209.嫌な予感しかしない
二二〇三年五月十四日 〇九三一 KYT 深層部 日本軍開発部
小和泉は、看護師の介助のもと野戦服に着替えさせられ、車椅子に乗せられた。
東條寺達は、今日は来ていない。軍務に就いているためだ。その代わり、多智が立ち会っていた。
ちなみに鹿賀山を始め、第八大隊の士官達は小和泉が育成筒に入っている間に交代でお見舞いに来てくれていたそうだ。兵士達もお見舞いを希望する者が多く居たそうだが、病院に大人数が押し掛ける訳に行かず自粛したと、桔梗から聞いていた。
存外、人望がある事に小和泉は違和感があった。
違和感の理由は単純だった。小和泉は己の趣味で月人を殺し、嬲り、楽しんだだけなのだ。自分の部下であり恋人を守る以外の行動を軍務以外でとった記憶は無かった。
狂犬と呼ばれる程、悪行が目立つ人間だ。しかし、目の前の死を覚悟した時に颯爽と現れる狂犬が月人を討ち倒せば、感謝するのは自明の理であった。
それにより、兵士達は直接的に命を助けられ、士官達も戦線の維持が容易になった。
小和泉が全く意図していない処で、第八大隊に大きく貢献していた。
二週間も身体を動かしていなかった為か、筋力は若干衰え、関節の動きが鈍かった。
今、最前線に立っても狂犬と呼ばれる働きは難しいだろう。
だが、自力で歩くことはできる。車椅子に乗せられるのは大袈裟の様に感じた。
―やはり、日々の鍛錬は必要だね。ちょっと休むともうこれだよ。自分の意識と身体の動きにズレがあるよね。日常生活なら影響無いだろうけど、戦闘では致命的だね。
今、姉弟子が組手を仕掛けて来たら、あっさり負けちゃうなぁ。誇張抜きで殺されるかもね。―
退廃的なイメージがある小和泉ではあるが、錺流武術に関しては毎日の鍛錬を欠かしたことが無かったのだ。それは最前線の塹壕や装甲車の狭い車内であっても、その場で可能な鍛錬を続けていた。
看護師を下がらせ、車椅子を押すのは、主治医の多智であった。
リハビリならば、看護師や理学療法士でも問題無いはずなのだが、多智は病室を出ると、リハビリ室とは違う方向へ向かっていた。
わざわざ小和泉を車椅子に乗せて多智が押す時点で、悪巧みの香りが立ち上ってくるのを、ヒシヒシと感じていた。
小和泉達は、軍立病院の外に出た。玄関前には車椅子車載用の車が用意され、その中に押し込まれた。前席と後席は、白い壁によって物理的に仕切られ、窓も無く外の様子を窺う術は無かった。
「多智さんや。僕をどこに連れて行くのかな。リハビリをするのに、ちょいと大袈裟じゃないかな。それにリハビリの計画もまだ聞いていないよ。」
化粧気が無い、すっぴん美人の多智の目を覗き込む。
その目は寝不足を表していたが、疲労は無く、これから起こることに興奮している様であった。まるで明日のデートが楽しみで、興奮して夜も眠れず朝を迎えた少女の様であった。
「計画は臨機応変だ。お前の回復力は予測できん。状況に応じて変更していく。あと、専用のオモチャ。いや、お前の為の。これも違うな。あれに失礼だな。
小和泉を支える大事な者が待っている。それを使える様にリハビリを行う。楽しみにしておけ。」
そう言うと、小和泉の質問には応じず、沈黙を守り続けた。しかし、あまり感情が大きく揺るがない多智の目は笑っている。
―嫌な予感しかしない。―
小和泉は、嘆息すると大人しく状況に流されることにした。分身を質草にされている小和泉に拒否権は一切無いのだ。
しばしの移動後、車から降ろされた場所は、以前来たことがある深層部の日本軍開発部のエレベーターホールだった。
小和泉と多智をエレベーターホールに残すと車は、エレベーターに乗って上層部へと戻ってしまった。
多智は、車椅子を研究区画へと押していく。隔壁横の端末に掌をかざすと隔壁は開いた。―静脈認証かな。ということは、多智はここの常連さんですか。あぁ、嫌な予感しかしない。帰りたい。―
小和泉の思いは考慮の対象外とされ、車椅子は通路をドンドン先へと進んで行った。
研究室の一つの扉の前で立ち止まり、先程と同じ様に扉の横の端末に多智は手をかざした。
扉は左右に開いた。そこに広がる空間を小和泉は知っていた。
以前、ブロックを組み合わせた擬似塹壕が設置され、塹壕における格闘戦のデータ収集が行われた研究室だった。その時の擬似塹壕もそのまま残されていた。
そして、小和泉を出迎えたのは、この部屋の主であった。
「うんうん。大怪我をしたと聞いたけど元気そうだね。多智君の治療のおかげかな。うんうん。どこまで動けるか、楽しみだね。」
満面の笑みを浮かべて、小和泉を迎える白衣の五十代の男とその助手四人が立っていた。
低身長に丸みを帯びた身体から延びる細い手足。そして、今は小和泉とお揃いのスキンヘッド。
この研究室の主である別木志朗室長だった。
「お久しぶりです。別木室長。再び、お会い出来るとは思ってもおりませんでした。」
小和泉にも一般常識はある。この程度の挨拶はできる。相手に敵意が無い時だけだが。
「ところでリハビリに連れて来られたはずなのですが、ここで行うのでしょうか。」
「うんうん、そうだよ。何かな。多智君。彼には、何も説明していないのかね。」
「はい、必要ありません。実行するだけです。」
「実行するだけ。素晴らしい。うんうん。まさしくその通り。
小和泉大尉が実行するのみ。多智君の言う通りだよ。
この様な単純な理論に気が付かないとは、僕は研究者として未熟だね。多智君の発想は素晴らしいよ。うんうん。僕ももっと精進しないとね。」
「いえ、この男には説明が不要なだけです。他の者だと不安が勝り、実行は不可能でしょうが、こいつには、その様な繊細な心はありません。」
「えぇ。僕って繊細だよ。その言葉に傷ついたよ。その胸で泣かせておくれよ。」
小和泉は両手を広げて、多智の胸に飛び込もうとする。小和泉の頭を右手で鷲掴みし、多智は止めた。無論、小和泉が実力の少しでも出せば、多智を押し倒すことは造作も無い。お約束のコミュニケーションだった。
「こういう男です。説明する手間は不要です。」
「うんうん。なるほど、なるほど、理解したよ。いやぁ、その視点は僕には持ちえなかったね。今日はなんと素晴らしい日なのだろう。午前中だけで新しい発見を二つもしてしまった。僕は幸せものだね。ならば、早速始められるね。うんうん。」
小和泉は、野戦服の上に関節を守るプロテクターを装着され、さらに転倒時の保護用として半帽のヘルメットを被らされ、リハビリを開始した。
手すりの間を歩かされたり、階段を上り下りしたりなど、特に変わった施術は無かった。
異様だったのは、端末の前に座る別木と助手達の反応だった。
「先生、今の設定では、百位が過剰ではないでしょうか。」
「うんうん。では一段階下げてみましょう。」
「百位、安定しました。ですが、十位の反応が低下しました。」
「では、十位を一段階上げて下さい。」
「十位の反応変化なし。低位のままです。」
「もう一段階上げなさい。」
「十位、安定。全位、安定しました。」
「うんうん。では、観察です。些細な変化も報告して下さいね。」
「はい、先生。」
と、小和泉が聞いても何を言っているのか、全く理解できなかった。小和泉自身は、歩いたり、昇ったり、降りたりを繰り返しているだけだ。
助手達が数値を変化させても、小和泉に何の変化も刺激も無かった。
―いったい、僕は何の実験をさせられているのかな。聞いても答えてくれないだろうな。ここは機密区画だよね。これって僕のリハビリじゃないよね。人体実験の様な気がしてきたよ。
あれこれ聞くと面倒になりそうだな。さっさと終わらせるのが、良さそうだね。―
小和泉は説明を求めるのも放棄し、別木や多智の指示に淡々と従った。
二二〇三年五月十七日 〇九〇五 KYT 深層部 日本軍開発部
車椅子をリハビリ初日で卒業した小和泉が研究室に訪れると大きな変化があった。
部屋の片隅に複合装甲が床から三十センチの空中に天井から鉄骨にて吊るされていた。鉄骨は背中に固定され、関節部分の駆動を阻害しない様に考慮されていた。
複合装甲には荒野迷彩が施されておらず、セラミックスの薄茶がかった白色の無塗装のままであった。数十本に及ぶケーブルが、ヘルメットや背中の装甲から延び、別木達が使う大型情報端末へと繋がっていた。
目の前の複合装甲は、制式採用されている物と大きく違った。
全体の装甲が薄くなり全体的にやや細い。その分、関節の可動域が広がり、人間の動きを正確に再現できそうであった。
ヘルメットには、カメラとセンサーが幾つも増設され、情報処理系が強化されているのだろうか。
もっとも大きく違うのは、背中の部分であった。肩甲骨の間の部分に瘤の様な大きな膨らみがあった。極力、出っ張りを抑えている為、装甲車の座席の背もたれに干渉しない様に配慮はされていた。
小和泉は、これは何かと聞こうと口を開きかけたが、すぐに口を閉じた。
―危ない。こういう物は見なかったことにすべきだよね。新兵器の開発とかに関わらせるなんて聞いてないよ。リハビリじゃなくて、試験要員じゃないか。多智の奴に騙されたな。というか、多智も守秘義務があるから言えなかっただけかな。あぁ、嫌な予感しかしない。―
小和泉は、これから行われるであろうことに気が滅入るばかりであった。
「人肌が恋しいよ。」




