159.失意、落胆のち笑顔
二二〇三年二月七日 一九一三 KYT 士官寮
自宅に着いても鹿賀山は終始無言であった。
「清和様。お帰りなさいませ。」
ウネメの心を蕩けさせる笑顔の出迎えに対して、鷹揚に頷くだけだった。
温かい風呂に入り、ウネメに全身全霊で体を洗われた。
「お痒いところはございませんか。」
ウネメが耳元で囁くが、本能は一切目覚めなかった。
「ご希望の鯛ちりでございます。ポン酢しょうゆと紅葉おろしをご用意致しました。」
鹿賀山の為に用意された、出しや具材に創意工夫を感じさせる鯛ちりも味を感じなかった。
ただただ、灰色の無力感が鹿賀山の脳細胞を蝕み続けた。
風呂で洗い流すことも食事で体内から追い出すことも出来なかった。
徒労感に包まれたままベッドに横たわった。眠気は無い。視線は天井に向いていたが、ピントはどこにも定まっていなかった。ウネメは部屋の明かりを消すと静かにドアを閉め、部屋から出ていった。
鹿賀山から人間の三大欲求である睡眠欲、食欲、性欲の全てが欠け落ちていることをウネメは知った。
ゆえに、今は一人にすべきであると判断した。これ以上、差し伸べる手が見つからなかったのだ。
鹿賀山自身が自己解決するしかない。そして、それを為し得るとウネメは信じていた。
鹿賀山はベッドに横たわり、暗闇で何も見えない天井を何気なく見続けていた。
「私は自分の能力を過信していた。何も分かっていなかった。
手の届く範囲の安全を確認しただけで、他の部隊がどうなったのか、一度も顧みなかった。考えていなかった。大局観が無かった。想像力も無かった。
戦闘詳報を自分自身でまとめたのだぞ。
第八大隊の第一中隊はどうなった。半数が戦死だ。残りは怪我をし無傷な者はいない。死傷率100%だ。
ならば第二中隊はどうだ。半分が重傷か戦死だ。死傷率50%だ。こんな大損害を自隊で出していれば、他の隊も同じ状況にあると考えるのが妥当だ。つまり、軍立病院の地獄絵図は、簡単に予測できたはずではないか。
戦闘明けの疲労の所為にはいくらでもできる。だが、それを認めることは自分が無能であることを認めたことになる。
いや、現実として無能なのだ。だから、病院の惨状が予測できなかったのだ。
何が疲労回復のチョコレートだ。気が利く男の様に見せかけ、現実を見ていない。理解していないではないか。くそっ。くそっ。くそっ。
私は、自己評価を高め過ぎていた様だ。まだ、小和泉の方が己自身の事をしっかりと把握しているではないか。
何が奴を庇うだ。戦闘詳報から行動を誤魔化すだ。そちらに注力している余裕があるならば、日本軍、いや人類全体を考えるべきではないか。
私は馬鹿だ。間抜けだ。阿保だ。無能だ。」
鹿賀山は大きな声で己の不甲斐なさを吐き出し続けた。
それは夜明けまで続いた。防音が効いている筈のドアから鹿賀山の叫びが微かに聞こえていた。
余程の大声なのだろう。鹿賀山がここまで己の感情や考えをむき出しにしたことは無かった。
悔しく、口惜しく、腹ただしく、吐き気を感じ、腹の底に自信欠如の蟲が蠢いている様だった。
ウネメは、主人である清和がいつでも部屋から起き出しても良い様に静かにダイニングの椅子に座り待機をしていた。
二二〇三年二月八日 〇五二一 KYT 士官寮
結局、鹿賀山は一睡もする事は無かった。
だが、ベッドの上で天井を睨み続け、自問自答を繰り返す事でようやく答えを見つけ出した。
いや、答えをこじつけ、創りだした。そうしなければ、立ち上がり前に進めないのだ。
長時間の自問自答に脳は疲労し、ベッドから起きる気力は湧かなかった。しかし、生理現象は無情である。トイレへは行かねばならぬのである。
重く軋む関節を曲げて、ベッドから立ち上がり部屋を出た。ダイニングには、真っ直ぐに姿勢正しく起立するウネメと目が合った。
「おはよう。いや。すまなかったな。ふむ、これも違うな。」
鹿賀山は顎に手を考え込む。鹿賀山の目は窪み、黒い隈ができ、一睡もしていないことは読み取れた。
だが昨日とは違い、迷い、いや、悩みが解決し、晴れ晴れとした爽やかな表情であった。
「ありがとう。悪かった。俺は前に進むしかないのだ。最初から後退は無いのだ。単純な事にゆえに気付けなかった。もっと大局観を持たねばならぬな。」
鹿賀山が紡ぎ出した言葉を聞いたウネメの目から光る物が零れた。
「流石、清和様でございます。ウネメは信じておりました。」
「本当に済まなかった。折角の準備を台無しにしてしまった。」
「問題ございません。ウネメは、清和様に尽くすことが幸せでございます。」
「そうか。そう言ってくれると助かる。」
「ところで、本日のご予定は如何されますか。」
「あ~、まずは、トイレに行かせてくれ。」
「ふふふ。はい、行ってらっしゃいませ。」
ウネメは、鹿賀山のモジモジする姿が微笑ましく、柔らかな笑顔で後ろ姿を見送った。
二二〇三年二月八日 〇七三五 KYT 士官寮
東條寺が自分の寮から外に出ると、地下都市は闇の時間から朝の弱い光に照らされ、道路に建物の影らしきものを落とす様になっていた。
時間の経過と共に天井照明の光量が上がっていく。日の出を再現しているそうだ。しかし、若い世代で日の出を自分の目で見たことがある者はいない。記録映像や古典映画で知識として知っているだけだった。ゆえに何の感慨も無く、早朝と夕方は、照明の照度が変化する時間帯であるという認識でしかなかった。
東條寺が自分の寮から小和泉の士官寮に辿り着いた時には、光量は昼と同じ明るさとなり、地面に落ちる影の明暗はハッキリとしたものになっていた。
「仕事疲れには眩しいわね。」
東條寺は思わず心のままに、声に出していた。戦闘終了から三日が経過し、情報端末が自動処理している間に幾分か体を休められたが、831小隊の副長として様々な事後処理が東條寺を解放してくれなかった。だが、幸いにも小隊から戦死者や戦傷者が出なかったため、事後処理は装備の確認と補充で済んだ。実際に補充品が届けば、また忙しくなるのだが、軍が混乱している状況ではすぐに届くとは思えなかった。
補給品が届けば、発注書と納品書と物品の摺り合わせに忙しくなるのは分かっていた。今の内に大いに羽を伸ばすことにしていた。
ようやく休暇が始まったのだ。シャワーを浴び、新しい下着を身に着け、普段は着ることがない略服にタイトスカートを組み合わせた。ネッカチーフの巻き方も何度も納得するまで変え、姿見で念入りに自分自身の姿を確認した。私服も考慮したのだが、慌ただしい地下都市内の雰囲気は、軍服を着ている方が無難に感じた。
ちなみに東條寺を始め、日本軍の女性兵士の多くに化粧の習慣はほぼ無い。
ヘルメットで擦れる。ヘルメット内部に化粧品の匂いが籠る。網膜モニター端末が汚れる。汗で崩れる。出撃すれば何日も化粧を落とせない等が主な理由だった。
ゆえに薄いピンクのリップクリームだけを塗った。このくらいであれば、何の支障も無かった。
―おかしいところ無いよね。可愛いよね。―
姿見に後ろ姿も同時に表示させ、前後を同時に確認する。疲労の為か、目の下に隈が出来ているのが気になった。
ほんの少しだけ迷い、ポーチよりファンデーションを取り出し、薄く塗り、誤魔化した。
―今日は戦闘無いよね。これくらいなら大丈夫よね。呼び出されてもすぐに落とせるもの。よし、戦闘準備完了。出撃。―
と心の中で叫んだ。
小和泉の部屋へ真っ直ぐに訪れ、今、玄関前に立っていた。
―もう起きているかな。錬太郎は寝ているだろうな。桔梗が朝ごはんの準備をしている時間かな。あ、自分の朝食を用意してない。下の売店で買ってこようかな。でも桔梗のごはん、美味しいんだよね。どうしようかな。―
一分ほど葛藤した後、深く大きく深呼吸をし、東條寺は登録済みの静脈認証で扉の鍵を開けた。
結局、桔梗の手料理を選択したのだった。
扉が横に開いた瞬間に濃密な匂いが東條寺の体を包み込んだ。
汗と男女のまぐわいの香りだった。
―やっぱり。こんなことだと思った。錬太郎らしいな。―
意外にも東條寺は冷静に玄関へと入った。そこには、小和泉と同居している桔梗以外の女物の靴が、余分に二足並んでいた。
一足は汚れたままの野戦靴。もう一足は綺麗に磨かれた革靴。これだけで持ち主がすぐに分かった。前者が菜花で、後者が鈴蘭だろう。二人の性格が表れていた。
小和泉と桔梗の靴は無い。几帳面な桔梗が下駄箱に片付けたのだろう。
東條寺は静かに廊下を進み、小和泉の寝室の扉を静かに開けた。
想像通りの世界が広がっていた。キングサイズのベッドに男女四人が全裸で絡まりながら眠っていた。
あえて、名前を出す必要は無いだろう。
床には乱雑に服が飛び散り、サイドテーブルには軽食が乗っていた跡が窺えた。
どうやらここ数日、四人がこの部屋に籠ったまま、まぐわい続けていた様だった。籠城に備えて、食糧まで用意する周到ぶりだった。
―はぁ。やっぱり、錬太郎はお楽しみでしたか。そうだろうなと思っていました。少しだけ、いえ、ちょっぴり品行方正な錬太郎も期待していました。期待した私が愚かでした。
さて、いつ起きるか分からないよね。ダイニングでコーヒーでも飲みながら待ちますか。―
東條寺は静かに扉を閉じながら囁いた。
「錬太郎のば~か。」




