141.第二十六次防衛戦 哀れなる最期
二二〇三年二月四日 一一一六 KYT 長蛇砦
「あの子はアホやさかい。気つかんかったやろな。思てたとおりや。優しゅう毛並みに沿って切ったら、刃通るやないか。鎧の毛皮の弱点がわからへんとは、修行はやり直しやな。宗家の名を上げたん早おしたな。鍛え直さなあかんは。」
シュラインは、鉄狼からさっさと離れ、中隊長へと近づいた。
「ほな、うちの出番はここまでにしときます。あとは煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ。」
「止めを刺さないのか。」
「皆はん、恨みつもりがあるんとちゃいますの。反撃はできひんようにしてますさかい。思う存分、お好きなように。急がんと総司令部から生きたまま捕獲せよと言われますえ。」
中隊長は、鉄狼を見つめた。確かに鉄狼は膝を折り曲げたまま大の字になって床に倒れている。首は左右に振ることはできる様だが、首から下は一切動いていなかった。シュラインの言葉は事実の様だった。
床に横たわる鉄狼の姿を見ると、中隊長の胸の奥底からどす黒い思念が沸々と湧いてきた。
―シュラインの言葉に甘えるか、総司令部の、今後の鉄狼対策に役立てるべきか。―
中隊長は悩んだ。大隊長に報告をした時点で、生け捕りは確定する。だが、長年連れ添ってきた家族同然の部下の半数を失った。この無念、恨みは、簡単に消すことはできない。
未来を取るか、今を取るか、中隊長は葛藤をしていた。
葛藤する中隊長に興味を失ったシュラインは、奥に向かって右手を上げた。すると二人の促成種の男が奥から走ってきた。司法府警備部の制服を着用し、顔が分からぬ様にシュラインと同じバイザーを付けていた。日本軍制式採用のアサルトライフルを背中に担ぎ、腰にはアサルトライフルの機関部であるハンドガンと伸縮電磁警棒を装備していた。武装警備官と呼ばれる者達だった。
―武装警備官は、重要人物の警護と地下都市内の一般警備官が手に負えない凶悪犯を相手にする特殊部隊だったな。そいつらがシュラインの部下ならば、シュラインも武装警備官の一人だろうか。―
中隊長は、シュラインの所属を司法府警備部であろうと判断した。事実を知っても、今の状況に変化は無い。ならば、早く結論を出すべきだ。
警備官は、床に倒れていた椅子と机を部屋の隅にセットすると、当然の様にシュラインはそこに座った。
「おおきに。」
警備官へ感謝を述べるとそのまま静かに鉄狼の様子を見守った。両脇には警備官が直立不動の姿勢で立った。
巫女とそれを守護する騎士の様に見え、そこが神殿であるかの様な錯覚を与えた。
「本当に好きにしてもよろしいのですか。」
中隊長が恐る恐るシュラインへ尋ねた。が、シュラインは何の反応も示さなかった。
代わりに警備官の一人が答えた。階級章を確認したが、装着していなかった。
個人を特定できない様にしているようだった。ならば、対等の立場として振る舞うことにした。
「如何様にしていただいても結構です。軍では対処できない状況になれば、即座に対応します。こちらが勝手に動けば、軍の妨げになるでしょう。待機しておりますのでご安心を。」
―これは鉄狼へ恨みをぶつけよというシュラインの心配りだろうか。―
「そちらの意向は了解した。では、司法府から鉄狼の処遇について何か聞いているのか。」
「<脅威を排除せよ>です。排除しましたのでお好きな様にして下さい。生かしたまま研究所に送るもよし。それとも。時間はありません。」
―つまり、司法府へ報告するまでに止めを刺せば、問題は無いという事か。なるほど、理解した。警備官の、いや、シュラインの配慮に甘えよう。後の事は考えぬ。―
中隊長の腹は決まった。
「了解だ。感謝する。」
中隊長は、指先までしっかり伸びた美しい敬礼を三人に捧げた。
二二〇三年二月四日 一一二一 KYT 長蛇砦
「第一中隊の全兵士に告ぐ。シュライン殿の好意により、鉄狼への止めを任された。俺が責任をもつ。好きにして良し。かかれ。」
中隊長のその命令が引き金となり、一斉に兵士達は鉄狼へと群がり、溜まりに溜まった鉄狼への恨みつらみを吐き出した。
「野郎共、鉄狼にお礼参りだ。」
「こいつ反撃できねえぞ。」
「ほれほれ。」
「おい、簡単に殺すな。」
「急所は外せ。楽にさせるな。」
「仲間の苦しみを味あわせろ。」
「そうだ。そうだ。」
「おい、俺にもやらせろ。」
「そろそろ代われ。」
「彼を、彼を返して!」
「奴には金を貸してたんだ。どうしてくれんだよ。奴が、奴がいなきゃ、馬鹿、できない、じゃないか。」
「ははははははは。」
様々な言葉を吐き出す者の他に、一切口を開かず、黙々と手を動かす者もいた。
凄惨な宴が始まった。筋肉が軋む音、筋肉が切れる音、骨が折れる乾いた音。兵士達の怒声。かすかに聞こえる啜り泣きの声。そして嗚咽。
様々な音と声が、兵士達の輪から不協和音として奏でられた。兵士達が群がった為に鉄狼の姿は確認できない。だが、聞こえてくる音からどれだけ凄まじい暴行を受けているか、想像はあまりにも簡単だった。
人は、斯くも簡単に残虐になれるものかと、中隊長は思い知らされた。だが、武装警備官達は涼しい顔でその状況を見守っている。普段から、その様な人間の闇を仕事で見てきたのであろう。
―シュライン達には、この惨劇も日常でしかないのかもしれない。裏でどれだけの非合法な事をしているのだろうか。いや、詮索してはならんな。それを知ることは、俺があの鉄狼と同じ目に合うことになる。そんな気がする。―
中隊長は、シュライン達に視線を送ることなく、鉄狼を取り囲む兵士達を注視した。
そうでなければ、シュラインの表情を窺ってしまいそうになるからだ。それは、今は恐ろしい事であり避けたかった。
鉄狼の呻きが、じわりじわりと小さくなっていく。だが、呻きは止まらない。兵士達の憎しみは激しいものだった。それゆえに、決して致命傷は与えない。誰かが間違えて急所に攻撃を加えそうになると四方から他の兵士達がそれを妨害した。手違いで殺すことは有り得ない。
戦闘、つまり、殺しの専門家による嬲り殺し。
あえて、急所を確実に外し、痛覚を強調する箇所のみを狙い、頭部は狙わない。出血はさせない。内臓破裂もさせない。筋肉、神経、骨など痛みを与えられる箇所は、いくらでもある。気をつけなればならないのは血管の損傷だ。動脈だけは傷めつけぬ様に十二分に注意を払った怨念の一撃を放ち続けた。
それは、失血死や脳挫傷などで簡単に終わらせないという兵士達の執念だった。だが、さすがの鉄狼も数え切れぬ暴力の渦に溺れ、肉体的消耗よりも精神的消耗が激しかった。
そして、唐突に静寂が戻った。他の部隊が屋外の月人と交戦する音だけが残った。
兵士達は、憑き物が落ちたかの様に静かに持ち場へと戻り、鉄狼の周りから潮が引く様に人が消えていく。
破られた扉を塞ぐ者。機銃に取り付き、接近する月人へ斉射を始める者。銃眼からアサルトライフルを突き出し連射する者。兵士達は、命令が無くともするべきことに戻っていった。
残されたのは、部屋の中央に転がる全身を赤、青、黒色に変色させ、二回りほど大きく腫れ上がった肉塊だった。
中隊長は、一人肉塊に近づき、膝を屈めた。
鉄狼の頭部は、ほぼ無傷だった。胴体の全ての筋肉は、内出血と共に大きく腫れ上がっていた。
若干の出血は認められたが、致命傷になる怪我は見当たらなかった。だが、胸と眼球は、ピクリとも動いていなかった。
中隊長は手袋を外し、鉄狼の首筋の毛をかき分け、頸動脈に指を当てた。指先に温かさを感じた。だが、指先から脈動を感じることは無かった。天井照明が直接目に当たっているにもかかわらず、瞳孔は閉まらず、大きく見開いたままだった。
どうやら、外傷性ショックにより死亡したようだ。
「終わったか。」
狂悪な宴を見守っていた中隊長は我に返り、手袋を着けなおしながら、後味の悪さを噛みしめていた。
―これで良かったのだろうか。これで良いのだ。そうでなければ、部下達が浮かばれない。これで良い。これで良い。―
中隊長は心の中で何度も何度も『これで良い』と繰り返した。
中隊長は、一方的な暴行を座興として楽しんでいたシュラインへ報告した。
「鉄狼の死亡を確認しました。救援並びにお心遣い、感謝します。日本軍第二大隊第二中隊を代表して、改めてお礼を申し上げる。」
その声は、機械的で感情が籠っていなかった。
「気にせんでもええんやで。うちの趣味やさかい。も少しおるし、なんぞ用があるんやったら言うてや。」
シュラインは机の上で手を組みつつ、微笑んだ。その微笑みは、あまりにも酷薄だった。バイザーで顔半分が隠れていても隠せぬものでは無かった。口の形だけでも分かってしまう。もしもバイザーがなく、顔の全てが見えたのならば、誰もが恐怖で足を竦ませたかもしれなかった。
―関わってはならぬ人種だ。これ以上、頼ってはならない。己の戦闘に専念しよう。―
中隊長の背中一面に鳥肌が立ち、奥歯が震え、噛み合わせが合わなくなった。
中隊長は逃げるようにその場を離れ、最前線である外壁へと向かった。もう背後を振り返る余裕は無かった。
―シュラインは人間じゃない。別の生き物だ。俺達とは違う。頼るな。当てにするな。我々だけで砦を守備するのだ。―
中隊長はそう心に誓い、大隊長へ鉄狼の死亡を報告し、迫りくる月人の排除に専念した。




