163.〇三〇二〇九掃討戦 久方の死傷確率5%
二二〇三年二月九日 〇九一九 KYT 日本軍総司令部 小会議室
柴井の顔面が紅潮から紫へと変わっていく。怒りによる呼吸不全を起こし、酸欠状態へと陥ったのであろう。
「こ、こ、こちらから、軍へ、抗議、する。覚えて、おけ。」
途切れ途切れに言葉を無理やり発した。柴井の呼吸は荒く、肩は激しく上下し、部下の久世に支えられていた。久世は、柴井の癇癪に辟易した表情でいた。どうやら、癇癪を起すのは日常茶飯事の様だ。
その様な人物が警備部に配属されているのは謎だ。日本軍であれば、配置転換が即座に行われるはずだった。
日本軍が柴井の抗議を受け入れない事は分かっている。日本軍は先の戦闘により大打撃を受けた。全戦力の半数以上を損耗したのだ。これ以上の損害は受け入れられない。
人質三人の命と一個小隊の命を天秤にかけた場合、最初から答えは一つしかない。
戦争の冷たい算数が適用されるのだ。民間人三名より月人の排除が優先される。もしも、ここで月人を取り逃せば、この連続殺人事件は続き、被害者は増える。
現在、敵は一ヶ所に集まり、殲滅する好機である。日本軍が、この機会を見逃すはずはなかった。
司法府は、日本軍の戦闘教義を理解していなかった。
小会議室の険悪となった空気を菱村の大声が切り裂いた。
「現時刻にて本作戦は、司法府より日本軍に委譲された。お疲れさん。お前さんらはこの件から解放だ。」
副長に全てを任せ、沈黙を保っていた菱村が大声で宣言した。そこには反論を許さぬ意思が込められていた。この言霊を聞いてしまっては、一般人は委縮し、言われるがままにするしかなかった。
柴井と久世は菱村の声を聞き、硬直してしまったのだ。
菱村の声を聞き慣れている831小隊の面々は、言霊に囚われる事無く、次の言葉を待った。
「日本軍と司法府で話を今つけた。何も問題はねえ。日本軍主導で動く。」
菱村が沈黙していたのは、総司令部へ作戦の主導権を移す手配をしていた為だった。
端末を使用し、総司令部へ現状と作戦の成功率と死傷確率を報告し、司法府から主導権の奪取に成功していた。副長と柴井の論戦は、この時間稼ぎに過ぎなかった。
―なるほどね。副長が珍しく長々と論戦をしかけていたのは、こういうことだったのか。あの二人を敵に回すのだけは絶対に止めておこうね。
となると、奏との婚約を反故にするとおやっさんに殺されるね。確実にね。怖い、怖い。―
と小和泉は心にもないことを思いながら、何気なく東條寺の方へ視線を送った。
鹿賀山は正面を見据えたまま身動き一つしていなかった。少し顔色が悪いようだ。疲労が溜まっているのだろうか。
昨夜の疲れも無い様で、対照的に血色の良い東條寺は視線に気づいた。周囲に気付かれぬ様に小さくそっと小和泉へ手を振った。その姿は、座敷童を思い浮かばせ、思わず小和泉は笑みを浮かべてしまった。すぐに正面を向き無表情に戻すが、東條寺を始め、8312分隊の全員に気付かれ、視線を集めてしまった。
―僕としたことが油断した。後で皆にからかわれるかな。まあ、それもいいよね。仕事前の緊張をほぐす道化にでもなりますか。それにしても管理職は面倒だよね。―
と思いつつ頭を切り替え、この作戦の実務を考え始めた。
菱村は、第八大隊大隊長を従軍年数だけで務めている訳ではない。
先読みができ、部下を大切にしていることが、皆からの篤い信頼へと繋がっていた。そして、その実績の積み重ねが総司令部より信頼を勝ち取っていた。
「てなわけだ。831小隊出動準備。解散。」
『了解。』
即座に831小隊は、起立し敬礼を行った。菱村も立ち上がり返礼を行なった。
831小隊は小会議室から速やかに整然と退室し、菱村、副長、柴井、久世の四人だけが残された。
菱村は聴衆席から演壇へと上がり、柴井へと近づいた。
「まぁ、そういうわけだ。俺らに任せてくれたらいい。まあ、お疲れさん。現場の警備官も引き上げるはずだ。庁舎に戻って、報告を待っててくれや。」
柴井が抗議を上げようとするが部下の久世が止めた。
「柴井さん、本部の決定です。引き下がりましょう。もう、僕達の手を離れました。これは戦争です。事件じゃないんです。」
久世の言葉を噛みしめた後、柴井はその場にへたり込んでしまった。
「あんたらが正しいのだろうな。だが、少しでも可能性があるのならば、人質を救いたかったんだ。」
柴井は、勢いを無くし、弱々しく言葉を吐いた。
「人としちゃあ、間違っちゃいねえよ。だがな。月人って奴は慈悲も寛容も持ってねえんだわ。人の理解の外にある存在。政府認定の敵性宇宙人なんだわ。
人質が確定情報ならば、あんたの言う通りに動いてやっても良かったんだがな。
不確かな情報で、俺は死にたくねえし、部下も死なせたくねえ。
あんたは、何も悪くねえよ。職務に忠実だったし、人間らしかったよ。まぁ、事後の報告書もどきは、回してやるから後は任せろや。
副長、戦闘詳報の抜粋を柴井警備官にも回してやってくれ。」
「了解。」
「おう。じゃあな。」
そう言うと菱村と副長は小会議室を出ていった。
柴井と久世の二人だけが取り残され、虚無感に包み込まれていた。
「こんなはずでは。人の命が軽すぎる。」
柴井の呟きは、小会議室に静かに響いた。
二二〇三年二月九日 一〇三一 KYT 中層部 居住区
戦闘予報。
掃討戦です。敵は少数だと予測されますが、油断は禁物です。
籠城しています。同士討ちに十分注意して下さい。
死傷確率は5%です。
久しぶりに見る死傷確率5%の低確率の戦闘予報だった。
この戦闘予報により、831小隊の空気は穏やかなものになっていた。ここ最近の戦闘で死の影が薄い戦場は久しぶりであった。
戦闘予報と同時に総司令部より命令書も届いた。
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二二〇三年二月九日 一〇〇〇
発 日本軍総司令部
宛 第八大隊第三中隊第一小隊
題 命令書
地下都市に潜伏する月人を殲滅せよ。
敵勢力は三個分隊と推測される。
この月人は先の戦闘における生き残りと思われ、遭遇した人間を殺害したと推定される。
被害者数、十八名を確認。
早急に殲滅し、KYT市民の安全を確保せよ。
なお、作戦区域の閉鎖の為、出動している憲兵隊を戦力に含むことは禁じる。
以上。
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命令を受領した小和泉達は、指定された家屋の一階、居間の窓越しに身を引くくし、気配を殺していた。作戦開始より命令書が後に来る珍しいパターンだった。すでに地下都市へ侵入されている状態では、書類が実情より遅れるのも仕方が無いことだろう。
閑静な住宅街の一角で行政府仕様である複合セラミックス製の全く同じ形の一戸建てが、多数均等に並んでいる。全ての一戸建てが均一の仕様であるのは、建設の簡便さと資材の節約を優先させた結果であった。
この狭い地下都市で一戸建てを支給されるのは、高級官僚か高級士官のみである。一戸建てであってもさすがに庭は無く、代わりに一区画毎に公園が設置されているのが、他の居住区と大きく違うところであった。
住環境としては、地下都市の中で最高水準であることは間違いなかった。
月人は二車線道路を挟んだ向かい側の二階建の一戸建てに潜伏中であることが、戦術ネットワークに上がっていた。
間取りは一階が1LDK、二階が三部屋の4LDKとなっている。
居間の窓の下に8312分隊全員が隠れ、攻撃まで静かに待っていた。
隣の台所には、鹿賀山の8311分隊が同じ様に待機している。戦術モニターを確認すると二時方向に8313・8314分隊も展開完了の表示がされていた。一階と二階に分かれて攻撃する案もあったが、白兵戦に移行する場合、二階に居ては配置転換に時間がかかるということで今回は却下され、全部隊が一階にて待機し、射撃による攻撃を行うことになっている。
戦区地図には、閉鎖地区を囲む赤線は表示されていたが、憲兵隊の位置表示は一切無かった。相変わらず、憲兵隊の部隊も規模も全てが不明だった。
憲兵隊の情報が開示されることは一切無い。重要機密になっている。軍内部の司法機関であるため、身元や規模が分からぬ様にしているのであろう。ただ例外として、小和泉が知っている憲兵は、白河少佐だけだった。
―この人だけは、昔からが独房に放り込まれる度に面会に来ていたね。最初から素顔を晒し、名前と階級まで名乗るなんて珍しいから覚えたんだよね。
尋問に憲兵が来ることがあっても素顔を隠すのが、通常の行動なんだけど、白河少佐だけは違っていたなぁ。案外、腹違いの妹である奏の想い人を見極めに来ていたのかな。奏は、僕と通じる前、つまり第八大隊に所属した時から僕に気が有ったらしいからね。―
と、小和泉は戦闘前にもかかわらず、余計なことに思考を割いていた。戦闘予報の死傷確率5%と敵との戦力比に精神的余裕があった。




