158.希望を超える現実
二二〇三年二月七日 一七二八 KYT 日本軍立病院
もがき苦しむ戦傷者達の中で鹿賀山は立ち尽くしていた。明らかに鹿賀山は、この空間で異物だった。
―チョコレートだと。俺は馬鹿か。用意する物を間違えた。自分の考えが甘かった。認識が甘い。甘すぎる。想像力の欠如だ。必要なのは医療品と人手だ。
今からでも必要物資を確認し、用意させるか。あまり使いたい手段ではないのだが。
いや、自分の認識不足だ。使える物は何でも使うべきだ。
薫子には悪いが、会うのは止めだ。会わせる顔が無い。―
鹿賀山は奥歯を強く噛みしめつつ、受付に行った。
「忙しい所すまない。少ないが差し入れだ。皆で分けてくれ。」
事務員であろう中年男性が無精ひげを生やし、鹿賀山に振り向いた。
「少佐殿、どうもです。どの様な御用で。」
疲れているのだろう。その声には生気が無かった。鹿賀山がカウンターに置いた紙袋を一瞥するだけで、手を触れようともしなかった。鹿賀山にしても持って帰っても仕方がないのだ。今は不要かもしれないが、数日後には役に立つかもしれない。
「必要物資を言ってくれ。手配する。」
「はぁ。散々、司令部には言ってますよ。送るの一点張りで、実際には何も来ないに等しいんですけどね。」
「そうか。では、何が一番欲しい。」
「消毒薬、包帯、医療品なら何でもです。手に入れば、どの様な物でも活用してみせますよ。調理用品も意外に使えますよ。」
「例えば、何だ。」
「まあ、ラップフィルムとかペーパータオルでしょう。あと、エプロン、石鹸。何であれ、物があれば、使い道を考えますよ。医療品としてでなく、皆の食事を作る必要もありますしね。」
「そうか。日用品も必要であることを充分理解した。邪魔をして済まなかった。」
鹿賀山はそう言うと受付を離れ、月人への怨嗟の声が漂う病院の外へ静かに早足で飛び出した。一人身綺麗な自分がその場所に留まる事に対して、己自身が許せなかった。
外に出た鹿賀山は、邪魔にならぬ様に静かな場所へと移った。携帯端末をいじり、呼び出し音を鳴らし続けた。初めてかける通信。連絡先に登録したまま、一度も使用をしたことが無かった。
登録名は『閣下』。亡き父から本当に困った時に連絡せよと教わり、今までその局面に出会わなかったのだ。誰が出るか、鹿賀山は知らない。心拍数を上げつつ、反応を待った。
「誰か。」
しわがれた老人の様な男性の声が聞こえた。映像は送られてこなかった。音声のみだった。
「鹿賀山少将の長子、鹿賀山清和少佐であります。閣下にはお初にお目にかかります。」
こちらからは映像を送っている為、向こうには鹿賀山の姿が見えている筈だった。日本軍人として美しい敬礼を行なった。
「ほう、奴のせがれか。確かに似ておる。懐かしく大切にしている名を聞いたな。奴には借りがあるのに、返す前にさっさと逝ってしまいよって。あの馬鹿たれが。で、儂に何用か。」
「閣下。申し訳ありませんが、願いを一つ聞いて頂けないでしょうか。」
「内容によるな。その願いが奴の借りに相応しいのであれば、今回に限り聞いてやる。だが、不相応であれば、二度と連絡を寄越すな。」
「了解致しました。」
「では、聞こうか。」
「はい。軍立病院へ医療物資及び救援物資を可能な限り大量に送って頂きたいのであります。」
「それは軍が行なっておる。貴官の役目では無かろう。」
「閣下の仰るとおりであります。ですが、現実には機能せず、病院には物質が届いておりません。
戦友が苦しみ、治療を受けられない状況は耐えられません。また、スタッフも疲弊しております。
そこで閣下のお力で工場の倉庫貯蔵品や行政府の非常備蓄品をご都合して頂けないかと考え、ご連絡を差し上げました。」
「なるほど、奴のせがれらしい考えだ。親に似て甘い奴だ。まぁ、良かろう。奴への借りに対して充分な要求だ。手配してやる。一時間後に届けさせる。」
「ありがとうございます。費用は本官へ請求をお願い申し上げます。」
「くくく。そこも奴に似ておるな。金は要らん。奴への借りを返すだけだ。これで貸し借りは無しだ。以後、貴官の我儘は、無条件で聞かぬからな。」
「はっ。心より感謝申し上げます。」
通信はすぐに切れた。
―頼んだのは良いが、本当に約束を守ってくれるのだろうか。―
正体も知らぬ閣下と呼ばれる男に依頼したまでは良かった。一抹の不安が残り、鹿賀山は資材が届くのを待つことにした。
二二〇三年二月七日 一八三六 KYT 日本軍立病院 玄関前
通信後、キッチリ一時間後に車列が現れた。
「あの車列だろうか。」
邪魔にならぬ様に病院の敷地外で待機していた鹿賀山の目に入ってきたのは、大型輸送トラック三台と大型バス二台の編成だった。どの車両も血や泥で汚れておらず、明らかに戦傷者と戦死者を輸送していた車両とは異なっていた。目の前を通過していく白い車体に所属を示す司法府警備部の文字が読み取れた。
五台の車が病院正面前の使われていない駐車場に止まると一斉にドアが開き、乗員が飛び降りた。
鹿賀山が見たことが無い制服を着ていたが、司法府の部隊であることは分かった。
―閣下は司法府の人間なのだろうか。―
統率された動きは、トラックから物質を次々に降ろし、資材別に積み上げていく。
最後の大型バスからは全身を薄い青い服で身にまとった十数人の集団が表れた。この集団は、荷卸しには加わらず、病院内へと入っていった。
―あの集団は、医者と看護師か。―
たった一時間でこの大量の医療物資だけでなく、医師団まで派遣できる閣下の力を鹿賀山は恐れた。
―父から困った時には、閣下に頼れという遺言を受けていたが、まさかここまでの力を持つ方なのか。いったい閣下とは誰なのだ。父は何をしたのだ。―
鹿賀山は閣下という称号と連絡先しか聞いておらず、正体を知らない。称号的に相応の立場にある人間であることは想像していたが、これほどの物資と人間を即座に動員できる実力者であるとは思いもよらなかった。
鹿賀山の希望した以上の光景、理解を超える現実が広がっていた。
だが、鹿賀山の希望を現実はさらに超えていった。大型輸送トラックは、荷台のバンボディが左右に広がり、横幅が三台分の広さに広がった。さらに各トラックには渡り廊下が設置され、バンボディへの入口にはスロープが取り付けられた。
さらに駐車場の空きスペースには簡易ベッドが数十基以上並べられ、衝立で囲まれた。
これは、移動式野戦病院だった。正体は、司法部警備部の医療部隊だった。鉱山や工場での大規模事故に対応する為、二十四時間出動態勢にあった。
今回は戦争であり、民間人への対応の為に待機し、出動予定は無かった。だが、閣下と呼ばれる男はそれを動かしたのであった。
希望を遥かに超えた現実に鹿賀山の思考は停止してしまった。
「鹿賀山少佐。少佐。少佐。こちらに意識を向けて下さい。」
若い女性の呼びかけで鹿賀山の意識は現実に戻ってきた。
目の前には水色の医療服を着用し、マスクを着けた女性が立っていた。
「済まない。予想外の出来事が起きた為、我を失ってしまった。」
鹿賀山は両頬を強く掌で叩いた。電気的な痛みが走り、冷静さが戻ってきた。
「閣下の命により移動病院を開設致しました。これより軍立病院より選別された患者を受け入れます。少佐のご希望に沿いましたか。」
「希望以上です。ここまでして頂けるとは、思っておりませんでした。」
「ならば結構。職務に戻ります。少佐は御帰宅下さい。」
「ありがとうございます。ここまでの事をして頂くと私も何かお手伝いを。」
「不要です。少佐は地下都市の防御に専念して下さい。その為にも疲れた体を休めることを優先して下さい。閣下のご命令です。」
「分かりました。仰る通りにしましょう。ところで閣下とは。いえ何でもありません。鹿賀山少佐が閣下に大変感謝していたとお伝え下さい。」
「分かりました。承りました。それではお気をつけてお帰りを。」
そう言うと女性は小走りにて臨時病院へと走っていった。
「父さん。貴方は一体、誰に何をしたのですか。こんな奇跡が起きるなんて想像できるわけないじゃないですか。」
鹿賀山は、臨時病院を見つめ乍ら呟いた。
―たった一本の通信で状況がここまで変化するとは思いも寄らなかった。両手に抱えられる程度の医薬品が届けば良いと思っていた。もう訳が分からない。―
もやもやとした思いを胸に抱えながら、鹿賀山は帰途についた。




