269.二社谷の怒気
二二〇三年六月二十九日 二〇一一 KYT 中層部 金芳流空手道道場
小和泉は、金芳流空手道道場の広い板張の中央に正座をさせられていた。
仕事が終わり、帰宅しようとした時に姉弟子であり、姉代わりでもある二社谷に呼び出されたのだ。
両親が亡くなってからは、小和泉は二社谷に育てられた。ゆえに命令は絶対。逆らうことは許されず、可能な限り早急に実行しなければならない。その様に幼き時から仕込まれてきた。
その時の声は、冷たく感情が全く籠っていなかった。
「仕事終わらはったら、うちに真っ直ぐ来いや。」
二社谷はそれだけを言うと通信を即座に切った。小和泉に返答をする猶予は全く無かった。
今回の命令は単純明快だ。道場に行くしかない。拒否する手段はない。
拒否すれば後日の仕返しが恐ろしいことになるだろう。
ゆえに小和泉は諦めて道場へと向かったのであった。
言われるままに道場に来ると二社谷は、道場の中央に小和泉を正座させ、目の前を何度も往復し始めた。口が微かに動いているのは、何かを呟いているのだろう。だが、小和泉の耳に届くことは無かった。
今日の二社谷は、白衣と白い細袴を身に付けていた。
小和泉の知らぬことだが、二社谷の司法府での仕事着である。
―何を聞いたらええ。あかん。腹立ってきたわ。とりあえず、しばいとこか。
いやいや、まず弁明聞こか。って、聞いてどうしますん。全部、奏ちゃんから聞いてますやん。意味ありまへんやん。
ほな、何で呼んでもうたんや。うち、どしたらええん。―
着替えることを忘れる程、二社谷は動揺をしていた。
―今日は、袴が赤色だったら巫女さんみたいな恰好をしているのだね。
相変わらず、姉弟子は扮装が好きだよね。
それにしても目が怖い。いつも以上に目が吊り上がっているよ。―
などと呑気に小和泉は考えていた。いつもの寂しさか、甘えたがりから、呼び出したのだろうと単純に考えていた。どうやら、そういう事態では無い様だ。
二社谷は釣り目の狐顔の美女であるが、その目の鋭さは更に跳ね上がっていた。
そこには美貌だけではなく、鋭利さが加算されていた。
二社谷が見つめるものは、全てを切り裂いてしまうかのようであった。
何度も小和泉の前を往復し、一向に用件を切り出さない二社谷の行動にようやく普段の呼び出しと違うことに気がついた。時間だけが進んでいく。
―あれ、もしかして昨日の結婚話が姉弟子の耳に入ったのかな。まずいよね。僕から伝えるべき事柄だよね。後手に回っちゃったよ。
あっ。しばらく顔を出していないや。作戦から帰還してからも連絡すらとってなかったよ。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。これはヤバイ。殺される。―
小和泉は、ようやく自分が置かれている状況に気がついた。弛んでいた気を引き締める。
その気持ちが切り替わった瞬間、二社谷は右回し蹴りを放っていた。
小和泉が発した小さな気に自動反応したのだ。
小和泉は身をかがめ、二社谷の蹴りをやり過ごす。頭上を掠めるように蹴りが通り過ぎた。
小和泉は身を起こし、その場から離れようと立つが、通り過ぎた二社谷の蹴りが床を蹴ってすぐに戻る。小和泉はその蹴り足を踏み、蹴りを止めた。
即座に二社谷の右肘が小和泉の顎を狙う。小和泉は肘を下から掌底で打ち上げて逸らす。
だが、二社谷の狙いは肘打ちでは無かった。そのまま、肘が伸び裏拳へと発展する。
不自然な姿勢を取らされている小和泉に避ける術は無い。
咄嗟に額で裏拳を受け止めた。
小和泉の頭蓋に重き衝撃が弾ける。首から肩の筋肉を締め、衝撃を真正面から受け止める。
小和泉は目の前にある二社谷の手首を掴むと、体幹を中心に巻き込むように篭手返しを行なった。
ただ、転がすだけでなく肘関節を逆方向に捻り、関節の破壊も試みる。
二社谷は、小和泉の意図を察知すると即座に前宙を繰り出し、小和泉の投げ技以上の速度を出して逃れ、小和泉の投げと間合いから逃れた。
「姉弟子、大丈夫ですか。思わず返し技を放っちゃいましたけど。」
小和泉はノンビリとたずねた。手応えが無かったことは、無効であった証であることは理解しているが聞かずにはいられなかった。
「かまへん。大丈夫やで。熱うなっとった頭が少し冷えたわ。
ところで、錬ちゃん。奏ちゃん達と結婚するんやてな。うち、何も聞いてへんのやけど。」
二社谷は、標準語ではなく方言を使っていた。
―まずいまずい。姉弟子、怒っている。激怒している。標準語を忘れて素面が全面に出てきている。ああ、これは死んだね。どちらかが死んだね。―
二社谷は興奮したり、我を失うと方言が出る癖があった。こうなると理性は二社谷の体内から存在しなくなる。唯一可能な会話が肉体言語となる。つまり、殴り合いだ。
「あと、言うてるやろ。姉弟子ちゃう。姉様と呼びや。悪いのはこの口どすか。」
二社谷は小和泉の胸奥まで一気に距離を詰め、左肘を下から打ち上げた。小和泉は上半身を背後に逸らせた。肘が顔面を通り過ぎた。読みが甘かったのか、小和泉の鼻をかする。二社谷の鋭い肘はぱっくりと皮膚を裂いた。表面の皮膚を裂いただけだが、派手に血が滴り落ちた。
「すいません。姉様。気を付けます。結婚のことは今日話すつもりでした。」
小和泉が弁明をする間に二社谷の左膝が目の前に迫っていた。
瞬間的に背後へ飛び、軸線から逃れる。
「いつも、飛ぶなって言うますやろ。」
二社谷の膝蹴りは、単なる準備動作でそこから折り畳まれた左足が伸ばされ、小和泉を追いかける。
小和泉は空中に居り、回避行動がとれない。二社谷は、足の指を全て直角に上へ持ち上げ、指の付け根の部分を小和泉の金的へ蹴り込む。指の様に複数の骨も複雑な間接も無く、力をこめて壊れない足裏で頑丈な部分が襲い掛かる。つまり、加減をしていない全力の蹴りだ。
さすがの小和泉も金的を鍛えることはできない。達人は金的を体内に仕舞うなどという噂も聞くが小和泉にはできない。精々、玉を上下に動かすことが関の山だ。
空中で出来る事は、手を伸ばし、代わりに蹴りを受け止めることだけだった。腕を十字に組み、二社谷の蹴りを受け止める。
空中に居る為、踏ん張ることができず、二社谷の全体重が二本の腕に圧し掛かる。腕は押し込まれ、自分自身の腕で金的を押し潰しそうになるが、両足の太ももを強く握り、それ以上押し込まれるのを何とか防いだ。
だが、その歪な受けの所為で小和泉は背中から床へと叩き落とされる。
二社谷は蹴り足をそのまま床へと叩きつけ、右正拳突きを小和泉の鳩尾へと振り下ろす。
腹筋と横隔膜を締めて、迎え撃つが拳は二センチ程、体内へ埋没した。
肋骨が軋み、圧力で肺が押され息が漏れた。続いて、内臓へと振動が響き渡る。
殴打の瞬間に拳を大きく捻ったのだ。これにより、真っ直ぐ突き抜けるはずの衝撃が周囲の組織を巻き込み、破壊力の増大に繋がった。
二社谷の細腕から発せられた突きとは思えぬ程の痛みが小和泉の臓腑を抉る。腹一杯に広がる激痛を脳が拒絶する。気を失うことで痛みから逃れがっていた。死の気配を久しぶりに感じる。
―飛ば、なきゃ、良か、った。―
幼き頃から、空中に逃げるな。飛ぶな。逃げ道は無い。と言われ続けたことを思い出す。
いつもの小和泉であれば、こんな初歩的な失敗はしない。結婚話が、無意識の内に精神状態を追い詰めていたのだろうか。
そのまま悶絶するわけにはいかない。気絶すれば、追い打ちが続くことは自明の理だった。
小和泉は痛みを訴える身体を騙し、痛みを無視し、床を転がり、二社谷から離れたところで立ち上がり、中段の構えをとった。構えをとることにより隙は減る。また、対抗手段が大きく増える。
これ以上の攻撃を受けぬためには、何かしらの構えをとるべきだった。
すぐに追撃があるものだと覚悟していたが、二社谷はその場にしゃがみ込んでしまった。
その特徴的な吊り目から大粒の涙をポロポロ零していた。
「錬ちゃん、ひどおす。うちのこと、何も考えてくれてへん。いつもいつも後回しや。奏ちゃんからやなく、錬ちゃんの口から先に聞きたかったわ。ほんま、いけずやな。」
小和泉を上目遣いで、涙声で、日ごろの態度を非難した。
どうやら、生死にかかわる一撃を奇麗に小和泉に撃ち込んだことにより、二社谷は興奮状態から覚めた様であった。
「ごめんなさい。姉様。ちゃんと説明するよ。」
「ほな、全部教えてや。今晩、泊まっていき。」
「分かったよ。」
小和泉は二社谷の涙をハンカチで拭き取った。
―殴らなくても良いのにね。この暴力性さえ無ければ、良い姉弟子なのだけどなあ。―
と腹の痛みを堪えながら、大きい溜息をついた。
小和泉は、食事後の歓談中に珍しく寝落ちをしてしまった。
どうやら、出された酒を飲み過ぎたらしい。そのまま朝まで熟睡してしまった。
放置される形になった二社谷だが、怒っていない様だった。
多少、制服は乱れていたが、無意識の内に弛めたのだろう。
小和泉は、シャワーと朝食を取ると道場に置いてあった予備の服に着換え、仕事に向かった。
それを見送る二社谷の顔は、清々しいものであった。




