268.覚悟を決める
二二〇三年六月二十八日 一九〇九 KYT 士官寮 小和泉自室
話し合いの口火を切ったのは、白河であった。
「では、これから両家の打ち合わせを行いたいと思う。軍務ではなく、私事ゆえに名前で呼ばせてもらう。まずは、奏の意見を聞かせてもらおうか。」
そう言うと白河は出されたコーヒーに口をつけた。砂糖もミルクも入れない。ブラックコーヒーが好みの様だ。
「市之丞兄様、私はいつでも良いのです。今、幸せです。でも、結婚式には憧れます。」
東條寺は目を輝かせる。
「では、錬太郎はどう考えているのだ。」
小和泉は白河からの慣れない呼ばれ方に頭を一掻きし、対角線上に座る白河を真っ直ぐに見据えた。
「あのう、話の腰を折る様で申し訳ないのですが、白河少佐は、奏とおやっさんとは、どの様な関係ですか。」
小和泉が朝から疑問だったことだ。
―なぜ、おやっさんと白河少佐が一緒に僕を追い詰めたのかな。
なぜ、白河少佐がこちらの事情を全て把握しているのかな。
そして今、奏が市之丞兄様と呼んだのかな。―
この疑問が小和泉の脳内を泳ぎ、考えをまとめさせてくれなかった。小和泉は肉体労働担当であり、頭脳労働は担当外なのだ。
「おや、以前に自己紹介をしたと思ったのだが、私の勘違いだっただろうか。
単に覚えていないだけなのか。
まあ良い。では、改めて自己紹介をしよう。
私の名は、白河市之丞だ。皆が知っている通り、憲兵隊の少佐だ。
そして、第八大隊大隊長である菱村中佐の次男だ。妾腹の子ではあるが、認知されている。
つまり、東條寺奏とは腹違いの兄と妹の関係になるな。白河と東條寺は母方の名字だ。
ちなみに長男は正妻の子だ。第一大隊第三中隊の中隊長をしている。名を菱村鉄之丞といい、階級は大尉だ。
兄には、奏の結婚のことは伝えていないし、恐らく知らないだろう。
奏が狂犬と結婚すると聞くと間違いなく殴り込んで来る。それも面白そうではあるが、今は止めておこう。話を複雑にしたくない。
妹への錯綜愛が強いとでも言えば良いだろうか。奏を自分の分身の様に可愛がっている。
無論、血の繋がりを理解し、実の妹としての範疇だ。そこは安心してくれて良い。
その可愛がっている奏に小和泉が手を出した事実を知れば、恐らく怒鳴り込んでくるだろう。
小和泉。その時は、兄の対応を頼むぞ。精々殺されぬ様に気を付けてくれ。
奏を結婚前に寡婦にするわけにはいかないからな。
いや、違うか。兄を殺さぬ様に注意してくれと言うべきだな。くくく。」
白河は、これから起こるかもしれない未来に対し、含み笑いをした。
―ええ、白河少佐って、本当はこんな性格だったのかい。知らなかったよ。無表情、冷淡、冷血だと思っていたけど、あれは仕事用の表情だったんだね。
まあ、この人も十分、妹好きだよね。そうじゃないとこの場に来ないし、朝からおやっさんと僕を取っちめたりしないよね。なるほど、菱村の家が、はた迷惑な家系だということは分かったよ。
おやっさんは、部下の命の為なら上官を嵌めることも厭わない。
長男は、極度の妹好き。
次男は、冷徹冷血の鬼憲兵と思いきや、面白ければ後のことはどうでも良い。
長女は、燃えた恋路に猪突猛進。
まともなのはいないのかい。その家系に僕の血を混ぜるのは危険だよね。本当にいいのかな。
菱村の家の総意ならいいのか。なんだか普通の結婚より面倒そうだなあ。やっぱり、逃げたいなあ。―
等と考えているが、表情には一切出さない。発覚すれば、面倒な事態になるからだ。
「これで疑問は解けたかな。義理の弟君。これからは更に濃い付き合いをしていこう。公私ともにな。」
この血縁関係を予想していなかった小和泉は、呆気にとられ瞬間的に無防備になった。その隙を白河に突かれ、気が付けば握手を交わしていた。珍しいことだった。
「えっ、兄と妹。あちゃぁ。憲兵の妹を手籠めにしたのか。危険人物に手を出しちゃったんだなあ。
まあいいか。欲しくなったのだから仕方がないよね。それに悪いようには全くしていないし、後悔もしてないし。では、兄さん、よろしく。」
小和泉は、強い衝撃からさっさと立ち直り、すでに前向きに歩み出した。
過去は変えられない。無かったことにもしない。日々後悔せず、自由に生きるのが小和泉だ。
小和泉は握手を強く握り返し、逆に笑顔を返した。
「相変わらず、根性だけは座っているな。普通は詫びの一つもいれるものだろう。狂犬。」
「僕は何も悪いことをしていないよ。奏も幸せだって言っているしね。」
「さっそく、話し方も砕けるか。そんな性格だから、私は錬太郎を気に入っているのかもしれんな。だが、一般人には通用せんぞ。狂人にしか見えん。」
「自覚していますよ。状況がはっきりしたから、気が抜けたのかな。」
小和泉は、桔梗が入れてくれたコーヒーに口を付ける。小和泉の好み通りの角砂糖を一個だけ入れた苦みが少し和らいだいつもの味だった。小和泉に平常心が戻っていく。
「僕は覚悟を決めたよ。式の準備を進め、全て整い次第、籍を入れようね。」
「本当に。信じて良いの。嘘じゃないよね。でも、錬太郎。桔梗達はどうするの。」
奏の口から自分の名前が出され、桔梗の身体が軽く震える。
「僕の勝手だけど、彼女達も妻にするよ。籍に入れることができるのは、法律上、奏だけになるけれど同じ様に愛したい。完全に僕の都合だよね。最低な意見を言っている自覚もあるよ。
だけどね。僕の懐は、どうやら広すぎるみたいだよ。奏、桔梗、鈴蘭を抱きしめることで丁度埋まる様だよ。」
「ほう。奏だけでは飽き足らぬと言うか。この痴れ者が。本気で言っているのだろうな。今すぐ発言を撤回するならば、聞かなかったことにしよう。」
白河が小和泉の目を覗き込む。真剣度を計っている様だ。無論、小和泉は本音で話している。
「偽りのない言葉で、本心ですよ。」
「では、桔梗はどうなのだ。こんなふざけた提案を飲むのか。」
ずっと俯き、沈黙を保っていた桔梗は顔を上げた。
「錬太郎様が愛して下るのであれば、どの様な形も問いません。私達の寿命が来るまで一緒に居させて下さい。それが私と鈴蘭の願いです。」
桔梗の右目から大粒の涙が一粒零れ落ちる。
「ええい、くそ。私一人が悪者のようではないか。私の常識がおかしいのか。
くそ、どこかの偉人が、常識は真理ではなく偏見の集合体とか言っていたか。ああ面倒な。
四人が納得し、それで幸福になるのならば、私は口を噤もう。
では、式は一ヶ月以内に実施しろ。その計画書を三日以内に出してくれるか。
奏。計画書の作成は得意だろ。それを親父に提出しろ。」
「市之丞兄様、なぜ一ヶ月なのですか。準備はじっくりとするものではないのですか。」
「期限を定めねば、錬太郎が逃げるだろう。さっさと周りを固めてしまえ。」
「はい、わかりました。では皆で相談して準備を進めます。」
「では、私は帰る。錬太郎、逃がさんからな。逃げれば憲兵隊の全力を思い知ってもらおう。」
白河は小和泉を指差すと、憲兵らしくキビキビとした態度で立ち上がり、玄関へ向かい外へと出ていった。
桔梗は、すぐに鈴蘭へ情報端末にて口頭にて連絡をし、小和泉の私室へ来るように言った。
どうやら、今から打ち合わせを女性陣は始める様だった。
―僕は、婚姻届に署名をするだけで充分だけど、女の子たちは納得しないよね。まぁ、好きにさせるさ。一生に一度のことだろうし、今を楽しんでもらおうかな。―
小和泉は、すでに盛り上がりつつある東條寺と桔梗の二人を見つつ、コーヒーを啜った。
呼び出された鈴蘭は、数分で小和泉の部屋に現れた。どうやら士官寮の一階の食堂で待機していたらしい。
―気になるのであれば、一緒に話し合いに参加すれば良いのにね。乙女心は難しいね。―
女三人となった今、計画の立案に小和泉の部屋の情報端末が忙しく稼動していた。
様々な資料を読み込み、次々に様々な花嫁衣装の画像を映し出す。
―あちゃあ、三人共舞い上がっているね。軍の場合、礼装を着用するのだけど、まあ、いいか。結婚式の方法までは、法律で決まっている訳じゃないしね。好きにしてくれていいよ。―
今日の夜は長くなりそうだ。しかし、小和泉の楽しみが入る余地は無さそうであった。




