266.撤退不可
二二〇三年六月二十八日 〇九一八 KYT 第八大隊 大隊長室
小和泉は大隊長室の扉の前に立ち、脇に設置されている呼び鈴を鳴らすとマイクに向かい、話しかけた。
「小和泉大尉、出頭命令に従い、参りました。」
「入れ。」
スピーカーから菱村の声が流れると、扉の鍵が解除される機械音がした。
小和泉は普段通りの気軽な気持ちで扉を開け、部屋に入った。怒られることには慣れている。いまさら緊張したり畏縮したりするはずがなかった。
「小和泉大尉、出頭命令に従い、只今出頭致しました。」
手先まで確り伸びた美しい敬礼を披露したあと、気を付けに移行し、その姿勢を保つ。
普段は、だらしない小和泉ではあるが、状況は読める。面倒事は起こせない。
姿勢を正したまま、静かに菱村の反応を待つことにした。
大隊長室は、相変わらず質素だった。質実剛健を体現した簡素で華やかさが全く無い部屋であった。
絵や花も無く、四字熟語の類も壁に飾られていない。
事務机。事務椅子。情報端末。折り畳み椅子数脚。以上がこの部屋を構成する家具であった。
仕事に必要な物以外の存在は、視界には見当たらなかった。
折り畳み椅子は、来客や副長が使用するのであろう。今は全て畳まられ、壁際に重ねられている。
清掃や整理整頓は部下が当番制で行なっている為、塵一つ無い。
正面の事務机に略服を着た菱村が座り、不機嫌そうにこちらを見ている。
いつもと違うのは、菱村の背後には副長ではなく、どこかで見たことがある青年が代わりに立っていた。こちらも小和泉と同じく略服を着ている。階級章は少佐であった。
この部屋には、この三人しかいなかった。
その青年は中肉中背。特徴らしいものはない。意図的に記憶に残らない様にしているのだろうか。
顔を見ている内に、ようやく、好みの男や親交の深い男以外に記憶に残らない小和泉でも、この男の正体を思い出した。
―あ、思い出した。白河少佐だ。そうそう、あの憲兵さんじゃないか。何度お世話になったことやら。ここのところは、憲兵隊のお世話になってないなあ。僕も大人になったものだねえ。
はてさて。何か、僕、やらかしたかな。う~ん。憲兵隊のお世話になる様な心当たりがないなあ。―
と、最近の自分の行動を振り返るが、軍規や法律に違反する行動は思い出せなかった。
―そう言えば、馬鹿をしなくなったのは、菜花が居なくなってからか。やれやれ、痛い目を見て初めて素行を正すなんて馬鹿だよね。あの時も戦闘を楽しまずにいれば、菜花を失うことは無かったのだろうか。―
小和泉は、菜花の満面の笑顔と全身が筋肉で引き締まった体を思い出す。もう、思い出の中の存在となり、手に触れることも声を聞くこともできない。
だが、小和泉は反省しているが、後悔はしていない。後悔は、何も生み出さない。
菜花の為にもこの戦争を生き残るのだ。
小和泉は、自意識に埋もれ過ぎたことに気付き、回想から現実に引き戻した。
―あれ、今は、憲兵を表す黒いタスキを身に付けていないね。どうりでなかなか思い出せなかったわけだよ。
なるほどねえ。普段、憲兵は黒いタスキを身に付けることで、意識をそちらに集中させて顔を覚えさせないんだね。よく考えられているね。タスキにはそういう意味もあったのか。
でも、僕を拘束するなら部下を連れて来るよね。でも一人ということは、憲兵としてこの場に居るのではないのかな。だからタスキを外しているのかな。
単純に憲兵隊が動いていることを知られたくないから外していると考えた方が良いのかな。
あ~あ。判断材料が何も無いよね。何事か全く分からなくなっちゃったよ。鹿賀山か桔梗なら何かわかったのかな。―
小和泉が判断を迷う中、菱村も何か迷っている様だった。
事務机に両肘をつき、両手の指を絡ませては離しを幾度と繰り返している。
話すタイミングを計っているのか、切り出し方を迷っているのだろうか。
―嫌な予感しかしない。―
小和泉の背中に一筋の冷汗が流れた。
数分待たされ、ようやく指の動きが止まった。
「おい、狂犬。いつまで待たせるんでい。」
それが菱村の第一声だった。その声には苛立ちが混じっていた。
―待っていたのは僕なのだけど、それを指摘すると怒るよね。黙っていようね。―
と、心の内を外へは出さない。
「おやっさん。何のことですか。仕事の締めきりが過ぎていましたか。」
小和泉は、菱村を待たせるような仕事は受けていない筈だった。もしも待たせているならば、桔梗が教えてくれるはずだ。
「とぼけているのか、忘れているのか、どっちでい。」
「すいません。本当に心当たりがないのですが。」
「ほう、そうかい。うちの娘はその程度のなのか。おい。」
「は、娘って奏のことですよね。仲良くしていますけど。」
菱村と東條寺は、実の親子だ。名字が違うのは、東條寺が妾腹の子供だからだ。
ちなみに菱村には、正妻の他に妾が二人居り、それぞれ各一人ずつ、合計三人の子供が居るらしい。―僕と面識があるのは、奏だけだよね。他の二人とは会ったことはないはずだよね。歳も性別も知らないしね。おやっさんも好き者だよね。―
色を好む点では、小和泉と立場は差ほど変わらない。だが、小和泉は、両刀遣いだったが、菱村は女好きだった。
小和泉は他人にあまり興味がないため、東條寺からその手の話は全く聞き出していない。
風の噂で知っていただけだ。
「奏と仲良くしていることは、よ~く知っている。この前も数日、士官寮に帰って来なかったからな。折角、労ってやろうと寮に行っても居やがらねえ。無駄足だったぜ。こんちくしょう。挙句に実家に来たのは昨日だ。それも日帰りで、半日だけだ。世間話だけで終わりだ。
くそ。親より彼氏の方が重要なのか。」
最後の方は、小和泉にかろうじて聞き取れる声量だった。
―聞かせるつもりは無かったのかな。なら、そこは聞こえなかったことにしよう。―
「仕事で毎日の様に顔を合わせるからでしょう。同じ部隊ですし、他意は無いかと。
ところで宿泊の件は、奏から聞いたのですか。」
小和泉は、菱村に調子を合わせた。
「そんな訳ねえだろう。本人に聞けるか。
狭い地下都市だ。俺の耳に勝手に入って来るんだよ。で、どこまで進んでいるでい。はっきりさせろや。」
「え。それは、おやっさんでも聞くのは駄目でしょう。僕は羞恥心が無いので言えますけど、奏が恥ずかしがりますよ。それを話したら怒るのじゃないのかな。多分。」
「そっちの話じゃねえ。それにそんな具体的な話は、親としては聞きたくねえよ。
俺が聞きてえのは、いつ籍を入れるんでい。」
「へっ、せき。えっと、何の話ですか。」
「何時になったら、東條寺奏が小和泉奏になるのか聞いているんだよ。この下衆野郎が。
うちの娘はオモチャかぁ。あぁ。」
菱村が部屋中に響く声で叫ぶ。小和泉の鋭敏な耳にドスの利いた低周波の不快な余韻が残る。
小和泉が撤退すべきかと右足に重心をかけた瞬間、物理的に逃げ道を塞ぐべく、白河が小和泉の背後に回り、出入口を塞いだ。その白河からも殺気が漂い始めている。
白河は、軍務中に殺気を放つことがない冷静さで有名な憲兵である。
余程、腹に据えかねているのだろうか。
小和泉にとって、それを妨害することは容易いことであるが、それを行なえば、悪い旗色がさらに悪化するのだろう。無意識に動こうとした身体を意志力で止めた。
―小和泉奏って何。えっと、口に出したら怒られるよね。さあ考えろ、考えろ。―
どうやら、人生最大の危機らしい。返答如何ではこの部屋を生きて出ることはできないかもしれない。それほどの気迫と気力を二人から感じた。
前門の菱村。後門の白河。
どちらも小和泉にとって扱いが難しい人物だ。どちらも上官であり手を出すことはできない。
菱村にとっては、可愛い一人娘を手籠めにした憎き狂犬。つまり、東條寺の実父である。
白河にとっては、素行不良の営倉常連のはみ出し軍人。小和泉の悪事を知り尽くす憲兵である。
小和泉が、実力行使が出来ない数少ない人物だ。どちらも歯向かい難い人物である。どうやら物理的撤退は許されない包囲網が完成してしまったようだ。
―撤退不可か。まるで、敵戦力と状況の分析もせずに、最前線を手ぶらで散歩をしている気分だよ。―
小和泉の脳が回転を高めていくが、菱村が求める答えは思い浮かばないままであった。




