32 仮装舞踏会(前)
床一面、赤いベルベッドの絨毯が敷き詰められていた。
シャンパンゴールドの壁にはオリエンタルな雰囲気の草花や鳥達が細やかに描かれ、高い天井からぶら下がるシャンデリアの光を反射して様々に変化する表情が美しい。
壁いっぱいの格子窓の向こうには、赤銅色の月がいやに大きく見えていた。
それをバックに、思い思いの恰好をした人々がくるくると踊る。
仮装舞踏会では毎回ほとんどの者が仮面で素顔を隠しているために、お互いの素姓も分からぬまま、まるで一夜の恋を楽しむように男女が手を取り合うのが通例だった。
ところが今宵は、誰も彼もいまいち自分達だけの世界に浸れないらしく、時折パートナー以外にちらちらと視線を奪われている。
その焦点にいる私は、ため息を吐きつつ口を開いた。
「先生は踊りに行かなくていいんですか?」
「むしろ、どうして行かなくちゃいけないのかな?」
仮面を着けていても正体がバレバレな先生ことクロード殿下は、大広間の上座に置かれた豪奢なソファで寛ぎながら、目下膝に抱いた黒猫コスプレ女――つまり、私の餌付けに忙しい。
立食スタイルの今宵は、手の込んだ料理こそ少ない代わりに種類が豊富で目移りしそうだ。
先生は私の口にクリームチーズとサーモンのテリーヌが載ったカナッペを突っ込んでは、黒い猫耳が立った頭に頬を寄せつつご満悦でワイングラスを傾けている。
一月ほど前に行われた御前試合の際も、特等席に座った先生は私を膝に載せてせっせと餌を運び、それはもう周囲をざわつかせたものだ。
それにも増して、今夜の人々の視線には困惑が色濃く混じっている。
原因は、私と先生のやりとりだけではなく、その足下にもあった。
「アルフ様も行かなくていいんですか? 絶世の美女と運命の出会いがあるかもしれませんよ?」
「せっかく兄上がお側に侍るのを許してくださっているのに、どうしてわざわざ離れる必要がある?」
「――ああ、アルフ。そこの鴨肉のピンチョスを取ってくれないか。この子の好物でね」
「はい、兄上! 喜んでっ!!」
御前試合の際には私と先生のやりとりに両目を零れんばかりに見開いていたアルフ殿下も、今宵は注目を浴びる側となっていた。
ソファの足下――そこに敷いたふかふかのクッションの上にちんまりと座っては、時々気まぐれに頭を撫でてくる兄の手に破顔する。
顎で使われようともどこ吹く風。むしろ、先生に用事を言いつけられるのさえ嬉しくて仕方がないといった見事な忠犬っぷりに、周囲の人々は困惑を隠せない様子だった。
離れた場所で踊っていた女王陛下が、片手で額を押さえているのが見える。
ちなみに今宵の彼女は男装の麗人。ダンスのお相手は煌びやかに着飾った同年代の貴婦人だった。
第一王子でありながら庶子として生まれたクロード殿下と、嫡出子にもかかわらず玉座に就けないアルフ殿下。
無責任な世間は往々にして、兄弟が対立関係にあると決めつけたがった。
けれども実際は、アルフ殿下はどれだけ邪険にされようとも一途に兄のことを慕っており、前世を思い出したことで思考が大人びた先生も弟に対する態度を軟化させ始めている。
さらには、女王陛下と王配殿下の子であるアルフ殿下が、私という存在が兄の側にあることを当たり前のように認めてしまっているこの状況。
社交界にとって、大きな認識の転換を迫られる事態にあった。
「――おや、随分毛並みがよさそうな猫がいるな」
そんな中、ふいに声が降ってきた。
それに聞き覚えがあった私は、ちょうど鴨肉を飲み込んだタイミングで顔を上げる。
とたん、あっと声を上げそうになった。
「えっ? ボ……」
「――レクター・グレコと申します。はじめまして、黒猫のお嬢さん。クロード殿下、この度はお招きに与り光栄に存じます」
「こちらこそ、お応えいただきありがとうございます。今宵は存分に楽しんでいってください」
「は、はじ……はじめまして……グレコ卿」
にこやかに先生と挨拶を交わすのは、亜麻色の髪を後ろに撫で付けた紳士だった。
黒い燕尾服に白い蝶ネクタイという夜用の正式礼装を纏い、黒いヴェネチアンマスクで顔の上半分を覆っている。マスクから見える瞳は、サファイアみたいな青だった。
私は声に出さずに、ボス……と呟く。
目の前に現れたのは、大陸中にその名を轟かす反社会的勢力マーロウ一家のボス、レクター・マーロウだったのだ。
ちなみに、グレコというのはボスの母親の姓で、すでに没落して忘れ去られた貴族の名前である。
ボスは先生との挨拶もそこそこに、私をまじまじと眺めて口の端を持ち上げた。
「私が飼っている子にそっくりだ。大食らいのお転婆で、小さい頃から手が掛かりましてね」
「まあ、手が掛かる子ほど可愛いと申しますから?」
「どうしてもと請われて、現在はとあるお方に貸し出し中なのですが、どうにも心配で……。早く私の手元に戻ってきてもらいたいものです」
「あはは、卿にはお気の毒ですが、もうその子は戻ってこないと思いますよ。きっと、今の飼い主の元が居心地いいのでしょう」
にこやかに会話をする先生とボスの間で、バチバチと火花が散ったように見えたのは気のせいだと思いたい。
何も知らないはずのアルフ殿下だって、二人の顔を見比べて目を白黒させていた。
ボスを今宵の仮装舞踏会に招待したのは先生だった。
この場を借りて社交界に広く私という存在を知らしめた上、宴もたけなわとなったところで婚約を発表する算段らしい。以前交わした、私を王太子妃として周囲に認めさせるという約束を果たし、それをボスに証明するためだ。
と、そこにもう一人。思いがけない人物が登場する。
「まあまあ、レクターさん。踊ってくださるかしら?」
「……喜んで」
静かに火花を散らす先生とボスの間に平気な顔をして割り込んできたのは、白髪を綺麗に結い上げた老婦人――森の魔女ことアンだった。
黒いフォーマルドレスに身を包み、黒いヴェネチアマスクを着けたその恰好は、まるでボスと対のよう。
ボスは小さく一つため息を吐いてから、アンの手を取って上座を離れた。
その背中を見送りながら、私は小声で先生に問う。
「先生、アンも招待していたんですか?」
「彼女の雇い主としては、福利厚生の一貫でね。堂々と素姓を隠せるこういうパーティでないと、なかなか呼べない相手だから」
ボスともアンとも面識がなく、彼らを巡る私達の会話も理解できないアルフ殿下は、訝しい顔をして首を傾げる。
とはいえ、先生が宥めるみたいに頭をポンポンと撫でると、いとも簡単に誤魔化されてくれた。
そうこうしているうちに、私達の前にまた新たな人物が現れる。
「おやまあ、クロード様。今宵は、随分と可愛い子達をお連れではありませんか」
そう、にこやかに声をかけてきたのは狸……ではなく、恰幅のいい紳士だった。
とたんに、先生は仮面の下ですっと目を細め――
「伯父上……」
アルフ殿下がそう呼ぶ。
現ボスウェル公爵――王配殿下の兄だった。
その恰好、絶対信楽狸のコスプレだと思ったのに、ずんぐりむっくりの身体はただの自前で仮装は色鮮やかな鳥の羽根で飾った仮面だけだったようだ。
ボスウェル公爵は、足下に座っていたアルフ殿下の頭を慣れた手付きでわしゃわしゃと撫でた。
成人間近の男、しかも曲がり形にも王子相手にその扱いは如何なものか。
アルフ殿下も、先生に撫でられて嬉しそうにしていたのが嘘みたいにスン……となったが、さりとて伯父の手を振り払うのは気が引けるらしい。
などと、すっかり他人事のように傍観していた私だが、ふとボスウェル公爵と目が合った。
アルフ殿下とも王配殿下とも同じ緑色の瞳が、私を映して柔らかく弧を描く。
かと思ったら、アルフ殿下の銀髪を散々ぐしゃぐしゃにした彼の手がこちらに伸びてくるではないか。
私がぎょっとして後ろに身を引くのと、先生の手がボスウェル公爵のそれを掴んで止めるのは同時だった。
「ご遠慮ください、卿。この子を、ご自分の甥御と同じように扱われては困ります」
「おお、これは失敬! あんまり愛らしい猫さんだったものですから、つい」
口調こそ丁寧ながらも剣呑な目付きの先生に、ボスウェル公爵が怯む様子はない。
しかも、さすがは年の功。一枚も二枚も上手である。
ボスウェル公爵はすかさず先生の手を握り返し、満面の笑みを浮かべて言った。
「ところで、クロード様。せっかくですから、家内に一曲付き合ってやってくださいませんか?」
仮装舞踏会は基本無礼講。仮装をして素姓を隠す手前、相手との身分差を気にせずダンスを申し込めるのが魅力の一つである。
差し出された手を取ればパートナー成立。逆に、一度手を取っておきながら断るのは最大のタブー、無作法者のすることだった。
そもそも、ダンスの誘いを受けてボスウェル公爵の手を掴んだわけではないので、ここで断ったとしても先生に非はない。
しかし、ボスウェル公爵との会話の内容まで聞こえていない連中の目に、彼の手を振り払う先生の姿はどう映るだろうか。想像するのは難くない。
今宵の仮装舞踏会を利用して、私を王太子妃として周知させたい先生としては、この場は穏便に済ませるのが得策だった。
「今宵は、久方ぶりにクロード様が参加なさると聞いて、家内も特別粧し込んで参りましたのでね」
「……それは、光栄ですね。喜んで」
不承不承ながらも先生が頷いたのを受けて、私はぴょんと彼の膝から飛び降りた。
そんな私の頭を真顔で撫で回した先生は、最後に一つため息を吐いてから小さな子に言い聞かせるみたいに告げる。
「料理を物色して回ってもいいけど、目の届くところにいなさいね」
「はい」
「ダンスに誘われても迂闊に手を取らないこと」
「はーい」
かくして、私は上座を降りて大広間を歩き始めた。




