66.第二十五次防衛戦 齟齬
二二〇二年十一月二十五日 一七四八 KYT 居住区下層部
小和泉は、家具の死角を用い鉄狼へとゆっくりと距離を詰めていく。
外では榴弾が破裂し、建造物が破壊される音が腹に響き、多少の物音は掻き消された。
そして、鉄狼が力づくで引き裂いた死体により血と肉の臭いが小和泉の体臭をごまかしていた。
鉄狼は、机の上に座り欠伸をしつつ、目を閉じた。完全に油断をしている様に見えた。だが、それは見た目だけであり、滲みだす気配は死の影を振りまいていた。
小和泉は、匍匐をしつつ鉄狼の背後を取るべく、時間をかけつつ部屋の中を移動していく。
程良い緊張感とこれから行う事に小和泉の表情は、幾分か弛んでいた。
鉄狼との初戦は、敵の事を知らずに敗退した。二戦目では、敵の身体の構造を知り、勝利した。
今回の三戦目は、これまでの戦いの復習であり復讐だった。
鉄狼は力が強く、敏捷性も高い。そして、全身を覆う鉄色の獣毛はライフルや爆発の熱量を遮断し、さらに打撃や銃剣の斬撃も獣毛を硬化させることによって弾いてしまう。
まるで日本軍の複合装甲の様にやっかいな物だった。
だが、関節技は獣毛では防げない。獣毛が硬化するのは、強い衝撃を与えた時で優しく触る分には硬化しない。そして関節部の内側は硬化しないことを先の戦闘で判明した。これらは身体の動きを妨げない為の仕組みだと日本軍は考えている。
ならば、戦い方はいくらでもある。強敵ではあるが、超えられない壁では無い。ゆえに小和泉は、今回の作戦は単独行動を志願した。小和泉の意図しない攻撃を加えられ、獣毛が硬化し攻撃が防がれる事態に巻き込まれたくなかった。攻撃の主導権は、小和泉が握り続けていたかった。
いくら鉄狼撃破の方策が見つかったとは云え、敵の攻撃力は減った訳ではない。
遠くから見つかれば、高い敏捷性により一気に間合いを詰められ、白兵戦に巻き込まれる。
白兵戦では、剛腕に殴られれば、その体の部位は叩き潰される。手足を握られれば、強力な握力により握り潰される。
それらの隙をついて、鉄狼へ攻撃できる人間は、日本軍には数える程しかいない。
ましてや、実績がある者と言えば、小和泉と菜花の二人しかいない。
日本軍総司令部が、鉄狼対策に小和泉を引っ張り出すことは当然の帰結だった。
日本軍としては、個人の力量に頼ることは戦術ではないと考え、別の対策を考えている様だが実用化されるには時間がかかるであろう。それまでは、小和泉に類する白兵戦能力を持つ兵士の養成が急務であると考えていた。
―さて、白兵戦要員が育つのは何時の事になるのやら。錺流を十年以上鍛錬してきた僕並に鍛えることができると、総司令部は本気で考えているのかな。―
小和泉は、ようやく鉄狼の背後のソファの陰にまで移動できた。鉄狼は、小和泉が背後に迫っている事を想像していないだろう。しかし、隙は見当たらない。
―鉄狼は、何がしたいのだろう。ここで待機しているだけで次の戦線に移動しない。何かを待っているのだろうか。
では、何を待つ。部下が集合することかな。新しい戦力が合流することかな。それとも撤退命令かな。
いや、月人に撤退の言葉は無い。奴らは死ぬまで前進を止めない。これは数十年前から変わらない戦略だったね。さて、どう行動すべきかな。―
小和泉は、鉄狼が隙を見せるのを辛抱強く待った。
二二〇二年十一月二十五日 一七五九 KYT 居住区下層部
小和泉は、戦術モニターを網膜に表示させた。この戦区の日本軍の戦線は、L字型に粛々と前進し、確実に月人の占領区を取り返している。日本軍は確実に勝利に向かっていた。
戦闘予報。
防衛戦です。侵入者を掃討して下さい。
死傷確率は5%です。
それを裏付けるかの様に戦闘予報の死傷確率も久しぶりに基準値である5%を示していた。
―日本軍は優勢に進行中だね。こんな安全な戦闘予報は一年か二年振りかな。さすがに地の利と装備が整えば、勝てるか。
しかし、鉄狼は一向に動くどころか、焦る気配もないね。
ならば、日本軍が罠に落ちるのを待っていると考えるべきかな。最近は月人も知恵をつけ、罠などの戦術モドキを仕掛けてくるからね。そう考えるべきかな。さて、今なら行ける。―
小和泉は、静かに鉄狼の背後を取ると銃剣を狼の耳の穴に一気に刺しこむ。
これならば、堅牢な獣毛も関係なく脳髄を銃剣で抉ることができる。耳の穴に銃剣が入る直前、視界が暗転した。
突然の視界の消失に鉄狼が動き、銃剣が逸れる。剣先は耳の穴に入らず、硬化した獣毛を銃剣が滑っていく感触が手に伝わる。
視界は消失したままだった。小和泉は記憶をたどり、この部屋の家具の配置を思い出しつつ、鉄狼と距離をとった。小和泉は突然の消灯に一瞬動揺するが、すぐに日頃の鍛錬の成果により平常心を取り戻した。
夜目が効く小和泉でも突然、光源を失えば闇に順応するのには時間がかかる。
普段から使用している暗視装置を起動させれば良いのだが、目の前の鉄狼の気配がその隙を与えてくれない。
窓の外では、アサルトライフルの十字砲火の火箭が走り、榴弾の爆発により時折明るくなった。
―馬鹿か、馬鹿か。行政府は馬鹿か。日没の消灯だと。ふざけるな。タイマーを切れ。こっちは命懸けの戦闘中だぞ。何故、味方に足を引っ張られなければならない。阿保共が。―
小和泉は、心の中で地下都市の管理運営を行っている行政府へ悪態をつく。
前から力強い圧力を感じ、咄嗟に右へ大きく避けた。小和泉が居た場所を鉄狼の右腕が通過する。
視力が落ちている為、無駄な動きになるが、普段より大きく避けるしかなかった。
奴らは地下の闇に生きるもの。体内時計で日没を待っていた。現実の日没とは誤差があるだろうが、予定通りに日が落ちてしまった。
この時間を待つ為に、月人達は大人しくしていたのだろう。今なら、戦場で目を閉じる愚かな行為の理由もはっきりした。目を閉じていたのは、闇に順応させる為だった。
小和泉の目にもうっすらと人型の影が映るようになってきた。どうやら闇に順応してきたようだった。
背後からの不意打ちで終わるはずの戦闘が、望んでいない正面からの白兵戦になってしまった。
―やれやれ。仕方ないね。お相手しましょうか。―
小和泉は銃剣を逆手から順手に構え直し、心を切り替えた。
本来は消灯による日没は来ないはずだった。
戦闘中に行政府が照明を消し、漆黒の闇をもたらすなど誰が想像しただろうか。
総司令部の人間は、二十四時間、照明が消えない司令室に籠っている為、地下都市環境の事を失念していた。また、日没の事を考慮した者もいたが、行政府がその様な愚かな行いをとるとは考えてもいなかった。
行政府にとっては、六時に消灯することは常識であり、軍からの要請が無いため通常通りに照明を落とした。路肩に埋め込まれた夜間用の間接照明が街をほのかに照らすはずだが、その様な物は、戦闘で破壊され、がれきに埋まり機能していない。
真の闇が戦闘区域を覆い尽くした。
前線が崩れ始める。突然の視界の消失により、兵士達の間にパニックが起き、一度起きたパニックは伝染していった。
月人を見失った日本軍は、あっさりと軍の内部に敵の侵入を許した。
日本軍と行政府の齟齬の為に、地獄が生み出されようとしている。




