145.第二十六次防衛戦 生き通せ
二二〇三年二月四日 一〇四八 KYT 第一層スロープ
831小隊は、広いスロープを汗まみれになりながら走り続ける。日本軍制式野戦服は、屋外での残留放射能による放射線を防ぐために気密性が高い。普段の戦闘行為であれば、透湿性能が上回り、汗が溜まることは無い。
だが、今の運動量は野戦服の透湿性能をあっさりと上回り、上下の肌着は汗をたっぷり吸い込み肌に纏わりつく。それを気にできる者は誰も居ない。今は生き残ることに必死だった。些事に気を回す余裕は無い。走る。スロープを駆け下りる。それが最優先事項である。
背後からはビッシリとスロープを埋め尽くす月人が黙々と追い迫る。月人に追いつかれれば、塵芥の様に踏み潰されるに違いなかった。
地下都市に入ってから、月人による雄叫びや吠え声などが無くなった。
月人の肉球が床に当たるヒタヒタヒタヒタという素早い足音は、831小隊の距離と心を同時に追い詰めていく。
月人の異様な沈黙が、兵士達の恐怖心を一層煽っていく。
ある種の静寂さを、突然、かしましい男の声が破った。
「理解できません。この優秀な私が殿を務めさせられ、挙句には救援も無く、見捨てられるとはどういうことですか。
全く信じられません。総司令部は、私を過小評価しています。憤りしか感じません。
第六層に到着次第、有線通信で抗議を致します。有線通信であれば、無視することはできないでしょう。いえ、作戦完了後、直訴に行くべきでしょう。そうです。直訴ならば、生還できる有能な者としてのアピールも同時にできますね。ふふふ。我ながら見事な思考です。」
この様な状況に落とされても、相変わらず自己評価が高い8314分隊長の蛇喰少尉の粘着する様な声が無線に響いた。
いつもは皆の神経を逆撫でする発言が、今回に限り頼もしく感じた。幼稚な発言だった。普段ならば、聞き流す様な低俗な意見だった。
しかし、それを転機とさせた。
「蛇喰少尉の言う通りだ。ここで死んでは誰にも文句が言えんぞ。生に這えつくばえ。命にしがみつけ。」
鹿賀山は、蛇喰の意見をここぞと肯定的に取り上げた。そして、魂を籠め、叫んだ。
「生き通せ。」
鹿賀山が叫ぶことは、非常に珍しいことだった。どの様な状況下でも声を荒げることなく、合理的な命令を下す。それが鹿賀山の士官としての特長だった。
それでも叫ばざるを得なかった。鹿賀山も鬱屈した気持ちを抱え込んでいた。
そこへ、皆が後ろ向きな考えに侵されている中、幼稚ではあるが、あの蛇喰が唯一の前向きな発言をしたのだった。
鹿賀山は、即座に重たい心を切り捨て、正面を睨み、蛇喰の言葉を受け入れた。
蛇喰の発言は、珍しく皆の心に素直に響いた。
この機を見逃す鹿賀山では無かった。利用しない手は無い。
自己評価が異常に高い蛇喰の意見は、皆と対立することが多い。
総司令部を見返す。直接文句を言う。それらを達成するためには、絶対に生き延びる。
誰でも簡単に理解できることだった。
鹿賀山の号令により、皆の中に絶対唯一の共通認識が刷り込まれた。
「生き通せ。」
「生き通せ。」
「生き通せ。」
「生き通せ。」
「生き通せ。」
鹿賀山が最後に叫んだ言葉を兵士達は様々な声の高さ、口調で声に出し繰り返す。そこに籠められた思いは同じだ。鹿賀山の叫びに言霊が宿ったのだろうか。
『生き通し、総司令部を見返す。』
それが原動力となり、疲れきった体の内側から、自分の肉体を溶かす様に熱く、激しく焼く様な力が滾り、鎖に縛られたかの様に重く感じていた手足が、その戒めから解き放たれた軽快感に包まれた。
精神論だけでは、結果が出ないのが普通である。一方で、その常識を覆してしまうのも事実である。未だに人類は、二十三世紀になってもその謎を解き明かしてはいない。
窮地に追い込まれた人間は、日常を超える力を発揮することがある。今がその時だった。
この苦境を生き延びる為に、831小隊は普段の実力を超える力が必要だった。
それが蛇喰の無駄に高いプライドによる発言から生まれ落ちた。
瓢箪から駒とでも言えば良いのだろうか。
一時は月人の群れに飲み込まれるのは時間の問題だと思われた。今は、831小隊の撤退速度が増した。
それは、生き残る確率が僅かばかり上昇したことを意味した。
小和泉は、冷ややかにその盛り上がりを見つめていた。言葉遊びに小和泉の感情は左右されない。
そして、水を差す事もしない。このつまらない言葉遊びが、兵士達の士気を高めるには必要なことであると理解しているからだ。
小和泉の8312分隊は、最初からこの士気の乱高下とは無縁だった。士気は上がりも下がりもせず、平静を保っていた。自分達が、冷たい算数に当てはめられたことは、殿を命じられた時から理解していた。第六層まで戦いながら走り抜くペース配分を最初から心掛けていた。塹壕に潜ったり、飛び越えたりして進むより、ただ走るだけの長距離走なぞ、苦にならない。
8312分隊の士気が下がらなかったのは、死地に慣れてしまったのだろうか。ゆえに狂犬部隊という二つ名で呼ばれているのかもしれない。
「やれやれ、僕が小隊長で無くて良かったよ。あんな恥ずかしい役を演じないといけないなんてね。鹿賀山がいてくれて助かったよ。もしも鹿賀山が戦死していたら、次席指揮官は僕だからね。あんな真似したくないよね。僕なら他の隊は、盾にしちゃうかな。しかし、うちの子達は落ち着いているね。絶望にも希望にも囚われていないんだね。」
思わず小和泉は分隊無線で呟いてしまった。この体育会系的な盛り上がりに馴染めないからだろうか。
831小隊を覆う雰囲気から逃げたかった。
「はい、錬太郎様に鍛えられましたから。常に冷静である様にと。」
「二社谷師匠も同じことを言ってたぜ。」
「私は最初からこの性格。この程度では揺るがない。」
「防人に感情は不要です。」
桔梗、菜花、鈴蘭、カゴと小和泉の呟きにそれぞれ反応した。
「みんな意外に余裕があるんだね。僕なんか怖くて怖くて泣きそうだよ。誰か胸を貸してくれないかな。そこで泣くから。」
「×です。貸しません。」
「嘘つきだよなぁ。自分だけは死なないと思っているくせに。」
「第六層到着後、貸す。」
「宗家が恐怖ですか。お戯れを。」
「優しいのは鈴蘭だけだね。くすん、後で貸してね。めっちゃグリグリしちゃうからね。
さてと、おちゃらけは終わり。誰も死ぬ気は無いね。本気を出すよ。総司令部の計算を狂わせる。やるよ。」
『了解。』
即座に8312分隊の動きが変わった。打ち合わせは何もしていない。長年の経験と実績、それにお互いを心から理解していた為、言葉は不要だった。小和泉の考え方は、三人娘には脳髄まで染み込んでいる。後は実行するだけだ。カゴはその状況に臨機応変に合わせる能力がある。歯車となるのは簡単だった。
小和泉と菜花は全力で走り出し、振り返って止まると立射のまま月人をアサルトライフルで撃ち払い続ける。狙うのは腰や足の下半身。この部分は、比較的獣毛が薄く、エネルギー弾が貫通しやすい。貫通することにより背後の月人も負傷させることも可能になる。
特に今の密集状態では、左右に細かく揺れる頭部を狙うよりも、下半身を狙うことにより命中率と負傷率が各段に上昇する。
足を狙うことによりその場で倒れ、別の月人が躓き、後続の月人達に踏み潰される。一発のエネルギー弾で数匹が圧死していく。小和泉が走りながら考えていた効率を追求した方法だった。
敵が密集するほど、狙いが外れることは無い。いや、狙う必要が無いと言うべきだろう。
二人の間を桔梗と鈴蘭が駆け抜け、距離を取ってから小和泉達と同じ様に振り返り、立射を同じ様に行う。
すかさず、小和泉と菜花は反転し駆け抜け、同じことを繰り返す。ただ走るだけより体力を消費するが、確実に月人の群れの足を乱れさせた。
先程よりも月人の進軍速度が遅くなった。
カゴは射撃班に追随し、常に最後尾で撃ち続けた。もっとも体力のいる役割だが、涼しい顔で呼吸も乱さず、射撃を続けた。
地下都市OTUにて、小和泉を苦しめた防人達の血を受け継ぐ者の実力を如何なく発揮してみせた。




