90.長蛇作戦 死地を脱せよ
二二〇三年一月一日 二〇五二 OTU下層 交通塔 階段
身動き一つせず、防人と向かい合う小和泉が、珍しく先に動いた。ご褒美に目がくらみ、早期決着を望んだのだ。
仁王立ちから重心を前に移した瞬間に喉に違和感があり、反射的にナイフで喉を防御した。
すぐにワイヤーが喉に当てられたものだと悟った。喉とワイヤーの間にナイフを鞘ごと刺し入れた状態で止まった。
ワイヤーが締まる力が強まる。ナイフを刺し込んでいなければ、今頃、小和泉の首は床に転がっていただろう。
―危ない。死にかけた。―
今頃になって、背中に冷や汗をかいた。
小和泉の背後からワイヤーで首を全力で絞めてきているのは、三人目の防人だ。
―しまった。完全に油断した。三人目に背後を取られるとは。可能性はあった。まだ、ワイヤーを一周ではなく、前からの半周だけ、少しはマシか。さて、この死地をどうする。―
三人目の防人の力が、更に強まる。小和泉の生命線であるナイフを手放すことはできない。力を緩めた瞬間に首を落とされる。ナイフを握る小和泉の両手に力が籠められる。
正面では、貫手の防人が攻撃に入った。
貫手が正確に小和泉の心臓へと真っ直ぐに迫る。だが、あまりにも素直な攻撃は、行動が不自由な小和泉でも回避できた。
ワイヤーの防人に引っ張られるまま、小和泉はワイヤーの防人に体当たりする様に下がった。小和泉が体当たりした為、防人も同じ様に下がらない訳にはいかなかった。
小和泉が下がった処で貫手は止まり、小和泉の胸を一センチ程、貫手が食い込んだ。
貫手は皮膚を貫き、筋肉を押し潰した。だが、血管や神経までは届いていない。毛細血管からじわりと傷口から血が滲みだす。
小和泉に鈍痛が走るが、この程度の痛覚ならば意識から切り離し、痛みを脳から断ち切った。
小和泉は、右膝を高く抱え込み、貫手の防人の顎へ前蹴りを飛ばす。
さすがに目の前で膝を抱えた時に攻撃を予測したのだろう。貫手の防人は、小和泉と距離を取る様に大きく後ろに下がった。傍目には、空振りに見えただろう。
だが、小和泉の狙いは、そこではなかった。
高く蹴り上げた足を一気に踏み降ろす。その先には、ワイヤーの防人の右足があった。
小和泉の踵が、素足である防人の親指と人差し指の骨の付け根を踏み潰す。
硬い戦闘靴の底で踏み潰される防人の素足。
小和泉の足裏に骨が折れ、肉が潰れる感触が伝わる。
「ヒギャッ。」
小和泉の背後で防人が一瞬叫び、力無く崩れ落ちた。ワイヤーも首から外れ、小和泉は自由を取り戻した。
足の甲にあるこの骨の関節部は、人間の急所だ。指圧で強く押されるだけでも脳に電気が走るかの様な激痛を感じる。正確に急所を貫く事と強度によって、失神するだけでなく、痛みによるストレスに起因する脳内出血により死亡する恐れがあった。
小和泉は、最初から背後の防人を狙っていたのだ。
体の自由が奪われている状態を先に解消したかった。
そして、目論見通りに背後の防人を無力化できた。
これで残ったのは、右手が折れた手負いの防人だけになった。
形勢逆転だ。さすがの小和泉も今回は死を覚悟した。
―死の瞬間に走馬灯を見るというけど、何も見なかったね。つまり、僕は、まだ、死からは遠いということかな。―
普段の小和泉に戻っていた。流石に死を感じさせられ、冷や水を浴びせられたためであろう。
今度は油断せず、周囲の気配を探る。小和泉の感覚には、他の防人や人間の気配は感じなかった。
だが、防人の気配は探知しづらい。まだ、隠れている可能性を捨てない。十分に警戒を続ける。
貫手の防人からは、驚きの気配が感じられた。
足を踏み潰しただけにしか見えなかった。それなのに、ワイヤーの防人は地面に倒れ伏し、ピクリとも動かない。
何が起きたのか理解できない様だった。
「はて、殺し方に対しての知識が無いのかな。暗殺者としては二流だよ。ちゃんと人体の急所は把握しないと駄目だよ。」
思わず小和泉は、防人にアドバイスをしていた。
「黙れ。我、敵、貫くのみ。」
防人が言葉を返す。小和泉は、返事を期待していなかった。
だが、その声を聞いてしまったゆえに小和泉は、逆方向へ心変わりした。
常人であれば、殺されそうになった直後だ。遊ぶ気持ちは、無くなるだろう。
だが、小和泉は狂犬と呼ばれる男だ。
戦場に立てば、いつ命を失ってもおかしくない。早いか、遅いかの違いでしかない。
―何もせずに後悔するのであれば、楽しみながら死ぬだけさ。―
小和泉の頭は、貫手の防人と遊ぶ事に満たされていった。
防人の声が、余りにも若く透き通るような少女の声だったのだ。
その声を聞いて、小和泉は己に正直になった。これも狂犬と呼ばれる由縁の一つだった。
敵の油断を見逃す小和泉では無い。一息に間合いを詰め、防人の顔面へ正拳突きを見舞う。
防人は虚を突かれ、折れた腕で防御をしようとした。顔面を守るための腕は、肘からだらしなく垂れ下がり、顔面を隠せなかった。
小和泉の正拳が鼻と口の間に綺麗に決まる。ここも人間の急所だ。口の中から歯が数本、血と共に床へ飛び散った。
防人は、一撃で意識を刈られた。
小和泉によりかかる様に倒れ、しっかりと受け止めた。小和泉は、意外にも優しく床へ防人を降ろした。
小和泉の優しさでは無い。床に激突した時の痛みで失神から解き放たれることを考慮しただけだった。
―間違いなく、失神しているね。―
小和泉は、防人の脈と呼吸を確かめ、意識がすぐに戻ることはないと確信し、腰のナイフと手榴弾を抜き取った。
小和泉は背後へと振り返り、ワイヤーの防人へと慎重に近づいた。
―今、初めて三人目を肉眼で見るのだね。―
仰向けに倒れていたワイヤーの防人も長髪に黒い貫頭衣だった。やはり、表情は髪に隠れて見えない。
小和泉は歩みを止め、防人から奪ったナイフを投げた。
ナイフは、狙い通り、防人の心臓に吸い込まれた。防人の体は、ナイフに刺されたにもかかわらず、指一本動くことは無かった。
死んだふりでも失神でも無かった様だ。小和泉の踏み抜きで既に死亡していた。
戦いで生き残るのには、止めを刺すことは鉄則だ。
そうでなければ、殺されるのは小和泉の側となる。小和泉は、戦いの中から勝ち続ける事に喜びを見出していた。
小和泉は、防人の脈と呼吸が完全に停止していることを確認した。この防人も女だった。どうやら、防人も日本軍と同様に男女平等なのかもしれない。
それとも、単に人手が無いだけなのかもしれない。
胸のナイフを念の為、一捻りしてから抜く。完全に無意識で行っていた。
刺し傷は、断面が小さい為に傷口が小さく、致命傷に至りにくい。また、縫い合わせる事で治療もしやすい。その為、刃を捻じる事により、傷口を大きく広げ、周囲の組織を破壊し、出血を強い、縫合も出来ぬ様に傷口を荒らす。
さらに開口部が広がることにより、中に雑菌が入り、破傷風等を期待する事も出来る。
敵を確実に仕留める為の大事な仕草だった。
小和泉は、ワイヤーの防人のナイフと手榴弾も回収した。手榴弾は野戦服に引っ掛け、防人達のナイフを見定めた。小和泉の私物であるコンバットナイフと比べる程の物では無い。
支給品の銃剣よりも粗悪だ。百年前のナイフと代わり映えしない品質だった。
「僕には必要ないね。」
小和泉は呟くと最初に斃したナイフの防人へ二本のナイフを投擲し、防人の体に突き刺さった。
自身の手で止めを刺した事は理解していたが、使い道の無いナイフを捨てるにはちょうど良いと判断したのだ。
小和泉は、防人の少女へと振り返った。この踊り場で生き残ったのは、小和泉と防人の少女だけになった。
床に仰向けに寝かされ、右腕があさっての方向に折れた少女の傍にかがみ、腰紐をほどいた。そして、躊躇いなく貫頭衣を捲り上げた。
少女は、下着を着けていなかった。防人達には、下着を着ける慣習が無い様だ。
少女の体は、細くやせ細り、栄養が足りていないことが見てとれた。
だが、鍛え抜かれていることは、よく分かった。
割れた腹筋。筋肉トレーニングによる乳房の縮小。全身に刻まれた古傷。
性的な魅力など皆無に等しい。だが、小和泉は兎女にすら欲情する男だ。
すでに小和泉の分身は、いきり立っていた。
「では、いただきます。」




