207.多智のおしごと
二二〇三年四月二十九日 二二〇五 KYT 促成種育成機関(通称 研究所)
ポニーテールを丸く固めたシニヨンの髪型の若い女性がその部屋の背もたれが頭まであり、肘掛がついた椅子に座っていた。歳の頃は二十歳前後であろうか。
化粧もせず、白いカッターシャツに黒のチノパン、黒のスニーカーを履いていた。カッターシャツの胸の膨らみ方から下着は着けていないようであった。
その女性はお洒落には興味が無く、化粧は外見を取り繕う面倒な作業でしかなかった。
それでも己の才覚に対する自信に満ち溢れた立ち居振る舞いは、彼女を美しく輝かせていた。その態度は嫌味を感じさせず、周囲に憧れを抱かせるものであった。
部屋の中央に研究用の大きな袖付机と長時間座っても疲れず、同時に仮眠ができる大きい背もたれの椅子が置かれていた。
壁の一面には、外部ネットワークに接続できない機密情報を蓄積する為の巨大な情報機器が占有し、時折、赤、青、緑の光を明滅させていた。
大机の前には、申し訳なさそうに来訪者用の長机とパイプ椅子が数脚置かれていた。
座り心地が悪い椅子が置かれているのは、来訪者に早く帰らせる為だった。
その他にも事務机と事務椅子が乱数的に幾つか置かれていた。これらは助手達の机なのだが、助手達が気に入った場所に机を置くため、向きはバラバラであった。仕事の効率に影響しない限り、そのことに彼女は口を出すことは無かった。彼女自分の空間が大切であり、それを浸食されなければ問題無かった。
別の壁には自動調理機が置かれ、軽食や飲み物を取り出すことができた。
また部屋の片隅には、四角く背の高いコンテナが置かれていた。シャワーとトイレがセットになったユニットバスであった。
既に帰った助手達が、部屋の掃除や自動調理機の補充も行なってくれている。
つまり、この部屋から一歩も出ることなく生活することが可能であり、全ての時間を研究に捧げることが出来る環境が整っていた。事実、彼女がこの部屋を自発的に出る時は、研究に一区切りがついた時か医者として仕事をする時くらいだった。
目の前に広がる部屋は、日本軍が彼女へ与えた研究室だった。
彼女の名前は、多智薫子。鹿賀山の幼馴染であり、婚約者である。そして小和泉の友人でもあり、主治医であった。
多智は、今回の研究の最終確認を行っていた。この計画が済めば、久しぶりに休暇を取るつもりであった。婚約者が小隊再編成の為、しばらくは内勤であると聞き及んでいる。たまにはデートでもしてやろうかという気分であった。
多智は、机に鎮座する大型情報端末から目を上げた。私物である携帯端末が、メッセージの着信を告げたのである。カッターシャツの胸ポケットから端末を取り出し、画面を確認した。
送信者は鹿賀山であった。鹿賀山は毎日のようにメッセージを送ってくる。
前線に出ていようが、内勤であろうが関係なかった。夕方から深夜にかけて送ってくる。恐らく、仕事の切れ目か終業時に送信してくるのだろう。
情報端末を手に取り、メッセージを表示させる。ちなみに待ち受け画面は、初期設定のままだ。そこに凝る様な時間があれば、研究に時間を割く方が有意義だと考えていた。
薫子へ
自分は心身共に健康だ。
研究に根を詰めぬ様に。
清和
内容は、毎回ほぼ同じであり、まるで業務連絡の様だった。
それでも先程まで眉間に皺をよせ悩んでいた多智の顔は喜びに綻んでいた。
「たまには、愛を語ってくれても良いのだぞ。」
手にした携帯端末へ語り掛ける。いつのまにかメッセージの画面を切り替え、そこには鹿賀山と多智と小和泉の三人の画像へと変わっていた。数年前の士官学校卒業時の画像だった。鹿賀山の顔を拡大させる。
「研究室に遊びに来ても良いのだぞ。ならば、褒美に接吻でも。」
鹿賀山の顔を軽く指で弾いた。
「今のは嘘だ。忘れるが良い。そもそも、ここは部外者立入禁止区画であったな。」
携帯端末に対し、一人芝居をする年相応の娘らしい多智の姿がそこにあった。助手達が知らない多智の一面だった。
鹿賀山へ
変わりなし。
御身を大事に。
薫子
多智の返信もほぼ定型文だった。
二人はこのメッセージのやり取りだけで繋がっていた。
多智は、鹿賀山清和少佐の婚約者となって数年経過している。仕事がお互い忙しく、顔を合わせることは年に数回しかない。
例外は、小和泉が大怪我をした場合だった。治療時に鹿賀山が付き添ってくるため、その時に顔を合わすことがあった。その様な状況が年に一度有るか無いかの話ではあるが。
周囲からは、二十歳を過ぎたのでそろそろ籍だけでも入れてはどうかと勧められている。そうすれば、顔を合わせる機会がもっと増えるとか、お互いの愛情が深まるとか、様々な事を言われる。
だが、多智にとって今の環境が研究に打ち込める最高の状況であった。
一人暮らしのため、生活のリズムは自分の気分次第だ。
研究職である為、働きたい時に働き、睡眠が必要な時に眠る。昼夜は問わない。固定された就業時間も無い。
良い考えが浮かべば、深夜であろうとも関係なく働き始め、考えに煮詰まり、睡魔が襲えば昼間であろうとも睡眠をとる。この様な自由は、一人暮らしゆえに可能な生活だ。
結婚すれば、お互いの生活習慣の摺り合わせが必要となり、自由度が確実に減ることは明白だった。今は研究が楽しい。
小和泉の様に恋人との共同生活を選択する余裕は無いし、憧れることも無い。
頭脳に格納されている手つかずの数々の研究が実を結べば、結婚について考える余裕もできるのだろう。だが、考察は脳内で並列処理できるのだが、理論の実践は体一つでは足りないのである。多智の知的好奇心を満たすまで長い時間がかかりそうであった。
それを唯一理解してくれる人物が、鹿賀山だった。ゆえに婚約してから数年経過する今も温かく見守ってくれている。
研究所でこの様な自由が許されているのは、研究だけでは無く、医者としても労働する条件が出されていたからであった。
その条件は、多智にとっては緩い条件であり、苦にもならなかった。
<行政府、司法府、日本軍より指定された人物へ時間を問わず外科手術を施術すること。>
それが条件であった。
多智の外科医としての手腕は、地下都市KYTで最高だと言われている。その為、重要人物の生命に関わる外科手術は、多智に依頼されることが多い。
その重要人物の中に小和泉も含まれており、何度も多智は手術を行っていた。
小和泉の人格は歪んでいるが、戦闘能力に関しては総司令部も一目を置いている為だと聞いていた。
鹿賀山という鈴を着けておけば、総司令部の掌から零れ落ちることは無いと判断されている。
ちなみに、鹿賀山への鈴が多智となり、多智への鈴が鹿賀山となっている。為政者からは、三者が互いの人質となると見なされていた。
その様な中、依頼の全てを完全に達成してきたため、己がしたい研究を自由に行うことが許されていた。
その時、机の巨大情報端末へ映像通信が着信した。
多智は慣れた手つきで無造作に通信を繋いだ。髪を直したり、服の乱れを直したりなどしないのだ。外見を繕うことには興味は無い。
モニターに表示されたのは、軍立病院に所属する見慣れた中年の男性外科医の一人だった。名前は覚えていない。研究に必要無いからだ。
「多智博士、夜分に申し訳ありません。一名、緊急手術をお願い致します。日本軍総司令部よりの依頼です。患者はそちらの手術室に搬送中です。」
「分かりました。状況は。」
「中佐殿が頸椎を狼男に背後から噛み砕かれ、意識不明の重体です。」
「中佐の意識を戻すだけで良いのですか。それとも完治させるのですか。」
「総司令部の意向は、意思の疎通が可能になれば良いとのことです。」
「つまり、この士官しか知らない情報を持っており、引き出し終えれば、後の生死は問わないと。」
「いや、その、えぇえぇ。はい、あのう。はぁ、そう言うことです。」
「了解です。上の意向は承った。」
「まもなく、そちらに到着する筈です。助手と憲兵が同行しております。自由に使って良いとのことです。引き継ぎをお願いします。」
「はい、引き継ぎます。」
モニターから外科医の顔が消えた。通信終了と同時に患者の詳細な情報が送られてきた。多智は、送られてきた情報を吟味する。
「意識を戻して話せるだけなら三時間かしら。四肢を動かすには八時間はかかるわね。でも、中を開けたらもっと酷い状況かも。研究内容とは重なる術式になりそうね。さて、実技を試しましょうか。」
そう言うと多智は、椅子から立ち上がり隣にある多智専用の手術室へと向かった。
多智の研究は、脳神経外科及び脳神経内科を主としている。
月人との戦闘による外傷による脳の損傷や神経の切断などに伴う様々な症例に対する治療方法と新たなる神経接続の研究をしている。普段から研究の一環として、兵士達の脳内出血を止め、切断された神経を繋ぐなどの手術を行い、人的資源が少ない人類の戦力を如何に早く回復させ、戦場に復帰させられるかが課題であった。その為、隣室にある専用の手術室にて毎日のように怪我人などの手術を行っていた。
この様に言えば、人道的に聞こえるが、現実は人体実験である。動物実験を行い、安全性を確保する余裕は人類には無い。そもそも動物と人類では、身体の構造が違う。
動物で問題が無くとも、人体では悪影響が起きることもあり得る。ならば、最初から人体にて実験を行えば良いとされていた。
研究時間の節約と救命できる人数が増える可能性があると為政者は、数十年前に考え実行してきた。その様な土壌の中で多智達は医術を学んで来た為、禁忌や忌避を覚えなかった。
手術衣に着替えた多智が手術室で活き活きと動く中、軍立病院から来た助手三人と憲兵二人が立ち会っていた。
患者を俯かせに寝かせ、後頭部から首筋を切り開き、砕けて筋肉や脊髄に潜り込んだ骨を容赦なく、除去していく。首を開いた瞬間、元に戻す気持ちは無くなった。
「これは無理。情報の取り出しを優先します。」
圧迫されていた脊髄と血管を解放し、脳への血流を回復させる。だが、それだけでは脳波は微弱だった。恐らくは意識は戻らないだろう。手遅れだ。
「開頭。大脳へ直接電極を差す。」
多智の一声で助手は既に髪の毛を剃り上げられていた頭へ、日曜大工の様に切り取り線を描き、レーザーで頭蓋骨を切り離す。同時に床へと無色透明の液が滴り落ちた。頭蓋骨を取り外すと薄い桃色の管の様な物が、とぐろを巻く様に詰まっていた。大脳だ。
多智は、ハンディスキャナーにて大脳の表面を丁寧になぞり、反応を示す箇所に電極を遠慮なく刺していく。右脳に四本、左脳に三本刺したところで電極からケーブルで繋がる情報端末へと移動した。
「二時間、もたして。」
助手達に指示を出す。
「わかりました。」
軍立病院から派遣された助手達の為、彼らの腕前は知らないが、ここまでの術式の手際の良さから任せても問題無いと判断した。もっとも役立たずを多智の元に送り込む様なことを上層部はしない。
多智は、接続した電極へ微弱な電気信号を慎重に流していく。
モニターに文字が表示される。
【痛い。痛い。暗い。】
脳波と電気信号が同調したのだ。あとは情報端末が脳波を文字へと自動翻訳してくれる。その表示を確認すると、多智はキーボード入力を行った。
【名前は。】
【中佐の佐藤だ。第二大隊所属。ここはどこだ。暗い。痛い。助けてくれ。】
多智はモニターの表示に満足し、憲兵へと振り返った。
「では、この端末にて会話が可能です。二時間は保証します。記録は、ここの端子に情報媒体を挿して下さい。自動的に記録されます。バックアップは取りませんので、取扱いに注意して下さい。」
「ご協力に感謝します。では、引き継ぎさせて頂きます。」
憲兵の二人は、多智へと敬礼すると時間が惜しいのか、情報媒体を挿しこむと、端末へ猛烈な速度で入力を始めたのであった。
多智は、その場をすぐに離れた。憲兵隊がかかわる事案には近づかないことが賢明だ。
モニターに表示された文字を読むだけでも拘束されるかもしれない。そんな危険を冒す必要は無い。
今は、この患者を二時間もたせれば良いのだ。生かす必要が無ければ、短時間の延命はさほど難しくない。
副反応の強い薬や必ず後遺症が残る薬を遠慮なく、無制限に使用できるからだ。
助手達に生命維持は任せ、多智は今回の大脳調査結果を別の情報端末にてまとめ始める。
「そうね。脳波から意識を読ませるには、今回はこことそこなのね。右脳と左脳で数が違う場合があるというのは新たな発見ね。
脳波一位と百位の違いは、論文通り実証できたわね。ここは問題無し。
あと推察通り、人によって脳の造りは大きく変わる。ここは注意しないと危険ね。」
その端末のモニターには「Expansion Composite Armorに関する考察」と題された論文が表示されていた。著者名は日本軍開発部 別木志朗・KYT司法府 二社谷亜沙美とあった。
その論文に今の手術と呼ぶにも烏滸がましい人体実験の結果を書き足していく。
「うふふ。これで鹿賀山の戦死率を下げられる。私が守るからね。どんな手段を使っても。戦闘予報を覆して見せるわ。」
多智の表情は、昏い使命感に溢れていた。




