149.第二十六次防衛戦 第六層へ
二二〇三年二月四日 一〇五四 KYT 第二層スロープ
撤退戦は済んでいない。第六層に到達するまで終わらない。気を弛めることは死に繋がる。油断はできない。
「さて、手持ちの地雷と手榴弾は残っているかな。」
小和泉は、士気を引き締める様に固く真面目な声で確認を行った。
「いいえ、分隊配備分は全て使い切りました。在庫は有りません。威力不足になっては、効果が無いと判断しました。残した方がよろしかったですか。」
「良い判断だよ、桔梗。一度しか通用しない手だからね。」
「なぁ、隊長、俺も褒めてくれよ。」
「菜花、それは第六層に着いたらね。一杯可愛がってあげよう。」
「一時的に進撃が止まっただけ。即時撤退再開を具申。」
「鈴蘭の言う通りだね。撤退を再開しよう。」
『了解。』
8312分隊の五人は、第六層へ向かいスロープを再び走り出した。無理やり作り出した好機を無駄にしてはならない。今すぐに、少しでも距離を稼がねばならない。
ゴールへの距離、月人との距離。共に重要な距離だ。月人の足止めに成功した今、8312分隊は全力でスロープを駆け下りることに専念する。
―これで1%でも死傷確率が下がれば良いのだけどね。―
小和泉は、心にも無いことを考えながら走り続ける。戦闘予報は沈黙を保ったままだった。
8312分隊の戦術は、古来より伝わる戦術の一つ、釣り野伏せの改良版だった。
囮役が敵を惹きつけ、伏兵が側面から仕掛けるのが本来の釣り野伏せだ。
囮役は小和泉が引き受け、進行先に手持ち全ての指向性対人地雷を伏兵の代わりとして床に仕掛けた。
小和泉が地雷原を通過し、月人の先頭集団の密集箇所にて、桔梗が遠隔操作により地雷を一斉爆破した。
指向性対人地雷は、爆発により中に封じられた幾百もの細かなセラミック球が上方へ凄まじい勢いで撒かれた。微細な弾は、月人の毛の隙間に入り込み、月人の肉を抉った。先頭集団は足を奪われ、その場で頓挫した。
背後の月人は突然頓挫した月人に転び、上に圧し掛かる。それを見た第二線の月人達は止まろうとするが、何も知らない後続の第三線は、止まることをせず、最大戦速の勢いそのままに突撃した。
第二線は、目の前に突如できた肉壁に行く手を阻まれ、そのまま第三線に押し潰されていった。月人同士の四肢が複雑に絡み合い、複雑怪奇な圧死体を大量に生み出した。床にはくるぶしまで埋まる血の池が生まれた。
さらに、その第三線も同じ様に後続の第四線に押し潰され、肉壁に喰い込み、その一部と化した。
肉壁はさらに高く、強固なものになっていった。
こうして、極大な負の連鎖が生まれ、月人自身による肉の防御壁が完成したのだった。
今は月人達に大混乱が発生し、完全に足を止めてしまっていた。落ち着くまで多少の時間は必要であろう。しかし、混乱が収まれば、肉壁を乗り越え、進軍を再開することは必至だった。
このわずかな時間を活用できるかが、831小隊の生死の分かれ目となるのは誰の目にも明らかだった。
二二〇三年二月四日 一一〇二 KYT 第六層スロープ
8312分隊は、スロープをひたすら走り続けた。小まめに背後の映像を確認し、月人の追撃を警戒する。だが、一向に月人は追いすがって来ない。
小和泉達は、さらに走りに専念する。来ない敵に怯え、足を弛める方が恐ろしい。前へ前へ走るしかないのだ。
幸いなことに月人は、肉壁の突破に失敗したのか、態勢の立て直しに時間がかかっているだけなのか、後方カメラが月人の姿を捉えることは一度も無かった。
第三層を抜け、続いて第四層を抜けた。
総司令部は相変わらずスロープの隔壁を降ろさず、側壁の大扉は全開していく。だが、月人は肉壁に遮られたのか、後方表示の画面に映る気配は無かった。
何事も無く、第五層も走り抜けようとしていた。
全力疾走を続けている為、さすがの小和泉も息が上がり始めた。
自然種の限界を超えた撤退戦を行ったにもかかわらず、未だに体力が残っている方がおかしかった。古流武術の錺流による鍛錬の成果なのだろうか。
揺るかなカーブを走り続けると、ようやく第六層の隔壁が見えてきた。
「ハァハァ。ゴールか。」
思わず小和泉は、声に出して呟く。分隊無線に流れた筈なのだが、誰も反応をしなかった。
桔梗達は、小和泉の体力の低下を考え、会話することを自粛した。小和泉も独り言のつもりであり、返事は期待していなかった。
見えてきた第六層の入口は、車線を塞ぐ様に二両の装甲車が並び、屋根に装備された機銃がこちらに狙いをつけていた。月人への備えであると信じたい。
左右の歩道には、隙間を埋める様に大盾を持った兵士が幾人も立ち、何者もの侵入を拒んでいた。
唯一の抜け道は、二両の装甲車の間の狭い空間だった。人一人分だけの車間が空いていた。その奥では、規則的に白い光が点滅していた。
―ここに来て。―
その点滅は、その様に訴えかける様だった。現に耳に心地よい聞き慣れた声が小隊無線へ鮮明に入ってきた。
「錬太郎、来なさい。」
東條寺の涙声だった。どうやら先行していた鹿賀山達は、無事友軍に保護された様であった。
「奏、今行くよ。」
小和泉は優しい声で答えた。
小和泉達は、装甲車の合間を駆け抜けていく。装甲車は荒野迷彩に横一文字の黒い帯が足されていた。
憲兵隊所属の装甲車であることがすぐに分かった。ここを防備している兵士達も黒い帯をたすき掛けにしていた。黒い帯は憲兵の証である。
―そうか、予備兵力はもう無いのか。憲兵隊が前線を受け持つまで追い込まれたのか。―
小和泉は、その事実を噛みしめる。地表の放棄。地下都市表層部の占領。つまり、日本軍の大敗だ。
これでは地上探索どころではない。数万匹の月人に対して、表層部奪還戦もしくは第六層絶対防衛戦を強いられることを覚悟した。
背後で隔壁が閉鎖されていくのが、後方モニターに映されていた。
―あぁ、やっと追いかけっこが終わるんだな。―
小和泉の気が弛み、足がもつれた。だが、まだ東條寺のもとへ辿り着いていない。足に力を入れ、踏み止まり、体勢を立て直し、走り続ける。
正面には、ライトを点滅させる東條寺の姿が見えた。ヘルメットを脱ぎ、髪は乱れ、眼の下には隈が出来ていた。疲労困憊であることは十分理解できた。だが、小和泉を迎え入れる為に足を震わせながらも立ち続け、ライトを点滅させ、小和泉を導く。そんな東條寺が愛らしく、小和泉の戦闘で冷え切った心がほんの少し緩んだ。
小和泉が近付くにつれ、東條寺の両頬に光る物が伝っているのが、肉眼でハッキリと見えた。
東條寺はライトの点滅を止め、小和泉のもとへと、たどたどしい足取りで歩みを進めた。
小和泉は全力で、東條寺は一歩一歩、お互いの距離を詰めていく。そして、東條寺は歩みを止めた。そこが体力の限界だった。前のめりに東條寺の体は倒れていく。受け身すら取ることが出来ない程に消耗していた。そこへ小和泉が滑り込む様に下から東條寺の体を包み込み、床に押し倒される様な体勢となった。お互いが複合装甲を着ているのがもどかしかった。温もりと柔らかさを感じることが出来ないからだ。それでも好きな人に抱きしめられ、抱きしめることが嬉しく、幸せを感じる時でもあった。
「おかえりなさい。錬太郎。」
東條寺は小さな声で小和泉に囁いた。
「あぁ、ただいま。奏。」
小和泉はヘルメットを脱ぎ、東條寺に心からの言葉を伝えた。
「さすがに疲れたよ。どうやら、死に損ねたみたいだね。」
「冗談でもそんなこと言ったら、桔梗達が悲しむ。」
「ふ~ん。奏はどうなのかな。」
「私は怒る。絶対に許さない。どんな形でも生きて帰りなさい。手足を失っても這ってでも帰りなさい。どんな状況でも愛せるから。」
「それは嬉しくも重いね。」
「そうね。重い女かもね。絶対に逃がさないから。」
「そうだね。奏からは逃げられないかもね。これが僕の。違うな。僕達のあるべき関係なのだろうね。」
「その言葉って、言葉通りなの。それとも。」
「さてね。どうなのだろう。僕は気分屋だから、次の瞬間には変わっているかもしれないよ。」
「なら、固定してあげる。」
東條寺は、小和泉の両頬を両手でやさしく挟み、顔を近づけていく。瞼はゆっくりと閉じられた。
小和泉はされるがまま、大人しくしていた。言葉通り、顔を固定された。いくらでも逃げることはできるはずなのだが、逃げる気にはならなかった。小和泉も静かに瞼を閉じた。
東條寺の吐息が小和泉の唇にかかる。甘い香りが漂う。
ゆっくりと小和泉の唇に東條寺の唇が重なる。お互い長時間の戦闘の為か、唇はかさつき、ひび割れ、ささくれていた。しかし、柔らかさと温かさは十二分に伝わってきた。
一緒に汗の匂いも鼻に届くが、逆にお互い生き残ったことを実感させた。
存在を確かめ合う為、しばらくの時間、人目も気にせず、熱い抱擁を続けていた。
小和泉の精神状態は、ようやく戦闘態勢が解かれた。急激に精神が弛み、日常に戻り、東條寺への想いも固定されてしまった。




