206.FKO実証試験 浮航試験開始
二二〇三年四月二十九日 〇三四五 KYT西三十二キロ地点
短い時間の筈だったが、井守の回答が出るまで嫌な考えばかりが次々と浮かぶ苦痛の時間であった。
「鹿賀山少佐、お待たせしました。」
小隊無線に井守の声が響いた。鹿賀山が、待ち望んだ瞬間だった。
「どうか。」
「恐らく、長蛇トンネルだと推定いたします。」
井守の声には、不安がたくさん積み込まれていた。
「推定か。断定ではないのだな。」
「はい、推定であります。」
「ご苦労だった。」
鹿賀山は無線を切り、目をつぶる。普段ならば、長考している場合、東條寺がコーヒーを差し出してくれるのが懐かしい。今は手持無沙汰だ。ほんの数時間前まではそれが当たり前だった。だが、その副官は意識不明。長考する時間は無い。
答えは一つしかなかったのだ。悩む必要は、全く無かったのだ。
背中を押す材料が、誰かの一声が、欲しかっただけなのだ。
「告げる。目前の水路を長蛇トンネルと判断し、遡上する。全隊、我に続け。」
『了解。』
踏ん切りをつけた鹿賀山は、命令を下した。あとは確実にKYTへとたどり着くことを目標にするだけだ。
「愛兵長。水に入れ。慎重にだ。浮航機関を使うのは初めてだからな。」
「了解。水路に入ります。」
愛は装甲車をゆっくりと長蛇トンネルの水路へと進ませる。
水流に流されそうになるが、装甲車のタイヤの裏に幾つも並んだ水かきがしっかりと水を掴む。愛はタイヤの回転数の差を上手く調節し、上流へとあっさりと舳先を向けた。
水路の流れは、見た目よりも強く、装甲車が流れに揉まれ、上下左右に揺らされる。
これは船では無い。乗り心地を期待する方が間違いなのだろう。
「舞曹長、浸水確認。」
「水密確認。浸水ありません。」
「しばらく様子を見る。ゆっくりと進め。」
「了解。微速前進開始。」
鹿賀山が乗る二号車は問題無く、入水し、浮航式装甲車の性能を発揮し始めた。意図しない浮航試験の開始であった。
鹿賀山は端末を操作し、ヘルメットのモニターへ装甲車の後部画像を投影する。後続車の状況を確認する為だ。
8313分隊の三号車は、入水すると水路の流れに押され、右へ九十度回頭した。その後、川上に舳先を向けるも、次は左に行き過ぎ、ようやく上流へと向きを整え、遡上を開始した。
「8313。入水完了。遡上を開始します。」
運転手であるカワズ二等兵は、ようやく水上運転に慣れた様だ。
続いて、8314分隊の四号車が入水を開始した。四号車も三号車と同じく、入水後の挙動が安定しなかった。あさっての方向を向き、一回転してようやく進行方向へと向いた。
「8314。浮航機能に慣れたっす。遡上します。」
オロチ上等兵からようやく進攻可能の連絡が入った。その無線の奥で蛇喰がぶつぶつと文句を言っている様だった。恐らく、他の二人と比べて手際が悪かったことを愚痴っているのであろう。
内容は実際に聞かなくとも、想像が簡単についた。
<何をしているのですか、反応が遅いですよ。>
<他の二人にできることが、何故あなたにはできないのですか。>
<分隊長の私に恥をかかせる気ですか。>
<進行方向に向きを合わせるだけで、どれだけの時間をかけるのです。>
<私は怪我人ですよ。早急に治療の必要があるのです。早く遡上するのです。>
鹿賀山の脳裏に蛇喰の声で再現される。本人は、助言や激励のつもりだろうが、部下への圧力にしかなっていない。これらの言動が、蛇喰の昇進を妨げていた。本人は気づいてもおらず、誰も指摘をしない。自己評価が高い蛇喰へそのことを指摘することは、面倒事に自分から首を突っ込むことに等しいからだ。
この様な言動が無ければ、大尉になっていてもおかしくない能力の持ち主だった。さらに同期である鹿賀山は少佐、小和泉は大尉と大きく階級に差を開けられている。本人は自覚していないが、その事に嫉妬心を抱いていた。
鹿賀山は、運転手三人の優秀さに感心していた。
日本軍初の浮航式装甲車をすぐに手足の様に扱える才能は稀有であり、特に愛の操縦技能が優秀過ぎるのだ。恐らく鹿賀山が運転すれば、未だに進行方向に車体を向けることが出来ないだろう。右や左に翻弄され、下流へと流されていた事だろう。いきなりの本番でその場に留まっていることが奇跡に近いのだ。
「よし、原速まで上げよ。」
船艇用速力にて指示を出す。いわゆる巡航速度である。
ちなみに教本には、停止、微速、半速、原速、強速と書かれていた。
水上は陸上と違い、水の流れもあり、指定速度で走ることが困難である為、浮航機関の出力にて指示をすることになっていた。水上を走る技術は数十年前に廃れている。昔と差異があるのは仕方が無いことであった。
壁面モニターの風景の流れから時速二十キロ前後で航走している様に思われた。速度計はタイヤの回転数から算出しているため、当てにならない。陸上と水中では、タイヤの回転数が全く違うからだ。
―KYTから直線三十二キロ地点であることを考えると、一時間半で戻れるだろうか。何事も無ければだがな。小和泉達の容体に変化が無いことを願おう。―
831小隊は暗闇の長蛇トンネルを進んで行った。
二二〇三年四月二十九日 〇五二二 KYT南西一キロ地点
831小隊は、水路を遡上しKYTへ向かう。装甲車は水流に大きく揺さぶられ、乗り心地は酷い物であった。
―この乗り心地は改善の余地ありだな。報告書に書き加えておこう。訓練で装甲車の無茶な機動を行っていたが故か、乗り物酔いの心配は無いようだ。さて、まもなく長蛇砦に到着する筈だが。―
鹿賀山の読み通り、トンネルの先に明かりが見えた。長蛇トンネルから敵の侵入を阻止する長蛇砦だった。
「隊長。長蛇砦を視認。指示願います。」
舞が鹿賀山に報告を上げる。どうやら井守の読み通り、西日本リニアの本線が長蛇トンネルの正体だった様だ。
「各車、微速まで減速。長蛇砦と連絡をとる。」
鹿賀山は告げると、長蛇砦へと無線を切り替えた。
「こちら831小隊。長蛇砦警備隊応答されたし。任務より帰還した。」
鹿賀山は、日本軍の師団無線にて発信する。日本軍に師団は存在しないが、大隊間を繋ぐ無線を師団無線と呼んでいた。
「こちら長蛇砦守備隊、第二大隊第一中隊だ。距離三〇〇にて停止せよ。総司令部に確認をとる。」
若い女性兵士の声が返ってきた。
「了解。距離三〇〇にて停止し、待機する。」
鹿賀山はそう答えると無線を切った。
「鹿賀山少佐、早く錬太郎様を病院へ。」
背後から桔梗の焦りを感じさせる悲鳴に近い声を聞いた。
「分かっている。だが、無理に近づけば蜂の巣にされるぞ。あと数分耐えてくれ。」
「了解しました。」
桔梗にとって、この水路の最後の数分が、もっともこの作戦中に長く感じる時間だった。
目の前に帰るべき場所があり、病院まですぐなのだ。早急に小和泉と東條寺の二人を入院させたかった。
鹿賀山の予測に反し、連絡は即座に入った。
「こちら総司令部だ。831小隊応答しろ。」
中年男性の声で無線が入った。話し方から総司令部の中でも階級が高い者の様だ。
「こちら831小隊、鹿賀山少佐です。」
「帰還、ご苦労。長蛇砦に話はつけた。着岸を許可する。状況を報告せよ。」
「重体二名。重傷一名。死者はありません。浮航式装甲車一両損失。複合装甲一機損失です。」
「わかった。救急車を一台手配する。移送準備をしておけ。」
「感謝します。」
「装甲車の回収は、総司令部が行なう。貴隊は第八大隊に戻れ。大隊長へ帰還報告し、今後の指示を受けよ。軽傷者は処置室に直行することを許可する。」
「了解しました。指示に従います。」
無線は切れた。
前面の壁面モニターを見ると長蛇砦から一個小隊が現れ、赤い誘導灯を振っている。話をつけたと言うのは、事実の様だった。
「全隊、誘導に従い着岸せよ。小和泉、蛇喰、東條寺は救急車に移送する。付き添いは、桔梗、鈴蘭、クチナワの三名とする。他の者は、着岸後、大隊控室へ向かえ。治療が必要な者は処置室への直行を許可する。」
「8313、了解。」
「8314、了解。」
こうして、831小隊は、KYTへ帰還したのであった。




