18.〇一一〇〇六作戦 距離ゼロの格闘戦
二二〇一年十月七日 〇一三一 作戦区域 洞窟内
目の前には、今迄に遭遇した事が無い月人、鉄狼がゆっくりと追い掛けてくる。
小和泉達は、じりじりと後退し出口に近づいて行く。
この状況に陥ってから二十分近く経過しているが、鉄狼は行動を起こさず小和泉達と同じペースで追い掛けて来るだけだ。
小和泉としては、すぐに鉄狼が肉弾戦を仕掛けてくるものだと予測していた。
現実としては、こちらを観察するかの様に一定の距離を保ち、追随してくるだけだった。
それは非情なる恐怖であった。
一瞬の油断で死に繋がる事を知っている。ゆえに目を鉄狼から離す事が出来ない。
まばたきをする事すら恐怖だった。
鉄狼と遭遇してから誰も言葉を発してもいない。
現状と違う動きをすれば襲われるかもしれないという恐怖が沈黙を強いていた。
未だに小和泉に打開策は浮かばない。
六人全員で攻撃をしかけても勝てる見込みが無いことはハッキリしている。
いくら強固な獣毛で全身を覆っていても弱点はあるはずだ。
それを探すべく、小和泉は観察を続けていた。
関節技はどうか。剛力で振りほどかれるか、自由になる手で身体を握り潰される。
目や耳はどうか。目や耳に銃剣や指を突き込めばダメージは与えられるが、やはり捕まって身体を握り潰される。
口はどうか。口に銃を突っ込み、連射すれば頭部破壊は可能だ。しかし、鉄狼は口を開ける気配は無い。鉄狼も口の中が弱点に成りえることを理解しているのだろう。
金的はどうか。哺乳類であれば金的は決定的な弱点になる。だが、鉄狼の金的は獣毛の中に隠れ外から確認することは出来ない。ここを攻撃しても獣毛に阻まれ効果は薄そうだ。
小和泉の考えは、堂々巡りに陥っていた。
何度も何度も同じことを繰り返し考え、新しい発見が無いか観察を続けていた。
後ろ向きの撤退は、小和泉達の行軍ペースを著しく落とした。
このペースでは、洞窟の出口に何時辿り着けるか判断がつかなかった。
もっとも、その前に目の前の鉄狼が襲って来る可能性が高いであろう。
疲労、焦燥、恐怖。三重苦が小和泉達を責め続ける。
ついに小和泉は幻想をみるまで追い詰められ始めた。
―もしかすると、出口で鹿賀山が待っているのでは。―
―もしかすると、地上に大隊が待機しているのでは。―
―馬鹿な。有り得ない。鹿賀山が撤退を決めたのであれば、間違いなく大隊は撤退した。―
小和泉は、有り得ない願望が頭を占めていくのを感じた。
―これでは、先程の二の舞になる。願望は捨てろ。事実を受け入れろ。―
頭の中からこびりつきそうになる願望を振り払う。
刹那、鉄狼の拳が小和泉の顔面に迫る。腕の長さを見切り、身体を後方に下らせながら拳の軌道から体をずらせる。小和泉の目の前を凄まじい勢いで拳が通り過ぎていく。
―ちっ!動いたか。―
鉄狼とすれ違いざまに小和泉が膝蹴りを鳩尾に撃ち込むが、硬い獣毛に弾かれた。
鉄狼に捕まれば、一巻の終わりだ。分の悪い勝負が始まった。
鉄狼は、小和泉に向い丸太の様な腕を振り回す。すかさず腰を落とし、腕をくぐり抜ける。
小和泉は、目の前のむき出しとなった脇腹へ掌底を繰り出す。やはり結果は同じだった。獣毛が弾き返す。
「隊長!」
「少尉殿!」
「助太刀するぜ!」
皆が心配の声を上げる。
―最後の言葉は、菜花だろう。彼女らしいな。―
笑みがこぼれ、小和泉の身体から余分な力と雑念が抜けた。男は現金なものらしい。愛する者の声を聞くだけで強くなれるらしい。
「手助けはいらないよ。一対一に専念させてくれないか。皆は周囲を警戒し、探してくれないか。」
鉄狼の掴み取りを避けつつ、答える。精神的に余裕も出てきた。
鉄狼対策の答えは単純だったのだ。鉄狼との接触は刹那。敵には触らせない。だが、離れない。
それを行うには、一対一の方が都合が良かった。数で囲めば、小和泉が動きたい位置に味方がいる場合があり得る。そうなれば、敵に捕まる恐れがある。
周囲に誰も居ないのであれば、小和泉は自由に動ける。鉄狼に捕えられることは無い。
しかし、桔梗達から見れば、それはとても危険に見え、恐ろしいものだった。
小和泉の言葉でなければ、すでに救援に入っていたであろう。
舞と愛は悩んでいた。援護射撃の一つでも入れるべきなのだろうが、小和泉直属の部下である1111分隊は参戦しない。小隊長の言葉を守り、周辺警戒にあたりながら何かをしている。
小和泉の意図が読めない舞と愛は、桔梗に確認を取り1111分隊の行動に追随することにした。
この間にも小和泉と鉄狼との肉弾戦は続いている。密着している小和泉を鉄狼が叩き潰そうとするが、自分自身の大きな体が攻撃範囲を狭め、体重の乗った拳を放つことができなかった。
鉄狼が拳を繰り出そうとすれば、鉄狼の肘を軽く押し出し軌道を変えて空を打たせる。
次に鉄狼は、小和泉を噛みつこうと大きな口を開け、涎を振りまきながら首を狙う。
腰を落として避け、眼前にある鉄狼の顎へ左の掌底を叩きつけた。鉄狼の頭が大きく揺さぶられる。
だが、脳震盪を起こす程の強打にはならなかった様だ。鉄狼の冷たい目は揺れる事無く、小和泉をしっかりと捉えている。
足を大地に根付かせ、右掌底を下から鉄狼の顎を打ち上げる。鉄狼の喉仏が無防備に晒される。小和泉の右足背面回し踵蹴りが叩きつけられる。身長差がある為、足を延ばす為に小和泉の上半身は地面スレスレまで寝かす。逆にそこまで体を倒したことが小和泉の命を救った。
先程まで小和泉の身体があった空間へ鉄狼が強烈な柏手を打つ。
洞窟にバスンと低い音が響く。まるで洞窟が震えたかの様に空気の振動を感じた。
小和泉は怯むことなく、回転力が生きている内に足を縮め、再度背面回し踵蹴りを金的に蹴り込む。小和泉は駒の様に回転を続ける。回転力は攻撃力を底上げしてくれるが、絶妙なバランス感覚を要求される。バランスを崩し地面にこけることがあれば、鉄狼に捕まり人生が終わる。
鉄狼が金的への打撃の衝撃によろめく。すかさず、左足をしっかり抱え込み、鉄狼の顎を天井へ踵で蹴り上げる。一瞬、地面から天井への真っ直ぐに小和泉の足が伸びる。それは、あまりにも美しい蹴りだった。
そのまま硬直する小和泉では無い。すぐに踵を落とし、鉄狼の鎖骨を狙う。硬い獣毛に阻まれ、比較的折りやすい骨だが徒労に終わった。
鉄狼の拳が小和泉の脇腹を狙う。足から伝わる筋肉の動きで先読みしていた小和泉は、足を乗せた右肩を踏み台に一気に鉄狼を駆け上げる。その後を鉄狼の拳が通り過ぎる。
鉄狼の両肩に立った小和泉は、鉄狼の首に両足を組み、全体重と回転力、そして重力を利用して首を圧し折ろうとする。だが、鉄狼の背中側に逆立ちの様にぶら下がるだけで鉄狼はビクともしない。失敗を悟った小和泉は即座に首から足を離し、地面に伏せる。
その上を鉄狼の右足が過ぎ去っていった。
伏せた蛙の状態から槍の様に蹴り出し、鉄狼の膝裏を蹴り抜く。多少、鉄狼が揺らぐがダメージは通らない。
鉄狼が上から拳を振り下ろしてくる。地面へ打撃を与える為、大きく開いた股をくぐり抜け、小和泉は体勢を整え、攻防の最初の位置取りに戻った。
桔梗達は一瞬、周囲警戒を忘れ、小和泉の攻防に驚き、見とれた。
鉄狼の強烈な一撃。小和泉の鋭敏な攻撃。対極的な攻防だった。
小和泉が月人と対等に肉弾戦を行うのを桔梗達は散々見てきた。
しかし、並の月人とは一線を画す鉄狼と小和泉が同等に戦えるとは考えていなかった。自然種である自分達の上官が、今まで戦闘で本気を出していない事実を知り、恐ろしさを感じたのだ。
何故、本気で無いと理解したかと言えば、見たことが無い技ばかりだったからだ。
軍で教わる格闘術とは程遠い技の数々。格闘術のエキスパートである菜花でさえ知らない技だった。さらに菜花は小和泉の攻防に畏れを抱いた。
小和泉の打撃技は、掌底、踵に限られている。人間の拳や足先は無数の骨により構成されている。硬い物を打てば、骨にひびが入り、折れ、さらに打てば粉砕する。こればかりは、いくら拳を鍛えても限界がある。複合装甲も指の稼働性や汎用性を考え、装甲は無いに等しい。
その点、掌底や踵は骨の数も限られ、比較的自分が傷つきにくい部位だ。その様な制限を課していても多彩な技が繰り出されていることに菜花は感動していた。
―俺達の隊長って、こんなに凄い人なのか。―
菜花は、太く熱い衝動に体の中心を貫かれる様な感覚に浸り、頬を紅潮させていたが、他の者は、我に返り小和泉の命令に戻っていた。
強化されている促成種である桔梗達ですら、格闘好きの菜花を除いて月人との肉弾戦は極力回避している。身体能力で圧倒していても数の力には負けるからだ。戦闘が一対一になる戦場など無い。多対多が戦争だ。止むを得ず、肉弾戦を行うのは塹壕戦がほとんどだ。
だが、今回の戦場は異常続きだ。
司令部の敵戦力の把握ミス。
月人の戦術行使。
張り巡らされた罠。
今まで確認されたことが無い新種の月人。
そして、この一対一が全てを決める最終決戦。
人類は月人のことを全く知らなかったのだ。捕虜を捕まえ、知ったつもりでいただけだった。
これからの戦争は大きく変わる。害虫退治に出かける気軽さで戦場に出れば、死が口を開けて待っている。
戦略および戦術が必要だ。しかし、人類は月人を知らない。
知らないものに対し、的確な作戦は立てられない。
だが、地下都市の防御壁を破る事は不可能だろう。
防御壁に辿り着くまでに発見されて砲撃される。それを潜り抜けても鉄条網と地雷原が待ち構え、そこを渡り切ったところに塹壕が広がっており、銃撃の嵐が待っている。
だが、しばらくは人類の苦戦が続きそうだった。
この間も小和泉と鉄狼の激闘は続いている。
瞬間的に攻撃を当て、絶対に接触を許さない小和泉。
何としても攻撃を力づくでぶちかまそうとする鉄狼。
速度と力の美しい攻防だった。
だが、この攻防も長く続ける事はできないことは誰もが理解していた。疲弊している小和泉の持久力が鉄狼に勝ることは無いのだ。まもなく、小和泉のスタミナは尽きるだろう。
持久力が尽きた瞬間、間違いなく死が訪れる。
それを理解した上で小和泉は、生き残る為に鉄狼へと挑んでいた。
そして、命懸けで時間を稼ぐ小和泉の為に、桔梗達も小和泉の思惑に応えようと必死だった。




