182.研究室への招待
二二〇三年四月十九日 一九〇九 KYT深層 日本軍開発部
小和泉が呼び出された日本軍開発部は、地下都市KYTの深層にあった。
深層は、研究施設が立ち並ぶ区画であり、関係者以外が立ち寄ることが許されない区画だった。
警備は厳重である筈なのだが、警備員や研究員の姿は全く見なかった。というか人間の姿は無かった。
これは逆手に取った警備方法だった。無人であれば、人が存在するだけで異常であると判断できる。
また、許可を持たぬ者が不用意に研究区画に立ち入ることは不可能だった。唯一の入口は常に真空に保たれ、人間だけでなく細菌等の侵入を拒み、四方より銃撃され、蜂の巣にされるともいう。
もっとも、小和泉が聞いた噂であり真実かどうか分からない。正式な命令を受けた小和泉であれば、何も問題無く開発部に辿り着ける筈だ。
ここでの研究内容は、全く明かされていない。人様には言えない碌でもない研究をしているのだろう。その為、公表できないのだろうと兵士達は考えていた。
小和泉も深層に来るのは初めてだった。
搭乗を指示された日本軍専用車両用エレベーターを降りると、広大なエレベーターホールだった。
噂通り人気は全く無い。かすかに空調の音が聞こえるだけで他の音は存在しない。
複合装甲を着ている小和泉の足音がするはずなのだが、金芳流の足捌きにより足音はしなかった。
ホールは、軍用車両が数台待機できる様になっており、研究用機材や資材の搬入が車両ごとできるようになっていた。
軍用車両が通り抜けることができる大きさの隔壁へと近づき、横についている読み取り機へ認識票を当て、網膜センサーを覗き込むと、開発部への隔壁が左右に開いた。
隔壁は分厚い多重構造になっており、各種防疫防爆の防壁も兼ねているのだろう。
隔壁の向こう側には、エレベーターホールと全く同じ構造が広がっていた。
小和泉は歩みを進めると背後の隔壁は、すぐに閉ざされた。迷うことなく小和泉は歩みを進め、対面の隔壁に近づいていく。
―噂どおりなら、このホールが通常は真空状態になっていて、認証に失敗すれば蜂の巣にされるのかな。だけど、この広い空間を真空にしたり、通常大気圧にしたりって大変なんじゃないかな。非現実的だよね。所詮噂だったか。―
と、小和泉は感覚的に噂を信じない事にした。
隔壁にたどり着くと先程と同じ様に読み取り機に認識票をかざし、網膜を読み取らせ、隔壁を開ける。
二つ目の隔壁を通り抜けると白い廊下が真っ直ぐにのびていた。廊下は軍用車両がすれ違える程の幅があった。廊下ではなく、道路と言った方が良いのかもしれない。
廊下の壁には、途切れ途切れに車一台が通行できる大きな隔壁があった。表札や看板の類は無い。恐らく研究内容が漏れない様に部屋の名前も秘匿されているのだろう。
―さて、どの部屋に行けば良いのやら。―
と小和泉が思う間もなく、廊下に水色の点線が発光した。点線は廊下の奥へと続いている。
―これを辿れということだろうね。―
小和泉は水色の点線に導かれるまま、深層の廊下を進んだ。しばらく進むと点線は九十度に右へ折れ曲がり、隔壁の下へと続いていた。
―ここが目的地かな。―
小和泉が認識票を隔壁横の読み取り機にかざすと静かに目の前の隔壁が左右に割れた。
そこは体育館の様に広い研究室だった。一面真っ白な壁と床に包まれ、面全体が照明として光り、影が出来ない様になっていた。地下都市では、お目にかかれない贅沢な部屋だった。高さと広さ、内装と光源。どれもが他の区画では採用されない規格であることは一目で分かった。
余程、高度な研究がここで行われていることを窺わせた。
研究室の中央には二メートル四方の正方形のブロックが幾つも並べられ、その前に白衣を着た中年の男性二人と若い女性一人が立っていた。部屋の片隅に大型の情報端末盤が置かれていた。
恐らく、この三人が小和泉を呼び出した人物なのだろう。
「8312分隊、小和泉大尉。出頭しました。」
小和泉は、敬礼を行うが覇気はない。この任務が面倒だと思っている為だ。
「うんうん、来たね。待っていたよ。うんうん。」
中央に立つ研究員が小和泉の敬礼に答える様に声を上げた。
小和泉の覇気の無さを気にしている素振りは見えなかった。いや、小和泉のヤル気など、どうでも良いのであろう。実験の結果が全てという人種だと考えれば、納得できた。
―答礼が無いから軍属の民間人かな。なら、もういいや。―
小和泉は敬礼を解いた。民間人でも正式な答礼の仕方はあるのだが、ほとんど知られていない。
背筋を伸ばし、真っ直ぐに立つ。右手の指を揃え、手のひらを心臓に重ねるのが民間人の答礼となる。
別にお辞儀でも問題は無い。そこに心が籠っているかが、重要になるだろう。
目の前にいる研究員は五十代半ばだろうか。やや低い身長に対し、体重は平均を超過している様だった。
運動不足の為だろう。手足は細く、腹が張り出していた。
顔色はやや黒く、目の下に濃い隈が出来ていることから恒常的に寝不足なのであろう。
一番の特長は、頭髪は一本も無く、まゆ毛やまつ毛まで存在していなかった。あきらかに人為的に脱毛したのであろう。正気の沙汰とは思えないが、正気を保っているかどうかは、別の話だ。不健康な変人の様に見えたが、理性は持ち合わせている様だ。
ちなみに禿げ頭の額には情報接続端子は無かった。つまり、自然種だ。研究職や技術職に派遣される熟成種ではない様だ。
熟成種は、促成種と同じく人造人間だ。
促成種との大きな違いは、筋力・敏捷性は自然種と変わらず、力強さも素早さも持ち合わせていない。成長速度も自然種と同じ様に歳を重ねる必要がある。
無理な成長を強制していない為、寿命も自然種と変わらず高齢になるまで生きる。生殖器官は持っているが、生殖能力が無いのは促成種と同じだった。
その代わり、学習・思考能力を必要とする脳機能を極度に発達させられた。思考能力や記憶能力を増大させられ、開発や研究などにその力を発揮させていた。また、熟練工や技術者が必要とされる製造現場や都市管理部署では類まれなる思考能力や記憶能力により、膨大な文字データを情報接続端子によって脳に直接焼き付け、技術習得期間の大幅短縮を可能としていた。
民間における日本軍の先任軍曹に当たる様な存在であった。
男の眼光というか、血走っているというべきか、目に強い力が宿っている事は確かだった。
血と脂が混じった異臭を漂わせている小和泉に表情を変えることなく、遠慮なく近づき、時計回りにじっくりと全身を観察していく。その表情は好奇心に満ち溢れていた。
―僕が放つ異臭が気にならないのかな。それともこの臭いを普段から嗅ぎ慣れているのかな。もしもそうであれば。いや、これ以上の詮索は止めておこうね。巻き込まれたら面倒だからね。―
と考えている内に、男は一周して小和泉の正面に戻ってきた。
「うんうん。素晴らしい汚れ方だね。泥の跳ね方や血の飛び方からも加速度や回転力等も計算できそうだよ。うんうん。本当にいい資料だね。やはり、本物はいいね。うんうん。
おおっと。僕はここの室長だ。少しの間、こちらの検証に付き合ってもらうからね。機密保持の為、自己紹介はできないよ。後ろの二人も紹介できないからね。すまないね。」
室長の背後に佇む二人を指差す。一人は長身細身の三十代男性。もう一人は、中背細身の二十代女性だった。二人とも白衣に身を包み、不健康そうな表情を浮かべていた。だが、室長と同じで眼から強い力が感じられた。その源は探究心なのだろうか。それとも実験動物への観察という名の視線なのだろうか。




