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29 不良娘の帰還



 東の空がわずかに白み始めた。

 私はみるみると迫り来る朝に追い立てられるように、王城への道をひた走る。

 頭上には、往路と同様にカラスのハトさんの姿があった。

 人気の無い大通りを風のように駆け抜けながら、私はさっき聞いたボスの言葉を思い出す。


『アルフ殿下を唆したという長い黒髪の女――おそらくそれは、ザラのことだろう』


 ザラ・マーロウ。ボスの腹違いの妹である。

 確か私より三つ四つ年上だったはずで、先代のボスに溺愛されているのをいいことに、それこそ女王のように振る舞っていた人物である。

 しかしながら、ボスが先代を殺して成り上がって以降、彼女の生活は一変する。

 それまで散々虐げられてきた者達からの仕返しに合い、身包み剥がれて娼館に放り込まれたという話だ。

 ボスの目を盗んで度々彼女に意地悪をされていたものだから、私もそれを聞いた時にはちっとも気の毒に思わなかった。ハトさんなんて、危うく風切羽を毟られそうになったことまであったのだから。

 ボスもザラの振る舞いを腹に据えかねていたのだろう。身内には甘いことに定説がある彼も、その時ばかりは一切救いの手を差し伸べなかった。


『娼館で伸し上がり、さる金持ちの愛人の座に収まったと風の噂で聞いてはいたが……まさか、ヴェーデン王国にいたとはな』


 先日の茶会において、アルフ殿下が長い黒髪の女に唆されて私を人気のない場所に連れ出し、そこをナイフで狙われたという話をモアイさんから聞いたボスは、すぐにザラを思い浮かべたという。

 長い黒髪は彼女の自慢であり、先代のボスが気に入って手入れに金を掛けさせていたのはマーロウ一家では有名なことだった。

 ザラは、先代のボスを殺して自分に不自由を強いた兄レクターを恨んでいた。

 一方で、昔から兄を慕っていたもののまったく相手にされなかったため、彼に目をかけられている私やハトさんに嫉妬していた節がある。

 彼女はさらに、ボスが先代を殺そうと決意したきっかけである、ネロ・ドルトスをも激しく憎んでいた。ただし、ネロはすでにこの世を去ってしまっているため、その憎悪が唯一彼の血を引いた息子――先生ことクロード殿下に向かったとしても不思議ではない。

 そんなザラが今、ヴェーデン王国にいる。


「私も先生も、どちらも狙われてるんだ」


 えも言われぬ不安を抱えたまま、私は夜明けの城下町を疾走するのだった。




 朝日が王宮の外壁を照らす前に、何とか先生ことクロード殿下の私室のバルコニーに戻ってこられた私は、ほっと安堵のため息を吐いた。

 音を立てないようにそっと掃き出し窓を開けて、室内に身体を滑り込ませる。

 ハトさんも羽音を立てずに飛び込んできて、壁に作り付けられた本棚の上に止まった。

 素早く寝衣に着替えた私は、あとは自分のベッドに潜り込み、先生の目覚めを待つだけ――のはずだった。

 ところが、ふいに伸びてきた手に捕まって、隣のベッドに引っ張り込まれる。


「――おかえり、夜遊びは楽しかったかい? この不良娘」

「ひえっ……せ、先生!? お、起きて……?」


 仰向けに転がされた私の身体を、ベッドに磔にするみたいに覆い被さったのは先生だった。

 両手首を掴まれて、強制的に降参のポーズをとらされる。

 カーテンのわずかな隙間からじわりと差し込んできた朝日が、彼の右の頬を白く照らした。

 対照的に影になった青の瞳は、まるで海の底みたいに暗くて、私は思わずゴクリと喉を鳴らす。

 完全にマウントをとった先生は唇の端を吊り上げて言った。


「俺に黙って、真夜中に、こっそり――いったいどこへ行っていたのか、教えてくれるんだよね?」

「えっ? えーと、えーと、えーとぉ……話せば長くなるんですけどぉ……」

「いや、待って。状況証拠から推理して当ててみせよう。昔取った――いや、前世取った杵柄でね」

「じょ、状況証拠って、犯罪者扱いですか!?」


 猛然と異議を唱える私の額に、いきなり先生のそれが降ってくる。

 ゴチンと頭蓋骨同士がぶつかる衝撃に、私は哀れな子犬みたいにキャンと鳴いた。

 にもかかわらず、先生はおでこをグリグリと擦り付けながら、至近距離から私の目を覗き込んで畳み掛ける。


「バイトちゃんは、自分の立場を分かっているのかな? 君は俺の、ヴェーデン王国王太子クロードの婚約者で、目下それを周囲に認めさせなければならない状況なんだよ? それなのに、真夜中に部屋を抜け出して? その様子では城の外に行ってきたんだろう? 誰かに見咎められでもしたら、どう言い訳するつもりだったのかなぁ!?」

「誰かに見咎められるような、そんなヘマはしませ……」

「ああ、そう。大した自信じゃないか。この俺にも、最後まで気付かせないまま隠し通せていたのならよかったのにね。それができなかったということは、君の自信は所詮は過信だったってことだよ。どう? ほら? 何か言い返してごらんよ」

「う、ううう……先生、おとなげねーですよぉ」


 うえーんと嘘泣きをする私を無視して、こちらの額が摩擦で赤くなるまでグリグリした先生は、今度は髪に鼻先を埋めてスンと匂いを嗅いだ。


「ひえっ、何なんですか? 急にわんちゃんみたいになって……」

「……ほんのり、パンと薬草の匂いがする。あと、わずかに燻製っぽい香りも」

「わわわわ……優秀なわんちゃんですねー」

「俺がバイトちゃんの不在に気付いたのが夜中の二時過ぎ。その時、ベッドはまだ少し温かかった。で、戻ってきたのが午前五時半。所用時間から考えて、アンの家に行っていたと考えるのが妥当かな」


 私の茶化しをガン無視して、先生は名探偵っぷりを披露する。

 私がそれに素直に感心していると、ふいに先生が体重をかけて伸し掛かってきた。


「ぐえっ、ちょっと先生。さすがに重いんですけど? せっかく食べたものが出ちゃうー」

「君って子は、どこでもかしこでも餌付けされてきて、まったくもって腹立たしいね。まさか、パンを焼いたからといってアンが呼び出したわけじゃないよね? いったい、誰に呼ばれたのかな?」

「それは、だから、話せば長く……」

「いや、聞くまでもないな。君があんな時間に呼び出されて素直に従う相手なんて、一人しかいない。レクター・マーロウ。彼に呼び出されたんだね?」


 私はもはや、ぐうの音も出ない。

 にもかかわらず、先生は態度を軟化させることなく――それどころか、今までで一番怖い顔をして続けた。

 

「前に一昼夜帰らなかった時にも忠告したはずだけど? 君、何者かに嵌められそうになったって自覚はあるのかな? 先日ナイフが飛んできたことだって、まさか忘れたわけじゃないよね? いくらなんでも、不用心が過ぎるじゃないか!」

「せ、先生……」


 初めて耳にするような先生の荒々しい声に、私はビクリと竦み上がる。

 ところが次の瞬間、彼は一転。私を圧し潰すみたいにぎゅうぎゅう抱き締めたかと思ったら、肩口に顔を埋めて消え入りそうな声で言った。


「俺の側にいるって……そう決めたって、言ったじゃないか。黙って、いなくならないでよ……」


 私はとっさに、先生の背中に両腕を回す。

 彼の声が、泣いているみたいに聞こえたからだ。

 思えば今世で再会してからというもの、先生からはやたらとぎゅうぎゅうされていたが、私がこうして抱き締め返すのは初めてかもしれない。

 だって、前世の記憶を共有しているとはいえ、そもそも私達は雇い主とバイトという関係でしかなかったのだ。

 それでも、私が前世の最期に一緒にいたのは彼で、私の死に様を見たのもきっと……


「先生、黙って出掛けてごめんなさい。心配かけて、ごめんなさい。次からは、絶対に先生に断ってからにしますから……」

  

 私は先生の広い背中をしきりに撫でながら、贖罪の気持ちを込めてそう告げる。

 ところが先生から返ってきたのは、信じられない、という答えだった。


「二度あることは三度あるって言うだろう。俺が隣のベッドでぐうすか寝ているのをいいことに、どうせまたこっそり抜け出すに決まってるんだ」

「うぬぬ……前科があるので言い返しにくい……けど! これからは本当に黙って出掛けないって約束しますよ! どうしたら、先生を納得させられますか?」

「……これから俺の言う条件を飲んでくれるなら、信じてみてもいいけど」

「あー、はい! 飲みます飲みます、どんな条件だってごっくんしますからっ」


 だから泣かないで、と私は続けようとしたのだが……


「――よし、言質を取った。じゃあ、今からバイトちゃんは俺の抱き枕ね」

「へ?」

「さすがに腕に抱いていれば、こっそり抜け出されることもないだろう?」

「え?」


 私を抱いたままゴロンと横向きに寝転がった先生の瞼には、結局のところ濡れた形跡なんてちっともなかったのだ。

 ポカンとする私の頭に頬を擦り寄せ、先生はさっきの剣幕が嘘みたいに上機嫌に呟く。


「隣のベッドはもう要らないな。今日中に撤去して処分させるから。ふふ……俺達が同衾を始めたって、また噂になりそうだね」

「は!?」


 とはいえ、先生が心配してくれていたのは本当で、私が戻るまでまんじりともできなかったらしい。

 時刻は午前五時半。

 宣言通り私を抱き枕にした先生は、すぐさま寝息を立て始める。

 身動きの取れない私の顔を光の筋が照らすと、いつの間にか掃き出し窓の側に移動していたハトさんが、嘴でカーテンを引いて朝日を遮ってくれた。

 朝の気配が、少しだけ薄らぐ。

 女王陛下からの依頼や、ボスから聞いたザラの話。

 先生に伝えたいなくてはいけないことはたくさんあるというのに、私を抱き締めて安心したように眠る彼を起こすのは、どうしても忍びなかった。




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