86.長蛇作戦 影との攻防
二二〇三年一月一日 一八四六 OTU中層 居住区
小和泉は、天井に設置された換気口の換気扇を取り外し、点検用のキャットウォークに用心深く降り立った。そこは路上より二十メートル程の高さに設置されていた。
天井から吊り下がる形のキャットウォークは、床には鉄製の網が張られ、簡素な手すりが付いていた。
地下都市内の空調が上手く機能していない為か、かびと淀んだ空気の臭いが小和泉の鼻腔をかすかに刺激していた。周囲に敵影も気配も感じることはなかった。
気温と湿度がやや高く、野戦服しか着ていないが、小和泉は暑さを感じた。
―これが夏という季節なのかな。―
空調が効いた地下都市と、平均気温二十度以下の地表しか知らない小和泉には初めての体験だった。
天井から吊り下げられたキャットウォークからの見晴らしは良かった。
しかし、天井に埋め込まれている照明は、大多数が消灯していた。意図的に節電をしているのか、故障を放置しているのかまでは判らなかった。ただ、空調が快適に保たれていない事から、後者であろうことは想像できた。
その為、居住区は全体的に日没前の様な暗さとなり、所々に暗い闇を残していた。
―この位の明るさなら、暗視装置は要らないし、問題無いね。さて、どこを目指そうかな。―
小和泉は、居住区を見渡す。
三階建ての集合住宅が幾重にも幾何学的に足元に並んでいた。地下都市KYTと同じ規格の街並みが目の前に広がるが、対面の外壁がはっきりと視認できる位、一層当たりの面積はかなり狭かった。
―街造りは規格通り。直径は五キロかな。動体は無し。音も空調機の駆動音がかすかに聞こえる程度か。生物の気配は無し。まるで死の街だね。統一規格で建設されているなら、最下層に重要施設があるのかな。とりあえず、最下層を目指してみましょうか。―
小和泉は、壁際に下へ降りる梯子を見つけると戦闘靴を履いているにもかかわらず、金属を踏む様な物音を全く立てず、静かに梯子へと歩き出した。
小和泉が路上に降りて数分経った時、首筋に針を刺す様な痛みを感じた。もちろん、実際に刺された訳ではない。感覚だけだ。
小和泉は、即座に体を沈め、背後へ右足払いを反射的に放った。
黒い影は、小和泉の足を空中へと飛び避けた。小和泉は、足の回転を止めず、その勢いを使い、更に右回し蹴りを影の腹へと蹴り込んだ。戦闘靴を通じて柔らかい人間の肉の感触を伝えてくる。
―ほう。敵は人間だ。月人の固い獣毛じゃないね。人との殺し合いか。楽しめそうだね。―
そんな感想が小和泉の脳裏に浮かんだ。だが、表情は能面の様に無表情のままだった。
小和泉の蹴りを真面に喰らった黒い影は、五メートル程、路上を滑る様に蹴り飛ばされた。だが、与えたダメージは低く、影は近くの闇へとすぐに身を潜めた。
小和泉の鋭敏な感覚でも影の存在を認識できなくなった。恐らく攻撃を行う直前にだけ、殺気が漏れるのだろう。小和泉が、敵は暗殺者だろうと言ったのは、事実だった様だ。
「やあ、こんにちは。僕の背後を取るなんて凄いね。でも、空中に逃げちゃ駄目だよ。空中だと避けようが無いし、筋肉をしめて打撃に耐える事も出来ないよ。」
すでに小和泉は、左足を半歩前に出し、軽く腰を落とし、急所を腕でかばう様に構え、臨戦態勢を整えている。
しばらく、返事があるかと期待しつつ待っていたが、静寂が答えだった。
「お~い。言葉は判るかな。月人じゃないよね。人間だよね。何か答えて欲しいな。」
再び声をかけてみた。小和泉の単なる好奇心だった。やはり、返答は無かった。
また、背後に殺気を感じた。
体を半分左へずらすと、影の右手が先程まで小和泉の喉があった場所を通り抜けた。すかさず、影の右手を掴み、背負い投げに近い形で床へ叩きつけた。
「ぐは。」
影は、背中から叩き落とされ、肺腑の中の空気を無理やり吐かされた。
小和泉は、掴んだ腕を離さず、関節の逆方向に捻じったまま、腕の付け根を踏み潰す。
太い枝が折れる様な乾いた音が街中に響いた。
「くふ。」
再び影が、苦痛の喘ぎを漏らす。
影の右手から力が抜けた。影は、右手を壊された事を理解すると即座にナイフで己の右手を文字通り、斬り捨てた。そして、転がるように闇へと潜んだ。
小和泉が腕の付け根を踏み潰したために、簡単に筋肉を斬り離し易くなってはいたが、躊躇いなく、そして、手際よく自分の腕を斬り捨てた技量に、小和泉は素直に感心した。
闇へと大量の血痕が続いているが、小和泉に跡を追いかける気は無かった。
「いやいや。凄い覚悟と技量だね。僕、感心しちゃったよ。なるほど、これなら兵達が簡単に屠られるのも納得だよ。
さて、治療しないと失血死しちゃうね。でも、僕から闇には入らないよ。君の得意領域に入る必要は無いからね。投降するなら手当てをしてあげるよ。」
小和泉は、そこに影が居るかは判らなかったが、闇に向かって投降を促した。
気配が読めないのだ。右腕を失う大怪我をしてすら、影の気配断ちは完璧だった。
小和泉は、影の右手を持ち上げた。普通の人間よりも三十センチ程長く、貫手を得意とする拳であることに気が付いた。指先が石の様に固く鍛えられていた。何度も硬い物を打ち続け、骨折しては治し、治れば骨折するまで打ち続ける事を繰り返す。
その様にして、指の骨が太く硬くなったことが見てとれた。ただ、日常生活には間違いなく支障があることは明白だった。固くなった指は、関節が固まり、曲がることはない。物を掴むには、まだ、自由に動く親指で物を挟むしかないだろう。
指とは対称的に、上腕と前腕の筋肉は、柔らかくしなやかだった。腕力で戦うのではなく、柔軟性と速度を利用し、鍛え上げた貫手を鞭の様に振るうのであろう。
そして、小和泉にとって意外だったのは、とても清潔だったことだ。この様な居住環境であれば、汗や埃で汚れているものだと思っていた。
「この右手、よく鍛えてあるね。今、出て来たら繋げるかもしれないよ。もちろん繋ぐには、僕達の基地に来てもらわないといけないけどね。さあ、出ておいでよ。」
小和泉は、丹念に反応を探った。しかし、小和泉の感覚に引っ掛かるものは何も無かった。
「残念。振られたか。」
小和泉は呟くと、無造作に右腕を道路に捨て、交通塔に設置されているであろう非常階段へと歩み出した。
二二〇三年一月一日 一九〇四 OTU中層 居住区
影は気配を消すと、排水溝を伝い小和泉から一目散に逃げていた。自身との実力差が大きすぎる為、襲撃を中止した。暗殺者は、勝敗ではなく、確実に命を奪う事を目的としている。
何十年も使われていない手近な集合住宅の一室に入り、目についたケーブルを掴みとると右肩に強く巻きつけた。
ケーブルの端を歯で挟み、もう一方を左手で力一杯、引き絞った。
激痛の上に、更なる激痛が走る。思わず、痛みで口を開きそうになったが、意思の力で押さえつけた。
ようやく、右肩からの出血が止まった。その事に一安心し、気が弛み、失神しそうになるが影は鎮痛剤を飲み、耐えた。
―長に侵入者を伝え、迎撃せねば。―
影はゆっくりと立ち上がると、おぼろげな足取りで闇へと再び消えた。
影が、集合住宅を出るとすぐに先程の青年の姿を捉えた。小和泉は、住宅街の道路の中央を静かに交通塔の方向へ歩みを進めていた。
影から見て、青年の姿は無防備に見えた。
―次はいける。―
影は、その様に確信した。
そして、鎮痛剤という麻薬が、正常な判断を狂わせつつあった。
右腕は失ったが、鎮痛剤も効き始め、行動の自由度も取り戻し始めている。
影は長への報告を忘れ、迎撃せねば、だけが頭に残った。
闇の中を通り、青年の前へ先回りを始めた。




