329.〇三〇七二一OSK攻略戦 望まぬ再会
二二〇三年七月二十九日 一四四一 OSK 中層部 居住区
小和泉は、一戸建ての玄関の凹みに身を隠し、近くにあった家財を周囲に積み重ね、身を潜めていた。
小和泉の獣性が昂ぶっていようとも、冷静さは失わない。
今まで培ってきた精神修養の賜物であった。圧倒的戦力差に無策で突き進むことはしない。
月人からは姿が視認できない筈なのだが、小和泉を中心に約六十個まで増えた赤い点に取り囲まれていた。
「約六十匹の月人か。これが日本軍である可能性は無いか。参った。まさしく孤立無援だ。」
小和泉の表情と言葉使いからは、好青年の印象は消え去っている。
今までは人間関係を円滑にするために好青年を装っていた。だが、大切な人も戦友も失い、孤独となった小和泉が、表面を取り繕う必要はなくなったからだ。
小和泉は居住区の天井を見上げた。ここは居住区であり、二階建ての一軒家が並んでおり、天井まで二十メートル以上はあった。一軒家の屋根に上がったところで、天井まで更に十メートル以上あり、整備用通路に逃げることもできそうになかった。
「天井もダメだな。地下共同溝が何処にあるか不明。ならば、正面突破しかないか。
いや、少しでも穴を見つけて戦力を削ぎ、持久戦で敵戦力を消耗させる方が良いか。
さて、どうすべき。」
小和泉は赤い点に完全に包囲された。包囲網はどこも同じ厚みで、極端に薄い箇所は見当たらなかった。
「どこを攻めても同じか。少しぐらい薄い箇所があれば、そこを基点に暗殺で数を減らせるのだが。一対一の状況を数回作れば良い。それで穴が開き、撤退できる。
理屈ではそうなるのだが、包囲網に急所が無い。」
徐々に包囲網は縮まっていく。包囲網の中心から小和泉の位置がずれていることから、月人が正確な位置を把握していないことは分かった。だが、包囲網を縮めているということは、小和泉を捉えたという根拠が何かしらあるのだろう。
「何が奴らの追跡の根拠になっている。分からん。理解できん。それが分かれば包囲網をかわせるのだが。くそ、思いつかない。鹿賀山、教えてくれよ。」
思わず、死人に助けを求める。今までの小和泉であれば、有り得ない発言だった。
そこまで追い込まれる程、心が疲弊していた。
冷静、いや平常時の小和泉であれば、一つの答えに辿り着いただろう。
臭いだ。小和泉は複合装甲にべっとりとついた血液、いや血の塊が鉄臭さを周囲に撒き散らしている事に気付いただろう。
狼男も兎女も鼻が良い。人間の血を遠くから嗅ぎ分けることなど造作も無かった。
この居住区で戦闘は無く、血が流れた形跡は確認できなかった。
つまり、小和泉が放つ唯一の血臭を辿り、この区画の月人が集まって来た。
こんな単純な理由を小和泉は見逃していた。
資材搬入口で散々床を殴りつけ、怒りと悲しみに任せ、そこに溜まった血を頭から撫でつけたのだ。シールド部分は視界確保の為に拭き取ったが、その他の部分は血がたっぷりついたままだ。ある程度、浴びる様に塗り付けた血液が少し乾燥したとはいえ、臭いが消える様な量では無かった。
自分の姿を鏡で確認できれば、心を散々に痛みつけられ、冷静さを欠いた小和泉でも包囲される理由を理解できたことだろう。
だが、ここに鏡は無い。そしてここに来るまでに己の外見を一度も視認することが無かった。
ゆえに小和泉は臭いに気付くことができなかった。
赤い包囲網は着々と円を縮めていく。
このまま完全包囲されるのだろうと思っていた矢先、突然、月人達は進軍を停止した。
小和泉は直径三十メートルの月人の檻に閉じ込められた。円の中心から外れている。恐らく空気の流れにより多少の誤差が発生しているのだろう。
だが、それは現状に何も影響を与えない。
一対六十による戦術的不利に変化は無い。
ところが包囲網の方に変化が現れた。真円に近かった包囲網の北側が崩れ始めた。
小和泉は何が起きるのか注視する。それが小和泉の命を左右することは明白だったからだ。
赤い点はゆっくりと外側に広がりながら二つに分かれた。そして、最終的に馬蹄形となった。
その馬蹄形の空白に赤い点が一つだけ残っていた。
「まるで門番だな。包囲網の一部を解いたのでここを通れ。この俺を倒せるものならばな。とでも言っているのか。
馬鹿らしい。月人にそんな知性や意志がある訳が無い。」
小和泉は溜息をついた。が、少しだけ何か引っかかりを感じた。
「待てよ。コツアイが指示しているのであれば、有り得るのか。月人もコツアイの命令であれば従うだろう。ということはコツアイの仕業か。
しかし、圧倒的有利の状況であからさまな隙をわざわざ作る理由がない。
あの人工知能は徹底的に無駄を省く合理主義だった。
数に物を言わせて攻めれば良い。何かの罠か。それとも一騎討ちを望んでいるのか。
それこそ馬鹿らしい。合理的じゃない。人工頭脳の考えることじゃない。くそっ。」
小和泉は疲れ切った脳細胞を更に働かせる。
だが、日頃から周囲に言っていた様に小和泉は肉体労働担当、鹿賀山が頭脳労働担当であり、考えは一向に纏まらなかった。
「はあ、結局は月人の思惑にのるしかないのか。包囲網が薄くなり、穴が開いた。その穴を守るのが一匹の月人だけ。戦術的にもそこが包囲網の弱点だ。
仕方ない。攻めるか。僕の体力も限界に近い。本格的な治療がしたい。
ならば、時間はかけない。一撃必殺。門番を倒し、隙間を一気に駆け抜け、逃げる。
これしかない。
これしかないよね。」
小和泉は再び熟考に入った。それが実現できるのか。できないのか。
結論に変化は無かった。小和泉の知能では、戦術は考えられても戦略は考えられないのだ。
敵の思惑、狙い、考えは全く理解できなかった。
「ならば、実力行使のみ。」
狂犬ならではの答えであった。
小和泉は、静かに周囲に積み上げた障害物を動かし、静かに赤い光点へ忍び寄る。障害物を避け、光点を視認できる場所へと移動した。
アサルトライフルを構え、ガンカメラの映像を網膜モニターに投影する。
そこには、仁王立ちした大型の狼男が居た。
通常の狼男より二回り大きく、灰色の毛で全身が覆われている。
見間違いなどできない見慣れた強敵だった。鉄狼だ。
それもやっかいなことに、その鉄狼を小和泉は知っていた。
「あらら。何の因果かな。あいつ、生きていたのか。
もうとっくにくたばっていてもおかしくないのに。今まで生きていたと言うことは、この鉄狼は手強い。生まれたての鉄狼とは比較にならないぞ。
鉄狼の古強者か。参ったな。あの時、無理してでも止めを刺すべきだったな。
いや、今更か。あの時は月人による罠で日本軍は崩壊。這う這うの体での撤退。いや、敗退したのだったな。」
小和泉が目にした鉄狼には、他の個体には無い一つの特徴があった。
隻眼だった。左目が潰れていた。最近潰れたのではない。すでに傷は癒え、古傷と化していた。
日本軍は鉄狼を遭遇した場合、生かさない。強敵を生かすことは、次の戦いで更なる強さを得ていることが多いからだ。ゆえに戦闘経験を鉄狼に積まさず、その戦場にて止めを刺すことを推奨している。
だが、初めての鉄狼遭遇戦は、すでに日本軍は壊滅し敗走中であった。
地下洞窟に張り巡らされた罠と待ち伏せを受け、日本軍は相当な損害を受け、敗走を強いられた。
その折に、殿を務めていた小和泉が初めて日本軍で鉄狼と遭遇し戦った。
生き延びることが最優先された。その狼男が以後、鉄狼と呼ばれる種類であることは後日判明した。ゆえに鉄狼殲滅命令は、発令されていなかった
その撤退戦時に小和泉が付けた傷が、鉄狼の左眼球の破裂だった。
鉄狼は、眼球破裂という初めて感じる痛みに苦しみ、追撃の手を弛めた。
その弛みを、小和泉達は地下洞窟から無事撤退することができた。
それらの出来事を小和泉はハッキリと思い出した。
「いやいや。まさか、あの時の隻眼の鉄狼と再会かい。
因縁を感じるねえ。こちらが危機である時に限って登場するのかい。
隻眼の鉄狼。隻狼か。
つまり、初めて僕の前に立った鉄狼が、この地下都市最後の門番である鉄狼だと言いたいのかい。
一体、どういう因果だ。それともコツアイが監視カメラで僕の存在を知り、隻狼を呼び寄せたのか。
呼び寄せたと考えた方が自然か。偶然この区画に居たと考える方が難しい。
そうか。そういうことか。今まで僕が接敵しなかったのは、隻狼を呼び寄せ、僕と戦わせる為か。なるほど、僕は隻狼に怨みを大きく買っている訳だ。
それほど、目を潰されたことが悔しかったのか。
そうだよね。月人最強の鉄狼が目を潰された挙句、逃げられた。獣だって屈辱位は感じるよね。で、隻狼の意志を汲んだコツアイがこの状況をお膳立て。
かああ、泣かせてくれるね。生涯の好敵手、いや仇と言う方が正しいか。
たかが獣に仇敵認定されるとは。」
小和泉は、懐かしんだり、迷惑がったり、悲しんだり、喜怒哀楽の表情を浮かべた。
最後に今まで誰にも見せたことの無い真剣な表情で言葉を吐き出した。
「本当に迷惑だ。」




