119.東條寺、逆鱗に触れる
二二〇三年二月三日 一九三五 KYT 中層部 金芳流空手道道場
カゴの部屋は、道場の三階にあった。八畳ほどの洋室にベッドと小さな黒いカーペットの上にローテーブルが置かれているだけの殺風景な部屋だった。装飾の類は一切無い。
生活の全てを武に捧げている様な人間の部屋だった。
ローテーブルを囲む様に東條寺、小和泉、二社谷、カゴの四人はカーペットに座った。
「錬ちゃん、やっと来てくれた。お姉ちゃん、寂しかったんだぞ。」
二社谷が小和泉へしなだれ、耳元に優しく囁く。二の腕が胸に挟まれるが、愚息はピクリとも反応しなかった。やはり、小和泉は二社谷を異性として見ていなかった。
「姉弟子、御無沙…。」
「姉弟子?」
二社谷の声に殺気が籠る。同時に絡みつかれている腕の関節が極められ、電気に似た激痛が走る。
「姉様。御無沙汰しております。お伺いできず申し訳ありませんでした。」
小和泉は、即座に気配を読み取り、二社谷が希望する呼び方を思い出した。
―絶対に機嫌を損ねてはいけない。カゴを預かってもらった恩もある。空気を読むんだ。―
小和泉は、月人との戦い以上の緊張感をもって、二社谷との面会に臨んだ。
「いいのよ。錬ちゃんが元気なのが一番。でもね。こまめに顔を出して欲しいな。お姉ちゃん、心配しちゃうよ。」
関節技は解かれ腕から痛みは消えたが、逃れることはできそうにない。とにかく、二社谷の機嫌が直った様だった。
「わかりました。善処します。」
「喋り方が固いよ。ほら、小まめに来ないからだよ。毎日来ても、ううん、ここに住んでもいいのよ。お部屋も一杯あるし、桔梗ちゃん達も一緒でもいいわよ。」
「亜沙美姉様。それは困ります。私達、結婚するんですから。」
東條寺が二人の会話に割り込んだ。正気に戻っていた東條寺の余計な一言が、部屋の空気を即座に凍りつかせた。
二社谷の殺気が大きく膨れ上がり、部屋の空気を一変させた。
小和泉は、慌てて二社谷の腕からすり抜け…、られなかった。逃がすつもりは無いらしい。
カゴはテーブルから離れ、臨戦態勢に入った。二社谷が、次にどう動くのか警戒しなければならない。攻撃が来るならば、瞬きすら恐ろしい。
東條寺の発言の結果が、小和泉の目にありありと浮かぶ。
小和泉とカゴの中では、この部屋に血と反吐の池が広がることが確定した。
これから起こる惨劇に気付かず、東條寺だけが無邪気にモジモジと自分の発言に照れていた。
冷え冷えとした乾燥した空気の部屋の中、一名を除き、これから発生する暴風に戦々恐々としていた。
そして二人の予測、懸案、いや決定事項が発生した。
「おい、錬太郎。てめえ結婚だと。あぁ、誰の許可受けとんねん。儂に報告無しかい。誰に断って結婚するつもりやねん。ええ度胸しとんの、ワレ。」
般若の様な形相になった二社谷が、小和泉の野戦服の胸元を鷲掴みする。避けることは可能だったが、避けると却って話が拗れることは必至だった。
それにしても、般若となっても二社谷の美しさが、損なわれないことに小和泉は感心していた。
一方で突然の二社谷の変貌に東條寺は、面喰い、硬直していた。
「え、なに。どうなったの…。」
初めて見る二社谷の変化だったのだろう。一方でカゴは落ち着いていた。保護されてから二社谷の逆鱗に触れたことが何度かあるのだろう。二社谷の怒りに慣れている様だった。
この変貌は、道場生達は一切知らない。数人いる師範代の中でも師範候補の一人だけが知っていた。
「姉様。結婚しません。予定も約束もしていません。安心して下さい。」
「いえ、結婚は決定事項です。責任は取ってもらいます。父と兄に話をし、承諾を貰っています。」
小和泉の言葉に敏感に反応した東條寺は、即座に正気に戻り、反論した。
―くそ、もう少し呆けていてくれれば、良いものを。―
「奏。そんな話は、僕は承諾していないし、結婚するつもりは無いよ。それどころか、挨拶にも行く気は無し、そんな話は初耳だよ。勝手に僕の未来を決めないでくれるかな。」
「そんな…ひどい…。遊びで私の純潔を奪ったの。私は結婚するまで純潔を守るつもりだったのに…。それなのに力づくで…。昨日だって、無理やり…何度も、何度も。あんな屈辱的な姿勢までとらせて…。」
東條寺が大袈裟な態度で悲劇の主人公を演じる。誰が見ても、辱められ、泣き崩れる乙女の姿があった。
―確かに昨日は、奏をキッチンにて可愛がってあげた。久しぶりだった為に、張り切り過ぎた面は認めよう。だけど、後から強い刺激を求めてきたのは奏の方じゃないか。僕に責任転嫁されても困るんだけどなぁ。―
と小和泉は、昨晩の濃密な営みを思い出した。楽しいひと時であった。
奏の態度があまりにも大袈裟だった為、小和泉とカゴには演技だと分かった。女の武器を最大限に使用したつもりだろうが、逆効果だった。
それは、二社谷の怒りの業火に燃料を投下するだけだった。実際に有る筈の無い般若の角が大きく鋭く伸びた様に見えた。
二社谷の渾身の貫手が小和泉の目を抉りにかかる。小和泉は、顎を引き、額で受け止める態勢を取った。
それを見た二社谷は、指が壊れぬ様に素早く掌底へと切り替え、小和泉の額を打ち貫いた。
小和泉の脳が大きく揺らされ、頭蓋一杯に衝撃が広がる。奥歯を強く噛みしめ、衝撃に耐えた。
怒り狂った二社谷は、力を発散しなければ止まらない。小和泉は怪我などしたくない。全力で応戦するしかなかった。
腕の拘束を解かれた小和泉の反撃は、右正拳突きから右前蹴りへと繋いだ。二社谷は正拳突きを払い流し、蹴りも軌道から半身となって前へ踏み込んで避ける。これで二人は、お互いの足の間に自分の足を割り込ませ、完全に密着する状態になった。
同時に二人の右手がお互いの左耳を狙う。耳を平手で叩き、鼓膜を破る攻撃だった。
―同じ流派。考えることは同じだね。―
何気なく、小和泉の脳裏に浮かぶ。
避け方も同じだった。首を傾げて、平手打ちを耳と違う場所で受けた。だが、ここからの攻防は違った。
小和泉は二社谷の肋骨の一番下にある浮遊肋に左拳を押し当て、予備動作無しの正拳突きを放った。本来は拳をしっかり背後まで引きつけて、助走をつけて打つべき正拳突きだが、密着状態では拳に勢いを付ける距離が取れない。そこで表の金芳流では無く、裏の錺流にある技の一つである正拳突きを放った。下半身の筋肉を弛緩から一気に緊張させ、その力の変換を拳から衝撃として敵の体内に放つ。浮遊肋は脆い。弱い力でも折ることは簡単だ。そして確実に折った。その手ごたえを小和泉は拳から感じ取った。
二社谷の攻撃は、単純かつ狂気的だった。
原始からの攻撃手段の一つ、噛みつきだった。歯並びの美しい口を大きく開け、小和泉の鼻を噛み千切りにかかる。
歯が皮膚に当たり、破り、肉へと達しようと瞬間に小和泉の技が効果を発した。
打撃の衝撃と骨折の痛みにより、二社谷は息を詰まらせ、酸素を欲した。小和泉の鼻から二社谷の口が離れ、身体も離れていった。
二人は、密着状態から間合いを取る状態で向かい合う態勢となった。小和泉の鼻には、綺麗な歯型と情熱的な赤いキスマークが残り、傷口からは口紅とは違う赤い色の液体が垂れていた。
少しばかり余裕ができた小和泉は、視界の隅に東條寺の姿を捉えた。
東條寺はカゴの背に守られ、部屋の片隅で呆然としていた。二社谷の突然の変貌が理解できない様だった。初めて二社谷の素顔を見たのであろう。
―あっちはカゴが何とかしてくれそうだね。じゃあ、僕は姉弟子に専念しましょうか。―
改めて二社谷を観察する。二社谷は半身に構えて腰を落とし、中段の構えを取り、隙が無かった。すでに浮遊肋骨折による痛みは、五感から切り離しているのであろう。
怒りに任せて暴走するタイプだが、殺し合いに関しては一切の隙を見せない。
いわゆるバーサーカーであれば、対処もし易いのだが、二社谷は真の殺し屋だった。どれだけ怒りに支配されようとも、冷静な攻防を繰り広げてくるのが面倒だった。
一方、小和泉は自然体に立ち、脱力の状態を取り、後の先、つまりカウンターを狙っていた。
以前の攻防で無防備に胸倉をつかみ、仕込み刃で指先を切り刻まれたことも、腕を斬り落とされた事も覚えている。今回もどこかに暗器を仕込んでいることは間違いないだろう。特に胸元で揺れているリボンが怪しかった。




