210.嵐襲来
二二〇三年五月二十日 一三〇四 KYT 深層部 日本軍開発部
小和泉のリハビリという名の実験は、未だに続いていた。
現代医療では、失われた身体機能の回復は容易くなった。それはあくまでも日常生活において支障が無い状態に快復できるものであった。だが、小和泉が立つ戦場は、その様な甘いことは許されない。
己の身体を思惑通りに寸分違わず、誤差なく、時差なく動かすが求められる。
刹那の時が生死を分かつ。頭の位置が一センチ下であれば長剣を躱せた。コンマ五秒早く引鉄を引けば、仲間を助けられた。そんな世界に生きている。
今の小和泉が感じる些細な身体の誤差は、それほど重要な欠点であった。
ゆえに小和泉は多智と別木から指示される面白くもないリハビリとも実験とも分からぬ軍務に文句を言わず専念していた。これは己自身の為でもあり、恋人達を護るために必要なことであったからだ。
東條寺から、831小隊はKYT周辺警戒の任務につき、ケーブル施設作業や探索任務から外されていることを聞いていた。
小和泉と蛇喰の戦力外二名。8311分隊の装甲車一両損耗。激務が続いたこと。日本軍の再編成が進み、他の大隊が通常稼働したことが主な理由だと言う。
本来は長期休暇を与えられてもおかしくない働きを為してきているのだが、防衛力が低下している地下都市KYTにその余裕は無かった。屋上陣地の再構築は完了していない。
831小隊が前線に出されていないことに小和泉は安堵していた。
―案外、僕がリハビリから脱走しない様に配慮されているのかな。最前線に配備されていたら、心配で抜け出したかもしれないからね。ちょいと、これは己惚れかな。―
と考えつつ、指定されたリハビリの動作を行っていた。
試作型複合装甲を装備させられるのかと小和泉は構えていたが、その様なことは無かった。
試作型複合装甲が、今までの複合装甲と違ったのは、遠隔操作が行なえることであった。
小和泉の動作を忠実に再現しようと天井から吊り下げられた無塗装の試作型複合装甲は全身を懸命に動かしていた。
初日はもっさりとした動きであり、小和泉の動きに全く追随できていなかったが、三日目の午前中には、ゆっくりとした動きであれば、小和泉と同じ動作を再現できる様になっていた。多智と別木が調整を繰り返した結果であった。
それでも動作に時間差があり、実戦に耐えるものではなかった。
―日本軍は、遠隔操作の兵器でも作る気かな。こんなオモチャが僕の隊に配備されたら嫌だなぁ。使わずに放置しておくだろうなぁ。―
小和泉は動きを速めてみる。途端に試作型複合装甲の動きが追い付かなくなった。ただ、小和泉が行なった動作は覚えている様で一度も止まることなく、試作型複合装甲が出せる最高速度にて最後までやり遂げた。
「うんうん。いいよ。大尉はこのままリハビリを続けてくれたまえ。この実験機のことは気にしなくても良いからね。こちらが合わせるから、安心したまえ。うんうん。」
研究室の大型情報端末に向かっていた別木は、小和泉が動きを止めたことに対し、リハビリの続行を求めた。ちなみにその隣には多智が小和泉のリハビリを見守っている。
その視線は、完全に実験動物を見るものであった。
―でも、正直、リハビリって面白くないんだよね。ぎこちなさは取れたし、後は地道に筋力を増強させるだけなんだよね。でも、普通のトレーニングだと邪魔な筋肉が付くし、錺流の鍛錬を見せる訳にはいかないし、困ったな。もう、リハビリを終えたいな。―
リハビリをなかなか再開しない小和泉を見て、多智が行動を起こした。
「ふむ。分かった。そういうことか。お前、飽きたのだな。では、リハビリが捗る様にしてやろう。しばし待て。」
多智はそう言うと大型情報端末から受話器を持ち上げ、どこかと通話を始めた。小和泉が言葉を挟む余裕を与えなかった。
「多智です。はい、そちらの要望を受け入れる準備ができました。いつから。え、今。はい、わかりました。よろしいのですか。ご都合は。大丈夫と。では、その様に。はい、すぐに手配します。よろしくお願いします。」
と言って多智は受話器を置いた。少しばかり額に汗が浮かんでいる様だ。冷静な多智が相手の勢いに圧されていた。
受話器の向こうの声は聞こえなかったが、話し方から多智が敬意を払う人間の様であった。多智が、ですます調の話し方をする人間は限られている。
「ねえ、多智。今の通信は何かな。これから何が起きるのかな。」
「問題無い。リハビリに変化をつけるだけだ。小和泉は今のうちに昼休憩に入ってくれ。」
多智はそう言うと試作型複合装甲のもとへと歩み寄った。これ以上、小和泉と会話をするつもりは無いという意思表示なのだろう。
小和泉は会話を諦め、昼食を摂るべく部屋の片隅に設えられた長机とパイプ椅子が置かれた臨時の休憩所に向かった。
二二〇三年五月二十日 一三四四 KYT 深層部 日本軍開発部
嵐は突然起こった。この時、小和泉は戦闘予報よりも未来予報の必要性を心から望んだ。
未来予報があれば、仮病を使ってでもこの研究室からの避難を試みたであろう。
小和泉が、自動調理機から取り出した幕の内弁当を食べ終わり、食後のコーヒーを楽しんでいた。もちろん天然物ではなく、合成品である。味も薫りも化学物質で再現された紛い物だ。だが、天然物を知らない世代である小和泉にとって、本物であることに変わりは無かった。そんな寛ぎの一時に嵐はやって来た。
研究室の扉が開くと同時にそれは真っ直ぐに小和泉へと突っ込んで来る。
人間が走る速度よりもやや早く、足運びも体幹もぶれず、障害物をものともせず小和泉を一瞬で両手で抱き締め、ガッチリと捕縛した。
小和泉は避けることも取り押さえることもできた。だが、それを実行すれば後が面倒になることは確実であった。ゆえにされるがままに受け止めざるを得なかった。
床に押し倒されそうになったが、それだけは耐えた。この相手と一緒に寝ころぶのは危険のフルコースだ。
「錬ちゃん。錬ちゃん。怪我は大丈夫。やっと会えたね。寂しかったでしょう。お見舞いに行きたかったけど、薫子ちゃんに止められていたの。ゴメンね。姉様がちゃんと面倒見てあげるから安心してね。」
嵐の根源は、やや吊り目の狐顔の美女だった。身体の凹凸にメリハリがあり、惜しげも無く小和泉の引き締まった胸に柔らかな双丘を押し当てる。今日は、長い黒髪を頭頂部で丸めて固め、水色の看護服を着用していた。しかし、その看護服には実用性が一切感じられなかった。
ズボンが主流である現代において珍しいワンピースタイプの物であった。胸元は大きく開き、さらにスカート部分だけが極端に短く、太腿の半分も隠せていなかった。
旧世代の看護服、いや妄想上の模造品だった。この様な服を着る人間は、小和泉の周囲では、いや、地下都市KYTでは、一人しかいない。
「姉弟子、離れて下さい。傷口が痛みます。せめて力を抜いて下さい。」
小和泉を抱きしめる美女の正体は、金芳流空手道の師範代であり、幼馴染でもあり、義姉同然でもある二社谷 亜沙美だった。
二社谷のことは嫌いではない。どちらかと言えば、好きな人物である。ただ、極端に近い距離感、いや密着というべきだろうか。このベタベタされるのが苦手なのだ。
もう一つ困る事は、踏んではいけない地雷、触れてはならない逆鱗が幾つもあることだ。
付き合いが深い小和泉にすら、その全容を把握できていなかった。地雷や逆鱗に触れ、手足を折られたことが今までに何度あっただろうか。
ところが、東條寺は、地雷も逆鱗にも触れた事がなく、二社谷に可愛がられていた。小和泉には不思議であった。
今回は、看護師のコスプレにての登場だった。ちなみに二社谷の衣装は全て手作りである。資源が少ない地下都市において、需要の無い物は一切生産されないためだ。
さすがの小和泉も二社谷へ無碍な態度を取るわけにはいかなかった。小和泉の頭が上がらぬ人物なのだ。
「いや。姉様と呼んでくれなきゃダメ。もっと力を入れちゃうぞ。」
二社谷は小和泉を抱きしめる腕に力を籠める。二社谷は完全に小和泉の両手を後ろ手に関節を極めた状態であり、抜け出す余地は無く、傷めている筋組織が悲鳴を上げ始める。
「痛いです。姉弟子、力を、力を抜いて下さい。」
「だぁめ。ね・え・さ・ま。はい、言って。」
甘い声で小和泉の耳に囁く。だが、腕の力は増していく一方だった。
「姉様。会えて、うれしいです。」
小和泉は、何とか言葉を吐き出す。すぐに力が弱まり、小和泉の全身を撫で始めた。
「あらあら。思ったより筋肉が薄くなってないのね。これなら、いっぱい楽しめそうね。」
二社谷が小和泉の全身をまさぐり、上唇を軽く舐め、不穏当な発言をする。
「姉様。まだ、身体の動きが思考と一致しません。お手柔らかに。」
「大丈夫よ。ちゃんと錬ちゃんの動きに合わせてあげる。」
「姉弟子。そこは治療されていません。触らないで。クゥッ。」
二社谷の手が胸元から下半身へと伸び、小和泉の分身を野戦服の上から掴んだ。体中に電気信号的な激痛が広がっていく。
「ね・え・さ・ま。でしょう。」
「はい、姉様。」
力が弛み、激痛から解放された。
「亜沙美さん、そこは簡単にもげます。繋いでいませんから。」
とさらりと多智は告げた。
「あら。薫子ちゃんなら簡単でしょうに。」
「はい。リハビリから逃げないように質草にしました。」
「さすがねぇ。錬ちゃんのことをよく理解しているわ。」
「腐れ縁ですから。では、リハビリを全てお任せしてもよろしいですか。」
「は~い。任せて。ここには当てない様にするわね。」
と二社谷が言うと小和泉の分身をもう一度強く握りしめた。
「クッ。姉様。冗談でも、止めて下さい。かなり痛いです。」
小和泉の額に脂汗が浮き始める。
「あららら。本当に痛そうね。ここにキスしてあげようか。治るかもよ。」
「それは丁重にお断りします。家族にされるのは、勘弁して下さい。」
「もう仕方ないわね。錬ちゃんの為に、全てのお仕事はキャンセルして来たわ。さぁ、いっぱい楽しみましょう。」
二社谷は、小和泉から距離を取り、軽く柔軟体操を始めた。その隙に小和泉は多智へと恨みがましい視線を送った。
「多智。はめたよね。」
「小和泉がヤル気を出さないのが悪いのだよ。」
多智は、これから行われる虐待的行為に対し、楽しむ様な笑顔を浮かべている。
―あぁ。意図的行動かぁ。嵌められたよ。―
「錬ちゃん。さあ始めるわよ。」
三日目の午後のリハビリは、嵐襲来から始まった。




