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戦闘予報 -死傷確率は5%です。-  作者: しゅう かいどう
二二〇二年

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69.第二十五次防衛戦 殴る

二二〇二年十一月二十五日 一八三六 KYT 居住区下層部


遠くで燃え始めた火事が、小和泉の居るアパートへとゆっくりと近づいていた。

真っ暗だった部屋は、大火によりゆらゆらと照らされていた。

まだ、行政府による照明の復旧は、なされていなかった。

暗視装置で行動している軍に支障が出ない様に点灯のタイミングを計っているのかもしれなかった。戦略モニターを確認すれば、状況が表示されている可能性もあったが、白兵戦中である小和泉には確認をする余裕は無かった。

居間の中心に倒れる頭部を握り潰された人間。その周辺には粉砕された家具が散らばっていた。

残骸の上には、胸や頭部に銃創をつけた月人の死体が六匹転がっていた。

まるで何かの怪しげな魔法陣の様な雰囲気だった。

その陣の中で小和泉と鉄狼は、お互いの間合いを探る様に向かい合っていた。


小和泉は、鉄狼の右太ももの筋肉が収縮するのを感知すると反射的に鉄狼の間合いへ一歩踏み込んだ。

同時に鉄狼の鋭く太い爪が目の前を通り過ぎる。次に鉄狼の首の筋肉が収縮した。すかさず小和泉は頭一つ分腰を落とす。先程まで小和泉の頭があった場所を鉄狼の鋭く尖った牙が空を噛んだ。

月人の背後に回るべく、小和泉はそのまま床を転がり鉄狼の間合いから逃れた。

小和泉は鉄狼との戦闘で少しずつ精神を擦り減らし始めていた。複合装甲の増幅機構が無い為、鉄狼の攻撃を認識してからでは避けられない。避けるには、鉄狼の動きを先読みする必要があった。筋肉の些細な変化、眼球や瞳孔の動き、呼吸などの些細な情報をかき集め、鉄狼の動きを予測し、攻撃を避け続けていた。


だが、この様な芸当は長時間できない。小和泉の集中力に限界が来ようとしていた。

―今のところ、僕の読み通りだね。鉄狼の考え方が分かってきたかな。では、反撃と行きますか。―

左手で腰の閃光弾を安全ピンから抜き取り、鉄狼が振り返るのを待つ。

鉄狼の腰に力が入った。

小和泉は、鉄狼の顔が来る辺りに閃光弾を浮かし、目をつぶり俯く。瞼を閉じていても眩しい光が部屋を満たした。

「グゥワー。」

鉄狼が目を焼かれる痛みに叫ぶ。小和泉は目を閉じたまま、右手を一直線に全力で突き出した。

「ガブッゥ。」

今度はくぐもった短い悲鳴が聞こえた。

閃光弾の光が収まると状況がハッキリとした。

鉄狼は、目を焼かれた痛みを誤魔化す為に両手で目を抑え大きく叫んだ。その大きく開いた口へ小和泉はコンバットナイフを持った右手を差し込み、口の中から鉄狼の延髄を刺していた。

だが、口に違和感を覚えた鉄狼は下がらず、本能的に小和泉の右手を噛み、動きを抑え込んだ。

つまり、鉄狼の口に小和泉の右手が咥えこまれた状況になった。

目が見えず状況を理解していない鉄狼は、噛む力を強めていく。

複合装甲が乾いた悲鳴を上げ、きしみ始める。

鉄狼の噛む力は強く、小和泉の右手は抜く事も刺す事も出来ず固定された。

この様な状況も想定していた小和泉は慌てなかった。目を手で押さえて痛みを堪えている鉄狼に対し、自由な左手で殴る。殴る。そして殴る。

鉄狼の右目に対し殴る。目を庇う指の上から殴る。何度も殴る。続けて殴る。

鉄狼の左手の鋭い爪がヘルメットを掠め、内部に気味の悪い不協和音を響かせている間も殴る。

その打撃は非常に美しく、まさに理想的な空手の正拳突きだった。

小指から順にやさしく握った拳をしっかり背中側へ引き構える。

脇腹を擦る様に真っ直ぐに放つ拳は最短距離で鉄狼の右目へと吸い込まれる。直撃した直後に拳に回転を加え、威力を増加させる。撃ちだした肘は若干の余裕を持たせ、軽く曲がっている。

腕を伸ばしてしまった場合、敵に腕を捉えられれば、簡単に肘関節を破壊されてしまう為だ。余裕を持たせることにより、敵の関節技から逃れることができる。

打撃を与えれば、即座に腕を引き、拳を元の位置に戻す。これも敵に腕や脇腹という弱点を晒さない為の動きだ。小和泉は、この一連の流れを何度も繰り返す。

鉄狼が防御する右手に対しては、鉄壁の獣毛により打撃は通じていない。しかし、その先にある眼球は別だ。眼球に鉄板を押し付けた状態で殴り続けられれば明白だ。拳は眼球に触れずとも鉄板が眼球を破壊する。

今まさにその状態を小和泉は生み出していた。

鉄狼の左手が左目から離れた瞬間、目標を右目から左目へ即座に切り替え、殴る。

痛みを堪える為、鉄狼の小和泉の腕を噛む力が強まり、複合装甲からひびが入る亀裂音が聞こえてくる。しかし、小和泉は黙殺し、殴る。ひたすらに殴る。一心不乱に殴る。

鉄狼は両目を閉じたまま、両の手で小和泉を捕まえようとするが、適当な腕の動きなど簡単に避け続けその間にも殴る。

殴って殴って殴り続ける。


無酸素運動による正拳突きに限界がきた。

体中の細胞に疲労が蓄積し、身体が重くなりつつあった。

―ちっ。限界か。―

小和泉は正拳突きを止めた。

鉄狼の顔面は小和泉の拳により粉砕され、目の周辺の凹凸は無くなり、平面に近くなっていた。

鉄狼の両目があるべきところは、黒く濁った赤い血が溜まり、眼窩から血が大量に零れ、号泣しているかの様にも見えた。

鉄狼の身体は、定期的に全身を痙攣させるだけで、だらしなく四肢を床に投げ出していた。

反撃の素振りどころか、意識すら無い様に思えた。

小和泉は深呼吸を二度ゆっくりと行い、即座に呼吸を整える。この程度の無酸素運動は、錺流武術の呼吸法により、すぐに疲労から回復させることができる。

小和泉の左手の複合装甲は、完全に装甲が剥がれ落ちていた。装甲内部の人工筋肉が露出し、完全に筋肉繊維が断線していた。そして、鉄狼の返り血と人工筋肉の赤い保護液が混じり合い、拳を真っ赤に染め上げていた。時折、赤い液体が床へと滴り落ちていた。だが、小和泉の拳は無傷だ。

拳を凶器へと固める為に正しい握り、正しい手首の角度、正しい打撃点を意識し、正確にハンガーにある装甲車へ素手による正拳突きを毎日行っていた。

幼い頃は布団から始め、木、砂、石、コンクリート、鉄板、装甲板へと順に硬い物を長い年月をかけ打ち込み続けてきた。

何度も拳の皮を破り、骨を砕き、完治してはまた壊すことを繰り返してきた。

その為、小和泉の拳の人差し指と中指の付け根には拳ダコと呼ばれる非常に固く平たい殴るためだけに生まれたコブがある。今では装甲車の装甲板を殴っても皮膚が破れる事も骨を傷める事も無い。

小和泉は、生涯で一体どれだけ正拳突きを放ってきただろうか。一万発や十万発では済まない。一日百発×三百六十五日で三万六千五百発になる。一日の回数の多寡や遠征や入院で鍛錬が出来ない日も計算に入れても五十万発は簡単に超えるはずだ。

それだけ身体に染み込ませた基本技であり、もっとも小和泉が信頼している武器だった。


小和泉の右手は、すでに鉄狼の牙から解放されている。ナイフを握りしめた右手を口の奥へ進め、延髄に突き立てる。

鉄狼の身体が派手に暴れる。脊髄反射の様な物だろう。反撃ではなかった。

さくっと小和泉はナイフで延髄を周囲ごと抉った。今度は鉄狼に何の反応も無かった。

小和泉は鉄狼に止めを刺したと認識した。

鉄狼の獣毛でコンバットナイフについた血脂を拭い、鞘に仕舞った。続いて、左手の原型をとどめない複合装甲を外し、鉄狼の頸動脈を探った。

鉄狼の柔らかくなった獣毛越しに首を触れる。身体には体温が残り温かい。脈動もゆっくりだが感じられた。だが、確実に脈動の間隔が長くなり、力強さも失われていく。

そして、全く脈動を感じなくなった。

一匹の生物の命が消えた瞬間だった。

「はぁ。生き残れたか。」

小和泉にとって感想はその一言だけだった。軍に仕えて数え切れぬほどの月人を殺してきた。今さら一匹殺したところで良心の呵責など起こりえるはずも無かった。

ただ、自分自身が五体満足で生き残ることができた事実を再確認するだけだった。


小和泉は、戦術モニターを立ち上げ周囲の状況を確認する。

戦区マップによると周囲に敵影は無く、小和泉の指示通り友軍も近づいていなかった。

戦場に奇妙な空白地帯が出来ていた。

「総司令部、応答せよ。こちら特科隊、小和泉大尉。」

「こちら総司令部。」

女性士官が無線に出た。

「一号標的、一匹排除。複合装甲大破。負傷無し。他に標的は見えず。撤収の許可を。」

「検討する。待機せよ。」

「了解。」

しばしの無線の沈黙を待つ。その間に水分の補給でもと思ったが、総司令部の反応は早かった。

「小和泉大尉、応答せよ。こちら総司令部。」

「小和泉大尉だ。」

「他の一号標的は確認できず。撤収を許可します。複合装甲を支給しますので、装備部にて受領及び小休止して下さい。」

「装備部への撤収、了解。帰還する。」

「通常の月人にお気をつけて。」

「ありがとう。」

小和泉は無線を切り、闇の中を静かに撤退した。

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