先生にとどめを差すことも、事務所の中を物色することもなく、くるりとこちらを――正確には、事務所の扉付近に倒れ伏した前世の私を振り返った。
若い男だ。
前世の私よりは年上だろうが、先生よりはいくらか年下かもしれない。
割合整った顔立ちながら、一目で堅気の人間ではないと分かる鋭い目つきをしていた。
言ってみれば、警察や自衛隊以外で拳銃の入手ルートを持っていそうな団体――それに所属していそうな人相だったのである。
この時、初めて目にした男の顔に、私は強い既視感を覚える。
自分は、先生への逆恨みに巻き込まれて見知らぬ相手に殺されたのだと思っていたのだが、もしかしたらその認識は間違いだったかもしれないという思いが、ふいに頭をもたげ始めた。
男はやがて、私の目の前まで戻ってきた。
右手には、拳銃を握り締めたままである。
床に倒れ伏した私の顔色は、紙のように真っ白になっていた。
逆に、床は赤く赤く染まっていく。
私の記憶が確かならば、この時はもう痛みも分からなくなっていたはずだ。
ただ、寒くて寒くて、そしてひどく心細かったのを覚えている。
ここでふと、私はとんでもないことに気付いた――気付いてしまった。
「――え?」
前世での最期の瞬間、ふと温かくて大きな掌が、私の頭を労るように撫でてくれた気がしたのだ。
私はそれが先生の手だと思い込んでいたが、肝心の彼は今、少し離れた床の上に倒れてぴくりともしない。
代わって、血塗れの私の傍らに膝を付き、
「えっ? えええええっ!?」
憂いを帯びた顔で私を見下ろしていたのは、
「う、うそー!? うそおぉ!!」
私を拳銃で撃った男だった。
「やだやだやだ! 私ったら、自分を殺した人の体温にほっとしながら死んだのぉお!?」
罪もない女子大生を問答無用で銃殺するなんてとんでもない暴挙に及んでおきながら、男は死に行くその頭をそれはそれは愛おしげに撫でている。
とんだサイコパスだとドン引きしつつ、知りたくないことまで知ってしまうだろうというボスの言葉が正しかったことを思い知らされた気分だった。
今回先生が冒された毒は、人生で一番辛い思い出を何度も何度も追体験させたりして神経を消耗させて殺すのだとアンは言っていた。
つまり、先生にとって人生で一番辛い思い出は、前世の私が死んだこの出来事だということなのか。
事務所の中で繰り広げられている光景が、先生が前世で実際に目にしたものだとすれば、少し離れた場所でぴくりとも動かない彼にはかすかにでも意識があるのだろう。
私がバイトとして優秀だったかどうかはともかくとして、先生には目をかけてもらっていた自覚がある。
捻くれていて皮肉屋で敵を作るのが上手な先生だったが、私にはいつだって優しかったのだ。
そんな彼が、成す術もなく死に行く私を――しかも、殺した張本人に看取られようとしている光景をどんな気持ちで見ていたのか。
想像するだけでも胸が苦しくなった。
と同時に、結局私はどうして殺されねばならなかったのだろうかと不思議になった。
男が先生への逆恨みを募らせて、本人ではなく身内に危害を加えることで精神的苦痛を与えるためかとも思ったが、どうにもしっくりこない。
「もしかして、私が知らない間に何かしちゃったのかなぁ……?」
私は、男に感じた既視感を突き止めることにした。
反社会的勢力に属していそうな雰囲気であることはすでに述べたが、とはいえその風貌はどう見ても末端構成員、つまりはちんぴらである。
どんな事情で先生と関わったのかは分からないが、もしかしたら彼自身ではなく、上役が関係する案件で一悶着あったのかもしれない。
私は、前世の自分の頭を撫で続ける男の顔をじっくりと眺めていた。
すると、ふいに彼が顔を上げる。
そうして、目と目が合ったような気がした、その瞬間。
「――あっ!?」
今世で先生と再会した時と、まったく同じことが起きた。
頭の中が彼に関する情報で溢れ返り、パズルのピースが一つ一つ嵌まるようにして前世の記憶が完成していく。
まず、男の名前を思い出した。
その素性を思い出した。
彼と初めて会った日のことを思い出した。
その時、どんなやりとりがあったのかも思い出した。
そして――
「うそ……うそだ……」
私が今世でロッタとなり、先生がクロード・ヴェーデンとなったように――
「まさか、そんな……」
私を殺した男も今世に生まれ変わって存在している。
その事実に気付いてしまったのだ。
先生の夢の中であるというのに、私は一瞬目の前が真っ白になった。
だって――
「この人の生まれ変わりが――ボスだなんて」
目の前の男の容貌は、前世の私や先生と同様に日本人的なもので、今世で馴染んだボスのそれとは到底似付かない。
けれども、彼がレクター・マーロウと同じ魂であるという確信が、私の中で揺らぐことは少しもなかった。
「そんな、そんなことって……ボスが……」
――知りたくないことまで知ってしまうだろう
そう忠告したボスの声が、耳の奥でリフレインする。
気が付けば、私はその場から逃げ出していた。
その時、背後でパンッと乾いた音が響く。
振り返った視線の先で、頭から血を流した男が、すでに事切れた私の上に倒れ込んでいるのが見えた。




