203.FKO実証試験 六十秒の攻防
二二〇三年四月二十九日 〇三二六 KYT西三十四キロ地点
小和泉は、久しぶりに鉄狼と対面した。
東條寺を殴り飛ばした鉄狼の顔を正面から見据える。顔に傷は無く、隻眼でもない。心もち幼い様な気がする。
どうやら、小和泉が初めて遭遇し、止めを刺せなかった、いや、命辛々逃げ出した時の鉄狼とは違う個体だった。
鉄狼として、若い個体なのだろうか。人類で言えば、前途有望なエリート士官なのだろう。
東條寺が吹き飛ばされた瞬間、小和泉の血圧は急上昇し、怒りの感情と己の失策に身を焼かれんばかりであった。
だが、感情を自由に操作できる小和泉は即、冷静さを取り戻していた。そして、冷静さを取り戻すのと怒りを失うのとは違う。沸々と湧き上がる怒りは、あえて持続させていた。
―こいつは許さぬ。練習台にも実験台にもしない。遊び無し。禁じ手無し。時間制限は六十秒。手段は問わない。全力で殺す。―
小和泉は、鉄狼の前に棒立ちしている様に見えたが、完全な臨戦態勢であった。
どの様な敵の動きに対応すべく、全身から余計な力を抜いていた。即座に行動を起こせる状態にあった。
小和泉は、愛する女を手に掛けられて、見逃すような性格ではない。報復を必ず行う。
もっともその報復が、即座に実行されるか、念入りな準備の下に実行されるかの差はあった。しかし、今回は選択の余地は無い。即座に報復を実行する選択肢しか残されていない。
鉄狼は、小和泉を見下ろすと口角を上げた。
馬鹿にしているのか。奢っているのか。それとも挑発しているのだろうか。
あの鉄狼ならば、その様に人類を侮ることはなかっただろう。無表情にて不意打ちを行なっただろう。
隙となる余分な動作を小和泉が見逃す訳が無かった。手に持っていたアサルトライフルを下から振り上げ、鉄狼の鼻を銃床で強かに打ちつける。
月人の鼻には獣毛は無い。打撃を吸収する術は無い。数少ない急所の一つだ。
続けて、振り上げたアサルトライフルを全力で振り下ろす。かち上げられた狼男の顔面に再び銃床が落ちる。再び鼻に当たり、今度は赤い鼻血が盛大に舞い散った。
鉄狼は、己の血を見て咆哮する。トンネルの中の空気を震わせ、心が弱い者を怯えさせる。
だが、その咆哮は小和泉には通用しなかった。
「うるさいよ。」
鉄狼の大きく開けられた口へ銃床を叩き込む。鉄狼は、それを強力な顎の力で噛み留めた。強力な打撃にもかかわらず、鉄狼の牙が折れる気配は無かった。
力比べになる前に小和泉はアサルトライフルを放棄し、鉄狼の股間へ右膝蹴りを加える。
その動きを察知した鉄狼は右掌で膝を受け止めた。
だが、小和泉の攻撃は下半身へ注意を逸らす陽動であった。左の正拳突きが鉄狼の右目に加えられる。
鉄狼の意識外から放たれた左正拳突きをした拳に水風船が潰れる様な感触が伝わる。と同時に、複合装甲の指先の関節部から過負荷による異常な摩擦音が発生した。
鉄狼の顔面を複合装甲による殴打が原因だった。複合装甲は防具であって武器では無いのだ。
小和泉のモニターには、複合装甲からの悲鳴の様に黄色の警告表示が幾つか灯る。
それらを無視し、小和泉は動く。
突然の産まれて初めての痛みに鉄狼は、アサルトライフルを口から落として叫び、右目を両手で押さえる。潰した右目からは透明な体液と赤い血が、指の隙間から涙の様に流れ落ちる。
両手を上に掲げたことにより、腋ががら空きになった。腰のコンバットナイフをすかさず鉄狼の左腋を刺し貫く。ここは獣毛が薄く、コンバットナイフでも簡単に貫くことができた。
すかさずコンバットナイフを半回転させて傷口を抉り、さらなる出血を強いる。
再び鉄狼が痛みを告げる咆哮をした。それは己で弱点であると告げるのと同じ行為。小和泉はさらにナイフを半回転させて肉を抉り、奥へと喰い込ませる。
刃先は動脈に届いたらしく、小和泉へと熱く赤い血が勢いよく降りかかる。
小和泉のヘルメットの荒野迷彩を赤黒く染めていく。
痛みに大きく吠え、苦しみぬく鉄狼へ、さらに腰の捻りと回転力を奇麗に乗せた右回し蹴りをコンバットナイフの柄尻に直撃させた。
コンバットナイフが蹴りの衝撃により、深々と鉄狼の腋の中に埋もれていく。持ち手部分までもが完全に身体に埋もれてしまった。
目、腋と二か所を攻撃された鉄狼は、更なる痛みを告げる咆哮を四方に撒き散らす。動かなくなった左手をだらりと力なくぶら下げ、右手で右目を押さえ続ける。あまりにも無防備な姿を小和泉の前に晒していた。今までに出会った鉄狼の中で、これ程無様な敵はいなかった。経験不足だ。戦闘経験が無さすぎた。まるで日本軍の新兵の様だった。
小和泉はさらなる追い打ちをかけたかったが、身体が酸素を要求してきた。
ここまでの一連の流れに呼吸を挟む余地は無かった。無呼吸でこそ流れるように攻撃ができたのだ。酸素を取り入れる為、鉄狼の間合いから油断なく離れる。
ヘルメットのバイザーに付着した視界を遮る返り血を乱暴に拭き取った。
ゆっくりと息を吐きつつ、鉄狼の反撃を警戒する。だが、鉄狼は痛みに動揺し、反撃することも防御することも考えに浮かばなかった様だ。ただただ痛みに耐える為に巨体を縮こませている。
小和泉は、しっかりと息を吐き切る。身体が大量の酸素を早急に求めるが、その求めには応じず、ゆっくりと息を少しずつ長く吸う。
呼吸の切り替え時がもっとも隙ができやすいからだ。
その警戒は、杞憂に終わった。
鉄狼は、未だに攻撃へと転じる余裕が全く無かった。腋の痛みに耐える為、両膝を合わせ内股になり、潰された目を右手で覆い、腋にナイフを埋め込まれた左手は、ただぶらりと下げるだけであった。
あの鉄狼であれば、これらの攻撃は全て防御されていただろう。この若い個体は、力ばかりで戦い方を知らなかった。
鉄狼にも強さの上下があるようだ。この鉄狼は弱い。身体能力が狼男より強いだけだ。これならば、修羅場をくぐってきた狼男や兎女の方が手強い。
だが、今回の真の敵は時間だった。秒読みは四十秒を切っていた。はやく、自分の装甲車に戻らなければいけない。巻き込まれてしまう。ゆえに引き返す途中で邪魔をされる訳にはいかない。
呼吸を整えた小和泉は、地面を這う様な低い姿勢で鉄狼の足元へ飛び込み、一気に立ち上がる。右手に全ての勢いを乗せた掌底が鉄狼の顎先を撃ち抜く。
複合装甲が悲鳴を上げる。設計速度を超え、人工筋肉が引き千切れる音が複合装甲内に響く。掌底を撃ち抜いた直後に篭手部分の関節部分が歪む。モニターに表示されている複合装甲の模式図を赤い警告と黄色い警告が全身を塗り潰していく。
小和泉の身体能力に複合装甲の増幅機構が追い付かないのだ。いや、設計時に考慮されていない動きを行なっている為、その過負荷に耐えられなかったと言うべきだろうか。
今は時間が惜しい。ゆえに背後や側面に回らず、危険な正面から飛び込んだのだ。
小和泉は、警告を一切無視する。時間が惜しい。
掌底により空中に浮いた鉄狼を前蹴りで一号車へ蹴り飛ばす。空中では、踏ん張ることも、躱すことも、耐えることもできない。鉄狼は小和泉の意図通り、一号車の後部装甲へと背中を強かに打ちつけた。
鉄狼が正気を取り戻す前に、小和泉は距離を詰める。複合装甲の増幅機能の働きがかなり鈍い。未装備より少しばかり増幅されるだけであった。だが、それは小和泉の許容範囲内だった。逆にここまで壊れてしまえば、複合装甲を放棄することへの未練は無い。
壊れ掛けの複合装甲であっても、鉄狼の自暴自棄な拳や爪などを躱すのは容易い。
秒読みは、残り二十秒を刻んだ。
小和泉は鉄狼を全力で抱きしめる。鉄狼は小和泉の肩に噛みつき抵抗するが、牙程度は貫通しない。そして、足を装甲車のステップに絡ませ、装甲車に鉄狼を固定した。
「音声認識開始。」
モニター上部に【音声認識中】と表示された。
「関節固定。複合装甲、強制排除。」
複合装甲の関節が固定され、小和泉と複合装甲を繋ぐ結束具が一瞬で解き放たれる。背中の複合装甲が細かな部品となって周囲に舞い散る。
小和泉は蝉の羽化の様に複合装甲の背中から抜け出す。その中を小和泉はバク転の要領で複合装甲から四肢を抜いた。ヘルメットと野戦服だけの姿になった小和泉は、鉄狼を放置すると二号車へと全力で駆け戻った。
抜け殻となった複合装甲に絡みつかれた鉄狼は、力一杯暴れるがその場から抜け出せなかった。
秒読みは残り十秒。
小和泉は、装甲車の前面部を全速力で駆け上がる。今は複合装甲や細々とした装備は廃棄している。ゆえに装甲車に飛び乗っても、負担をかけることは無い。天井ハッチへと滑り落ちながら、ハッチのノブに手をかけて閉め、後部座席へと零れ落ちた。受け身など考える余裕は無かった。




