27 思いもかけない相手
闇に紛れて夜の城下町をひた走る。
バサッと聞こえた羽音に頭上を仰げば、いつの間にかハトさんが飛んでいた。
前世では不吉なものの象徴として扱われることが多かったカラスも、今世の私にとっては家族も同然。
前世を思い出したところで、先生が関わらなければ私はやっぱりただのロッタ――マーロウ一家のロッタだ。
悪の権化のような男が君臨し、理不尽と暴力が支配する世界で育った。
のほほんと生きていた前世では考えられないことだが、今世は日陰の身に慣れていて、どちらかというと闇の世界の方が息がしやすかった。
人気のない大通りを突っ切って辿り着いた森の奥。
数日前にも訪れた森の魔女の家は、真夜中だというのに玄関に明かりを灯して私の到着を待っていた。
先に玄関に降り立ったハトさんが、その固いくちばしでキツツキみたいにコンコンと扉を叩く。
扉を開いてくれたのは、家主のアンではなくボスだった。
そして、きっとアンが用意したのだろう。家の中からはパンの焼ける匂いがした。
――ゴクリ。
私は思わず唾を呑み込む。同時にお腹が鳴って、空腹で目を覚ましたことを思い出した。
「――ボス、お腹空いたっ!」
「そう言うだろうと思ったさ」
幼い頃からご飯を食べさせてくれていたボスがいて、その背後から美味しそうな匂いが漂ってくるのだ。
私のお腹が条件反射で鳴いたって、いったい誰が責められようか。
私の燃費の悪さには慣れっこなボスだって、怒るどころか驚きもしない。
ただ、何故だかこの時は少しだけ、苦しさを誤魔化すような笑みを浮かべて私の頭を撫でた。
「今すぐ腹を満たしてやりたいのは山々なんだが、その前にせめて挨拶だけは済ませなさい」
「挨拶って……私に会いたいとおっしゃっているって方とですか? 結局それって、どなた――」
私が最後まで言い終わるのを待たず、ボスが扉の前から身体をずらす。
それによって見えるようになったリビングに、家主である森の魔女アン――ではなく、思いもかけない人物の姿を見つけてしまい、私はひっと悲鳴を上げそうになった。
寸でのところで、どうにかこうにかそれを飲み込んだ私に、その人は苦笑いを浮かべて口を開く。
「ごきげんよう、ロッタ。こんな時間に呼び出して申し訳ないわね」
「こ、ここ、こんばんは……女王陛下」
そこにいたのは、金色の髪と青い瞳の女性。
ヴェーデン王国の現君主であり、今世の先生を生んだ人――エレノア・ヴェーデンだった。
******
第九十九代ヴェーデン国王エレノア・ヴェーデンは、女王らしからぬ簡素な服装の上に真っ黒いローブを羽織って、質素な木の椅子に腰を下ろしていた。
彼女も闇に紛れてここまで来たのだろか。
女王陛下とその息子である先生ことクロード殿下の似ている部分といえば、青い瞳に限るだろう。
それが、扉の前で呆然と立ち尽くす私を映している。
――ゴクリ。
さっきとは違う意味で唾を呑み込む。
節操のないことに定評のある私のお腹も、この時ばかりは空気を読んだように大人しくしていた。
「ボ、ボボボ、ボス……?」
「落ち着きなさい。陛下にはお前の立場についてすでにご説明申し上げた。身分を偽っていたことで、お前やクロード殿下にお咎めが行くことはない」
「そ、そうですか……でもあの、これって結局どういう状況なんですか?」
「どうもこうも。新しい近衛師団長が大した慧眼の持ち主だったということだ。彼が抜擢されるのに、お前も一役買ったらしいではないか?」
ボスの言葉に、へ? と間抜けな返事をして顔を上げた私は、女王陛下が腰を下ろした椅子の傍らに、思いがけない人物が立っていることに気付いてぎょっとした。
「モ、モアイさんっ!?」
「モア・イーサンです。ロッタ様」
先日新しい近衛師団長に就任したばかり。モアイ像みたいな厳つい顔付きで実年齢よりも老けて見られがちなモアイさんは、指を突き付けて叫んだ私の無作法も苦笑いで許してくれた。
私がマーロウ一家と繋がっていることに気付いたのは彼らしい。
私の変装を即座に見抜いたこともあり、先生が説明した〝とある国の止ん事無き人物の隠し子〟という肩書きもそもそも信じていなかったのだろう。
それから、私の言動を注意深く観察し、それなりに訓練を受けた人間であることを確信する。
一般師団で活躍していたモアイさんは、近衛師団とは違って裏社会にも顔が利き、私が副団長ダン・グレゴリーを酔わせた飲み屋の店主兼情報屋にも伝があったらしい。
そうして、私とマーロウ一家の繋がりを決定的にしたのが、カラスのハトさんの右足に嵌められている足環だった。
その内側に小さくマーロウ一家の刻印がされているのを、先日、私とアルフ殿下が隠し通路に迷い込んだことを彼女が知らせた際に確認したのだという。
まさか素姓を探られているなんて思ってもいなかった私は真っ青になる。
すると、モアイさんは少しだけ慌てた様子で、誤解のないよう願いたいのですが、と続けた。
「私は何も、ロッタ様を排除しようと動いていたわけではありません。現在のマーロウ一家は秩序ある組織です。無闇に一国の王太子を狙うようなことはないと考え、ロッタ様がクロード様を害する心配はいたしてはおりませんでした」
先生ことクロード殿下と出会ったきっかけが、偽指令に踊らされてはりきって彼を暗殺しようとしたことだった身としては少々気まずい。
とはいえ、私が先生の脇腹を猛毒付きのナイフで刺した事実は、どうやらまだ知られていないらしい。
モアイさんは私に敵意を向けるどころか、楽しそうに言った。
「僭越ながらここ数日観察させていただき、ロッタ様がクロード様のために行動するお姿を幾度か拝見しました。なかなかどうして、クロード様を貶める者への報復には容赦がない。馬糞を踏ませたり、バナナの皮で滑らせたり――そうそう、今日のはまた一際強烈でしたね?」
とたんに、ボスが呆れ顔を私に向ける。
「お前、何をした?」
「コソコソ悪口を言うしか能のない陰険な人達の頭の上に、ちょうど誂えたみたいに蜂の巣があったんですよ。だから茂みに隠れて、こう、バン! と」
「……ロッタ」
「でもね、ボス。アシナガバチですよ? あの人達には、スズメバチじゃなかっただけありがたいと思ってもらわないと」
その時だった。
あっはっはっ、と朗らかな女性の笑い声が上がる。
現在、森の魔女の家にいる女といえば、私と、家主のアンと、それから女王陛下の三人だ。
笑ったのは私ではないし、奥の厨房から焼き立てのデッカいカンパーニュ――これが美味しそうな匂いの元だ――を抱えて出てきたアンでもない。
ということは……
「アルフが昼間、気が立ったハチが飛んでいるかもしれないから注意するよう王宮中に触れ回っていたのはそのせいか」
「わわわっ、アルフ殿下に後始末させてしまいましたか? それは申し訳ないことを……アルフ殿下には今度アメちゃんでもあげときます」
「ふふ、よいよい。幸い、頭に巣の直撃を食らった二名以外に被害は出ていないわ」
「そうでしたかー。それでは、めでたしめでたし、ですね!」
私の話に大ウケしたのは女王陛下だった。どうにもたまらないという様子でクスクス笑い続けている。
女王陛下とはまだ片手で足りるほどしか顔を合わせていないが、こんな風に笑っているのを見たのは初めてのことで、私は思わずまじまじと見入ってしまった。
初めて対面した時は、のほほんとしていた前世の私の母親とは真逆の、バリバリのキャリアウーマンっぽい印象を受けた。息子にくっ付いてきた得体の知れない私を見定めようとする目は、それはそれは鋭かったのを覚えている。
しかし、先生がノリノリで煽り始めてからは一変。
その姿は、思春期と反抗期を拗らせた息子に振り回され、途方に暮れている一人の母親だった。
難しい立場に置かれると分かっていて生んでしまったという、息子に対する引け目もあるのかもしれない。
先生に対する扱いは腫れ物を触るようで、正直女王としての威厳はない。
ただ、この人が今世の先生のお母さんかと思うと、私はそれだけで感慨深いものがあった。
とにもかくにも、いくらモアイさんに私を排除する意思がないとはいえ、マーロウ一家の人間であると判明したことについて女王陛下に報告するのは、近衛師団長の立場としては当然だろう。
それによって女王陛下が不穏分子と判断したのなら、いくらモアイさんが庇い立てようとも私は王宮から摘み出されるか、地下牢に放り込まれるか――とにかく、先生の側にはいられなくなっていたに違いない。
ところが、女王陛下は私を排除するどころか、何故だか先生抜きで会いたいなんてボスを通じて言ってきたのだ。
その意図が分からないし、落ち合う場所がアンの家である理由も分からない。
分からないことだらけで首を傾げる私に、ようやく笑いを収めた女王陛下がチョイチョイと手招きをする。
「こんな時間に呼び出した詫びに、持参した秘蔵の燻製肉とワインをご馳走するわ。アンの焼いたパンと一緒に食べながら話をするというのはどうかしら?」
異議無し!
ぐーっと鳴いて、いの一番に返事をしたのは、やっぱり私のお腹の虫だった。




