55話 怒れる人々
主人公不在回です。
「ええっ、アル様をひっぱたいちゃったの!?」
今朝早く、お貴族様が突然やって来たという日のお昼過ぎ。
ここに来て初めて食べたふわふわなパンに今までは高くてとても買えなかった玉子を炒ったものと葉野菜を挟んだ“タマゴサンド”という軽食を皆で頂いている時、領主の館でお世話になっている私とカンラは、万が一の事を考えて、暫く家で大人しくしているようにと領主様より仰せつかった。
とはいっても、私とカンラであれば足音ほどの小さな音なら十分に拾うことが出来るのは領主様も知っているので、正しくは「目立った行動は控えるように」という事らしい。
今じゃお昼休憩が習慣になりつつあるけど、ここに来るまでは、孤児院の仕事となんとか時間をやりくりして生き延びるのに精一杯で、お昼休憩なんてとてもじゃないけど取ることは出来なかった。
でも、ここに来てからは毎日一定の時間にお休みがあって、しかもその時間にはちょっとしたおいしい軽食やたまに甘いおやつを頂けたりする。
本来であれば、毎日の朝晩の食事の面倒を見てもらうだけでも相当な負担をかけている私達は遠慮するべきだと分かっているけれど、カンラの無邪気な笑顔や奥様達のご厚意、なによりも目の前の料理がとても美味しいことを既に知ってしまっている私は、料理長が作る料理の数々の前ではひれ伏すしかなかった。
……うぅ。私はいつからこんなに食いしん坊になっちゃったんだろう?
それはそれとして、今私が心配なのはカンラがお昼休憩に現れなかったこと。部屋の中や他の部屋なども探させてもらったが、カンラがどこかへ消えてしまったのだ。
いつも誰よりもお昼休憩を楽しみにしているあの子がいないなんてと、領主一家様方にも心配をかけてしまった。
結局、カンラは姿を見せないままお昼休憩は終わってしまい、休憩後には私達と同時期にここに来たロビンさんに見てもらいながら黙々と作業を再開させる。
ロビンさんの娘であるサリーちゃんとは同い年なはずなのにその差は歴然としていて、自分が情けなくなってしまう。けれど、「初めてでそれなら上出来さ。先輩風吹かせているサリーだって、初日は5針縫うたびに指に傷を拵えていたからね」とロビンさんは朗らかに笑って慰めてくれた。
こんなに裁縫が得意なサリーちゃんがという正直信じられない気持ちもあるけど、顔を真っ赤にして「そうよっ、最初が下手っぴでも毎日頑張って続ければ上手になれるんだから!」と口を尖らせていた。
そのあとサリーちゃんはそれでも母親のロビンさんにはまだまだ敵わないのだと悔しそうに教えてくれたけど、私にとっては今の彼女も十分上手だと思う。
手を休ませる事なくそんな会話を続け、それでも頭の半分はカンラのことが心配だったのだけれど、サリーちゃんの突然の告白に一瞬思考が止まってしまった。
「……なんでそんなことしちゃったの?」
「だ、だってあの人身体で払えなんていうんだもん! ひどいでしょ?」
「う〜ん? アル様に限ってそれはないと思うんだけど」
サリーちゃんの必死な訴えに、ピンとこない私は首を傾げた。
それにアル様って私より3歳年下だからまだ9歳なはず。確かに私が知っている同じ年頃の男の子たちよりも遥かに大人びているかなとは思うけど、全然子供と言える歳だろう。
全く自慢にならない私の経験から言わせてもらうと、そういう欲望を知っている人はどこか目が濁っていたり、目線を合わせていても目線が合わなかったりする。それはきっと、自分の事しか見えていないからだ。
けど、アル様は何にも持っていないばかりか迷惑ばかりかけてしまう私達を受け入れてくれた。
贔屓目もあるかもしれないけど、彼女はおそらく何かを誤解している。
「……お父ちゃんと同じ事言うんだ。ねえ、ヴィラまで私の味方をしてくれないの?」
ぷくっと膨れっ面でうるうると今にも零れてしまいそうな瞳で見つめられ、ヴィラはそれ以上言う事は出来なかった。
ヴィラはもともと面倒見の良いお姉さんであり、弟のカンラはもちろん初めて出来た女友達と言っていい彼女のことも大事に思っている。だからと言って恩人を悪く言うこともしたくなくて、曖昧に笑ってサリーの頭をなでなでするしかなかった。
これは、彼女の弟が自身にはどうすることも出来ない困った言動をした時の対応で、彼が癇癪を起しても、しばらく頭を撫で続けていれば気持ちが落ち着いてくるのか、そのうち「わがまま言ってごめんなさい」と大人しくなる姉としての必殺技の一つである。
「えへへ。ヴィラってば、同い年なのにお姉ちゃんみたい」
無意識とはいえ5歳児と同じ対応をしてしまい申し訳なくなったが、照れてふにゃりと嬉しそうに笑うサリーはうまく誤魔化されたことに気付いてなくてホッとした。
……素直ないい子だと思うのに、何故こんな誤解が生まれたんだろう。
ヴィラにはこういう時、どう言ってあげればいいのか、どうするべきなのかが全くわからない。あの街にいた数年は敵対する人間ばかりを相手にして生きるのに精一杯であったため、弟以外とまともなコミュニケーションをとれなかったことが悔やまれた。
「奥様。新しいお茶を淹れてきますね」
「あらほんと? じゃあ悪いけど、お願いするわね」
サリーの様子が落ち着くと、ポットの中身が少なくなっていることに気付いてヴィラは作業の手を止める。
お昼は頂いたばかりだけれど、お茶くらいならと食卓から女性陣が裁縫をする作業台へ早変わりしたテーブルの中央に好きな時に飲めるように常に置かれているのだ。
軽くなっているポットを手に持ち、領主館の広く温かいリビングを出ると少し肌寒い廊下を通り抜けてキッチンに向かう。
扉がないキッチン部屋からは、この家の料理長であるミルクが夕飯の仕込みをしているのが見えた。
火を使っているからか、ここはリビングよりもさらに部屋の温度が高くて、それに良い匂いがたくさんする。ミルクがいる温かいこの部屋は、寒い季節が苦手なヴィラとカンラの密かなお気に入りだった。
「ミルクさん。お湯を沸かしたいので火種をもらってもいいですか?」
「ええ、いいですよ。火傷をしない様に気をつけて下さいね」
ミルクの了解を得ると、ヴィラは竃近くに吊り下げてある厚手の手袋をはめて長いトングを手に取り、徐に竃の中から小さな火種を取り出す。
火種が消えないうちに部屋の隅にある調理器具に向かうと、中央あたりにポトンと火種を落とし入れた。
これは“コンロ”と呼ばれているそうで、仕組みはよくわからないけれど、中央にある魔石を加工したあたりに火種を落とすと数十分間は火が燃え続ける。その上に網を敷けば簡単な料理やお湯を沸かすだけならこれで充分で、わざわざ時間をかけて大きな竃を熱さずに済む優れものだ。
孤児院にいた頃はこんなに便利な道具は見たことも使ったことも無かったので、最初にヴィラがここにきた時は、知らないうちに世の中は便利になったものだと感心しきりだった。
お湯が煮立ち、ポットを手にリビングに戻ろうとしたところで玄関を開ける音が聞こえた。
「あ、おねえちゃんただいま」
「カンラ!? どこに行ってたの? いきなりいなくなるから奥様達も心配してたんだよ」
「ごめんなさい」
「……カンラ?」
カンラの様子がなんだかおかしい。
いつもであれば、誰かいてもいなくても「ただいまー!」と元気よく帰ってくるのに、今日は私を見てからただいまと言った。
言葉にすれば些細な事だけど、これは体調が悪いのを隠していたり、同じ孤児院にいた男の子たちに意地悪な事を言われた時にしていた表情だ。
「ねえどうしたの? 何かあったんでしょ」
「…………」
両膝をついて視線を合わせようとするけど、カンラは暗い顔をしたまま。
今まではこうやって肩に手を置いてしっかりと目を合わせれば、目が潤んできたり泣き言がすぐに入ったのに今回はそれはない。
まさか、今日はそれより深刻な事態が起こったのか。
「あの人きらいっ」
「へっ?」
俯いていた顔を上げたかと思えば、キッと誰もいない壁を睨みつけていた。
泣くどころかとてもイキイキ……いや、ギラギラ? している。
思ったよりも元気そうで安心したけど、それよりもあの人って一体誰のことだろう。
「あの人って誰のこと?」
「僕、おっきくなったらあの人やっつける」
「…………んんん?」
だめだ。会話が成り立たっていない。
誰に怒ってるのかもよくわからないし、ある日突然将来フルボッコにします宣言をされるなんて想定外過ぎた。
男の子なら多少のやんちゃは仕方がないのかもしれないけど、獣人の血が流れているカンラが言うと洒落にならない。今でさえ同年代の2倍以上の身体能力差があると言われているのだ。しかも大人になってからだなんて、それこそ生死に関わってしまう。
普段からそんな人族と獣人のハンデを考えて暴力はいけない事だと諭して来たはずなのに、いつから彼の中では「大人になったらOK」と曲解されていたのか。
「アル様をばかにする人は許さない……」
「か、カンラ? ちょっとどこいくの!」
何を言ったのか聞き取れなかったが、不穏そうな言葉を呟いて、ふらりとリビングへ消えてしまった。
……ねえ、私がいない間にカンラに何が起きたの!?
ポツンとその場に残されたヴィラの心の叫びに答えてくれる者は現れるはずもなく、せっかく用意したお湯は冷めていくばかりであった。




