34 刑法第二百八条
大広間は、いつの間にかしんと静まり返っていた。
今宵の仮装舞踏会で一番視線を集めていたのは、先生ことクロード殿下だ。誰しもが、視線の端でその動向を観察していた。
次期国王であり、五年振りの参加となれば当然だろう。
そんな注目の的が、妙齢の女性にワインをぶっかけられた。
しかも、私という別の女を背中に庇って、である。
私に絡んでいた女子三人組――特に、ワインをぶっかけた子なんて、今にも倒れそうなほど真っ青になっていた。
王族、しかも次期国王に、とんでもない無礼を働いてしまったのだ。
いくら仮装舞踏会が無礼講だといっても限度というものがある。
あまりにもスキャンダラスな状況に、好奇の目があちこちから突き刺さった。
居心地の悪さに辟易しながら、私は先生の背中に隠されたことをいいことに、そっと後ろを振り返る。
白樫の木の下には、もう王配殿下の姿もザラの姿も見当たらなかった。
「〝人の身体に対して不法な攻撃を与えることは、相手が怪我を負おうが負うまいが暴行にあたる〟」
先生が静かな声でそう告げる。
前世における刑法では、暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかった場合を暴行罪と定義していた。人に水をかける行為もこれに相当する。
ちなみに、暴行を加えた者が人を傷害するに至った場合は傷害罪となる。
前世の法律がそっくりそのまま今世に適用されるわけではないだろうが、少なくとも先生はたいそうご立腹の様子だった。
「ワインをかけたくらいで罪に問われることはないと高を括っているのだろうが、しかしこれは立派な暴行罪だ。何か、申し開きでもあるのなら言ってごらんよ」
「そ、そんな……私は、殿下にかけるつもりなんて……」
「へえ? 私じゃなくてこの子だったら、暴行しても許されるとでも? 生憎私は、自分よりも彼女が害される方が許し難いんだけどね?」
「ひっ……も、もうしわけ、申し訳ありませんっ!!」
相手が女性だろうと年下だろうと、先生は相変わらず容赦がなかった。
女子三人組は生まれたての子犬みたいに身を寄せ合ってプルプルと震えている。さっき私の前でとった高圧的な態度が嘘のようだ。
兄上っ! と叫んだアルフ殿下が、人混みを掻き分けて走ってくるのが見えた。
別の方角から真っ青な顔をしてバタバタと駆けてくる壮年の男性は、女子三人組の誰かの保護者だろうか。
しかし、先生は後者に一瞥をくれてやることもなく、ワインで濡れたジャケットを脱いで前者――柴ワンコな弟に預けると、私の肩を抱いて言った。
「ああ、こんなに怯えて可哀想に……。怖い目に遭ったね。私が側を離れてしまったばかりに、すまない」
「……」
全然怯えてもないし怖くもなかったけれど、話を合わせるしかない私は先生の肩口に顔を埋め、縋るみたいにベストの胸元に手を添える。
そんな私のこめかみに、先生はこれみよがしにちゅっと音を立てて口付けると、白々しく続けた。
「しかし、駆け付けるのが間に合って本当によかった。なんと言っても君は、未来のヴェーデン国王を生む唯一無二のひとだからね」
ひゅっ、と大広間全体が息を呑む。
先生は構わず続けた。
「心労が祟って身体を壊してはいけない。今宵はもう、このままお暇願おう――お許しいただけますよね、陛下?」
「え? ええ……」
いきなり話を振られた女王陛下が、戸惑いつつも頷く。
再び、大広間中が呼吸を忘れた。
女王陛下自身は、私と先生が退室することに頷いただけのつもりかもしれない。
だが、人々はその前の先生の言葉――私が未来のヴェーデン国王を生む唯一無二であることを含めて肯定したように捉えたようだ。
水を打ったように静まり返った大広間を、先生にエスコートされて突っ切る。
まるでモーセの奇跡みたいに人の海が割れ、扉まで真っ直ぐに道ができた。
そうして、おびただしい数の視線に見送られて廊下に出た直後――わっ、と扉の向こうがにわかに騒然となった。
「あーもー、バイトちゃん――最高」
大広間を離れて人の目がなくなったとたん、先生は上機嫌に私の耳元に囁いた。
「ナイスタイミングで絡まれてくれたよね。おかげで助かった」
何ということはない。
女子三人組に囲まれた私のもとに駆け付けることを、先生はボスウェル公爵夫人の相手から逃れる口実にしたのだ。
上手い具合にワインをぶっかけられたおかげで、そもそもあまり乗り気じゃなかった仮装舞踏会から抜け出すこともできた。ついでに私を「未来のヴェーデン国王を生む唯一無二のひと」と知らしめ、それを女王陛下が肯定したように錯覚させることで、私を王太子妃として周囲に認めさせるというボスとの約束もある程度は果たされたはず。
仮装舞踏会が開かれている大広間と王族の私室が集まる棟は、少しばかり距離があった。
二つの棟を繋ぐ一階の渡り廊下を、近衛師団長のモアイさんことモア・イーサンが先導する。
私と先生がザラ・マーロウに狙われていると判明し、誰と繋がっているのか探るために彼女を泳がせている状況のため、モアイさんか副団長のダン・グレゴリーが常時警護に就いていた。
先生はそんなモアイさんに聞こえないように、それにしても、と小声で続ける。
「ああやってぶっかけられたこと、俺は前世でもあったよね。ワインじゃなくてお茶だったけど」
「ありましたよねー。しかも、私が淹れた熱々のやつ……あれ、結構トラウマですよ」
遣り手の弁護士だった前世の先生は、依頼主に感謝されるのと同じくらい――あるいはそれ以上に、裁判相手の恨みを買っていた。そのほとんどが逆恨みだったとはいえ、頭に血が上った状態で事務所に押しかけてきた連中は話が通じない。
ついでに、先生に口で敵うわけがないため、最終的にはカッとなって椅子を蹴り倒したり机を殴りつけたり、たまには包丁を持ち出したりということがあったのだ。
そんな中、アルバイトの私が出したお茶をいきなり先生に浴びせかけたのは、確か離婚裁判の末に子供の親権を奪われた女性だったはず。ちなみに、彼女の不倫が離婚の原因だった。
当時のことを思い出したらしい先生が、肩を竦めながら続ける。
「俺が火傷でもしてはいけないと言って、バイトちゃんはあれから一貫して客にジュースを出すようになったんだよね」
「ぬるいお茶はどうにも失礼ですし、年中冷茶を出すのもどうかと思ったので。だったら、冷たくして飲むのが基本のジュースが無難でしょう?」
「肩を怒らせて乗り込んできたのに、可愛い女子大生に紙パックのジュースをはいどうぞって渡された連中の、あの何とも言えない顔……まあ、見物だったな」
「最終的には、割と喜んでくださいましたよね。小さい時はよく飲んだなーとか、懐かしい顔をして」
私が出していたのは、スーパーで三パックセットとかで売っている、果汁百パーセントのフルーツジュースだった。完熟リンゴとかミカンミックスとかリンゴとブドウとか何種類かあって、百二十五ミリリットルと少なめの飲み切りサイズ。パッケージには、おそらく日本国民全員馴染みがある、強くて優しい皆のヒーローが描かれていた。
ようは幼児用の紙パックジュースなのだが、怒った客の毒気を抜くにはなかなか役に立ったのである。
先生は弁護士として、依頼者のためにいつでも全力を尽くしていた。
法に抵触するような手を使ったことは一度もないが、勝つためには相手を完膚なきまで叩き潰すのも厭わない。
たとえば、離婚裁判においては結婚生活を破綻させた責任がどちらにあるのか、また親権に関しては子供の将来のことや財産など、依頼者に有利になるよう裁判員に強く確実に訴えかける必要があった。そのためには、相手がいかに不誠実な行為を繰り返していたのか、その間幼い子供が蔑ろにされていたこと、はたまた見栄っ張りで浪費癖がひどいなど、容赦のない弾劾と暴露が行われる。
かつて先生に熱々のお茶を浴びせかけた女も、そうして晒され追い詰められたことを恨んでのことだった。
「まったくもって、うちの事務所にはいろんなヤツが来たけれど……バイトちゃんはなんだかんだ言いながら、どんな客でも態度を変えなかったよね?」
「だって私は裁判に関わってないですから、誰にどんな事情があるのかも分からないですもん。無難にお茶出しマシーンに徹していただけですよ」
「バイトちゃんにそのつもりがなかったとしても、君の丁寧な応対で自尊心が満たされたことで冷静さを取り戻した人も少なくはなかった。……まあ、それがきっかけであんなことになるなんて、思ってもみなかったけど……」
「え?」
ふいに、先生の顔に暗い影が射す。
私は尻窄まりになった言葉を聞き返そうと口を開きかけたものの、それは叶わなかった。
ヒュッと空気を裂くような音とともに、いきなりナイフが飛んできたからである。
「クロード様! ロッタ様! 後ろへっ!!」
すかさず剣を抜いたモアイさんが、ナイフを打ち落としつつ叫ぶ。
投げナイフ自体の殺傷能力は低いが、暗殺者が使うそれには十中八九毒が塗られているため掠っただけでもアウトだ。
ナイフは、二投三投と続いた。
私もスカートの下に隠し持っていたナイフを抜いて、とっさに先生の前に飛び出そうとする。
前世ならいざ知らず、今世では私の方が明らかに場数を踏んでいるため、当然のように身体が動いたのだ。
ところがである。
「やめろ……やめてくれ!」
そんな悲痛な声とともに、強い力で二の腕を掴まれる。
そのまま後ろに引っ張られた私は、目の前に立ち塞がった背中を見上げて両目を瞬かせた。
「せ、先生……?」
「俺を、庇ったりしないで! もう二度と――俺の目の前で死なないでくれっ!!」
前世でも聞いたことのないほど切羽詰まった先生の声に、私はナイフを握り締めたままポカンとする。
そうこうしているうちに、暗闇の中でバサバサッという羽音に響いた。
ぎゃっ、と悲鳴が上がり、少し離れた茂みから人影がまろび出てくる。
羽音の主は、さっき大広間のバルコニーで別れたカラスのハトさん。
そして、悲鳴を上げたのは……
「――ザラ」
思わず零れた私の声が耳に届いたのだろう。
乱れた長い黒髪の隙間から、血走った両目がギョロリとこちらを向く。
腹違いの兄であるボスと同じ色なのに、私を映す温度はあまりにもかけ離れて見えた。




