235.〇三〇六二〇偵察作戦 乾坤一擲
二二〇三年六月二十日 一五四六 OSK下層部 中央交通塔 エレベーターホール
鉄狼は、ようやく錯乱状態を脱し、ゆっくりと立ち上がった。口からだらしなく垂れた大量の涎を左手で乱暴に拭き、小和泉を血走った眼で睨みつける。
そこには、初めて敵意と呼べる憎しみが込められていた。
この短時間で通常の精神状態に戻ったことは、流石に鉄狼だというべきだろうか。
「ようやく本気になったのかい。遅いよ。殺し合いは最初から本気を出さないと駄目だよ。
そんなことだから、右手が使えなくなっちゃたよね。でも、君は使えなくなった右手を守ろうとするのだろうなぁ。
それ、僕なら盾として思う存分使うよ。使い道がそれしかないからね。切られようが、噛まれようが、これ以上悪くはならないからね。割り切りが大事だよ。
その位の覚悟はしないと駄目だよね。それが殺し合いだと思うな。
それにしても、たった一匹で一方的に蹂躙できるなんて、日本軍を舐めているのかな。君の実力だと無理だよ。お仲間は居ないのかな。救援が一切無いね。
とこで、君。人を殺したことが無いよね。というか、今回が初陣だよね。いくら人より早く動け様が、怪力が有ろうが、敵を見失ったら駄目だよ。あと死角を自分で作ったら、だ~め。致命的だよ。
今回は良い勉強になったよね。次に活かそうね。でも、次があるかな。それとも無いのかな。あるといいよね。」
小和泉の言葉を鉄狼は理解していないはずだ。しかし、鉄狼の毛がみるみる逆立っていく。怒りに身を震わせている。
言葉の調子やにじみ出る態度に小和泉の感情を読み取っているのだろう。現に、小和泉も鉄狼の些細な変化から感情や動きを予測している。
鉄狼の怒りは、自分への不甲斐なさか、小和泉への怒りか、それともその両方か。
それを知る術を人類は未だに持っていない。
小和泉は、言葉が通じないにもかかわらず、会話を続ける理由は至極単純であった。
失血死だ。
鉄狼は右腋から心臓の動きに合わせ、切断された動脈から大量の血液を流し続けている。今も身体を伝って鉄狼の足元へ血溜をみるみる広げている。
小和泉が手を下さなくとも、このままショック症状に陥り意識を失うか、心停止をするだろう。
どちらが先になるかは分からない。だが、気絶したところで失血死からは逃れられない。
ゆえに、鉄狼へ近寄る必要は無い。増援が来ないのであれば、止めを急ぐ必要は無い。
作戦はつかず離れずだ。自ら死地に飛び込む必要は無い。
鉄狼から攻撃をする気力があるのであれば、迎撃はもちろん行う。
と言うのも、鉄狼の目が死んでいないからだ。小和泉への殺意に満ち溢れている。
鉄狼は、痛みと出血で意識が朦朧となった中、右足を一歩前へ踏み出す。左手の指を奇麗に揃え、貫手を構える。虚は無い。攻防に虚実を織り交ぜる余力が鉄狼に無いのは明らかだった。
鉄狼の乾坤一擲。この一撃に全てをかけるのだろう。
己の死を受け入れ、小和泉も死の世界に道連れにする気迫。
並々ならぬ鉄狼の意思が貫手に籠められる。初陣の鉄狼であろうともこの攻撃は侮れない。
少しばかり、追い込み過ぎたのかもしれない。
だが、その鉄狼から伝わる張りつめた気合いは、小和泉の血を滾らせる。
敵の強さなど関係ない。強い殺意を全身に浴びることにより、小和泉は、今、生きていることを強く実感させられる。ゆえに直接、強い殺意を浴びせられる格闘戦を好むのであった。
常人から見れば、狂った思考だと言われる。だが、この戦争しかない世界。何かを代償に狂わなければ、生き続けていくことはできない。
地下都市の閉塞感と日々の同じことの繰り返しに精神を磨り潰された人間は、地下都市KYTにたくさん居る。自ら命を絶つか、薬に頼るか、色欲に溺れるか、何かしら自然種は狂っている。
その狂い方の度合いが大きいか小さいかの差異しかない。他人が認識できるかどうかだ。
831小隊では、鹿賀山は軍務に忠実であろうとしている。
東條寺は、小和泉に依存し精神の均衡を保とうとしている。
井守は、精神の安定を欠き、小心者である。
蛇喰は、特に理由が無いにも関わらず、小和泉への敵対心を募らせていく。
その点、小和泉の狂い方は誰の目にもハッキリと認識できた。戦闘狂。暴力を愛するゆえに狂犬。
それがこの戦闘でも表に出ようとしていた。
ちなみに促成種は定期健診のおり、額の情報端子に接続されたケーブルから送られる情報により、精神面の調整がなされる。ゆえに皆、正気を保っていた。
血溜に足を滑らせながら、鉄狼は小和泉との間合いを詰めた。
死にかけとは思えぬ、強い殺意を籠めた鋭い貫手が小和泉の喉を狙う。
小和泉は一歩も動かない。右手に持った十手を大きく引き、突きの体勢で静かに時を待つ。
急激に迫る鉄狼。だが、寸でのところで鉄狼の貫手は、小和泉の少し手前で勢いを失い完全に止まった。
鉄狼は、攻撃を外したことに驚き、戸惑う。口はだらしなく開き、目が泳ぐ。それも一瞬の事だが。
一方、小和泉は敵の勢いを利用し、十手を突き出していた。
十手は、鉄狼の口の中に深々と刺さり、延髄を骨ごと押し潰していた。
刺突の瞬間、九久多知は複合装甲の踵に装備されている滑り止めの杭を床に打ち込み、全ての複合装甲の関節を固定させた。
これにより床に固定された杭へ、鉄狼自ら突撃することにより同じ結果を生み出した。
小和泉は意識も命令もしていない。これまでの習熟訓練による学習から九久多知が思考し、実行したことだった。鉄狼の勢いが失われた時点で複合装甲の固定は解除され、小和泉へ操作権を即座に返還した。
延髄は、主に呼吸機能を司っている。鉄狼は突然の呼吸困難に陥り、酸素を求めて左手で空気を口に入れようと掻きこむ。だが、それは無駄な行為だ。呼吸機能が停止したのだから。
小和泉は反撃を警戒し、十手を手放し、また距離を取った。死地に立ち続ける必要性は無い。
最初の踏み込みで鉄狼の攻撃が届かないことを読み切っていた。足が滑ったことにより、勢いが失われたのだ。それ故に貫手は小和泉の喉に触れぬことなく止まってしまった。ほんの少し足に力が入らなかったことが、お互いの生死の分岐点となった。
鉄狼はゆっくりと床へと崩れ落ちていく。膝立ちになり天井へ左手を伸ばし、空気を懸命に欲する。だが、呼吸はできない。その手段は、既に鉄狼から失われている。
左手を天高く掲げたまま、背中側へと倒れていった。
小和泉はアサルトライフルを構え、床に膝を畳んで仰向け倒れている鉄狼へと照準を合わせる。
口から十手が生える鉄狼の顔面へ光弾を容赦なく連射で叩きこんでいく。
呼吸ができなくとも五分程度は動けるだろう。人間も数分間呼吸を止めたまま行動ができる。
小和泉は油断をしない。必死の敵がどの様な反撃を仕掛けるか予想もできない。
ゆえに、追い打ちをかけることは至極当然のことであった。
何の感情も感慨も浮かばない。生き残ったと言う事実だけを客観的に捉えていた。
光弾を弾いていた毛皮は焦げ始め、徐々に焦げ目から炎上へと変化した。
全ての毛が燃え尽きると皮膚が露出する。まだ、小和泉は引き金を弛めない。連射を続け皮膚を焼いていく。突然、今まであった熱耐性は消え失せ、皮膚は簡単に炭化していく。燃える暇さえ無かった。
毛皮が焼け落ちると筋肉が露わになった。あとは悲惨なものだった。鎧である毛皮が剥された月人は脆い。光弾が筋肉と骨を焼き、砕き、鉄狼の顔を削り取っていく。頭部の前半分が無くなったところで小和泉は連射を止めた。
脳漿は沸騰し湯気が立ち上がっていた。
「ひでえ。」
誰かの声が小隊無線に流れた。その声が無ければ、小和泉は引き金をまだ引き続けていただろう。
誰の目から見ても、鉄狼が死んでいることは明らかだった。
激しい射撃の中、十手だけは元の姿のままで喉に刺さり、破壊されていなかった。頑丈さだけを追求した棒だ。アサルトライフルの攻撃力では破壊されない様に設計されており、それを実証した。
また、小和泉が狂犬であることも再び実証してしまった。




