11-1 生活排水という敵(2.6k)
40代の開発職サラリーマンだった俺が、剣と魔法の世界といえるこの異世界に転生してから六十三日目。着脱自在の背負子的ハーネスで両脚の無いジェット嬢を背中に張り付けて動き回る日常を始めてから五十一日後。
第二王子の妻キャスリンがあり得ない方法で試作VTOL機【試作2号機】を強奪してから五日後。
麦畑の収穫も終わり、雨の多い季節も終わり、夏が近づく季節。
サロンフランクフルト周辺は重大な問題に直面していた。
フォードの【西方運搬機械株式会社】の工場が稼働開始。
そこに併設された設計事務所や要素技術の研究室等も動き始めていた。
ヨセフタウン居住者は専用の大型馬車で市街地から通勤しているが、他領から来た従業員や、ヨセフタウン住人だが家を持たなかった者等は工場に併設された社員寮で生活している。
そんな彼らのために酒場の出張所ができたりして、そこにも住み込みで働く人も生活している。
ちょっと前まで人気のなかったサロンフランクフルト周辺は、日中には数百名が活動、夜間でも百名近くの人間が常駐するようになり一つの街のようになりつつあった。
そうなると発生する問題がある。
【生活排水】
こちらの世界でも排水が出るのは知っていた。
人間が生活するんだから当たり前だ。
ファンタスティックパワーで何とかなるもの、あるいは何とかなっているものと思いたかった。
だが、俺のフロギストン理論が正しければこれを解決できる魔法は無い。
フロギストン理論では、魔法とは、空間中に満ちている謎の媒体フロギストンを術者の意思か何かにより物質又はエネルギーに変換するものだ。
今ある物質を消滅させたりそれの性質を直接変えたりすることはできない。
フロギストン理論で未解明の聖属性、闇属性魔法というものもあるがそれで何とかなるとも思えない。
ヨセフタウン市街地の排水はどうしているかというと、都市の東側から海につながる小川に向けて流しているとのこと。
サロンフランクフルトの生活排水も同様に海につながる小川に流しているが、ここは市街地よりも海抜高度が低いため水はけが悪い。
それでも今まで問題にならなかったのは、そこに常駐するのが管理人のスミス夫妻のみで、人数が集まるのは農園作業の繁忙期のみだったためだ。
しかも、農園作業の繁忙期でも集まるのはせいぜい数十人で今ほどの人数が滞在することは無かった。
【人が住めそうだけど住んでいない場所】にはそうなるだけの相応の理由がある。
サロンフランクフルトの場所が街になっていなかったのにはそういう理由があったのだ。
そういう場所にうっかり住んでしまうと後々大変なことになる。
今の俺達のように。
俺の前世世界でもそうだった。
先人が地名などに手がかりを残していてくれたにも関わらず、津波が到達する場所や大雨で土砂崩れするような場所に宅地を造成してしまったことで起きた悲劇は数知れない。
そういうわけで、汚物を含む生活排水が排水路に滞り、風向きによってはサロンフランクフルト全体に悪臭が充満するという事態に陥っている。
無論事態を座視していたわけではない。
排水流路を拡幅して水はけを改善しようと二日前に工事を行った。
工事を担当したのは【小柄を誇り魂を磨く会】メンバーのうちの三人。
一人目が先頭で土魔法と水魔法で土を砕き、二人目が水魔法と風魔法で掘った土を溝の外側に排出。続く三人目が掘った溝の床と壁を土魔法で固めるという【ジェットストリーム溝堀】にて排水流路の拡幅に従事。
彼等は【輝く魂の力】の加護の下、誰も近寄りたがらない排水溝に突入し、土と、水と、時には汚物をまきあげながら長距離に渡る排水溝を拡幅するという難工事をやり遂げた。
サロンフランクフルトの面々は、感謝と、敬意と、ちょっと迷惑な感情をこめて彼らをこう呼ぶ。
【臭い三連星】
彼らの努力が無駄だった訳では決して無いが、拡幅を行っても勾配が少ないという根本的な問題を解決することはできず、汚水は引き続き拡幅された排水路に滞留。
悪臭問題の解決には至らなかった。
昼食の後片付けが終わった午後、食堂棟のテーブルにヘンリー卿、フォード、オリバー、車いす搭乗のジェット嬢が集まってテーブル上に地図などの書類を並べている。
俺はジェット嬢の左後ろの執事的ポジションにて立ってその光景を見下ろしている。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
全員、机の上で頭を抱えて無言。
万策尽きて【お通夜状態】。
今の時間帯は風向きが悪く食堂内にも悪臭が充満している。
こんな日がもう数日続いているので、正直みんな参っている。工場や設計事務所や研究室のほうも状況は同じで体調不良者も続出して生産性も落ちているとか。
ジェット嬢が参っている光景は珍しいのだが、実はこれが一番危険だ。
「焼き払いたいわ」
「やめて!」
昨日、悪臭で滅入ったジェット嬢が滞留した汚水を洗い流そうとして、水魔法で生成した水を排水路に大量に投入。各所で排水路から汚水を溢れさせるという大迷惑をやらかした。
環境管理部隊として排水路整備活動中だった【臭い三連星】が速やかに処理をしたので大事には至らなかったが、メアリにしっかり叱られていた。
叱るメアリも参っているようでいつもより厳しめだった。
そういういきさつもあり、ジェット嬢は、今、極めて機嫌が悪い。
工場建設計画時点で考慮すべきことだったので、領主のヘンリー卿と社長のフォードに責任がある。彼等もそれは分かっている。
分かっているからこうやって並んで頭を抱えている。
必死で考えている。だが、そんなに簡単な問題じゃない。
そして、排水の滞留は悪臭だけの問題ではない。
この世界は水魔法がある分マシかもしれないが、衛生環境の悪化は害獣や害虫の大量発生やそれらによる伝染病の流行等を引き起こすなど、都市生活者にとっては悪臭以上に深刻な問題なのだ。
ジェット嬢が俺を見上げて睨む。
睨んでいるつもりは無いのかもしれないがもとより目つきが鋭いのと、悪臭による寝不足で目の下にクマが出来ているのとで睨まれているように感じてしまう。
「アンタ、なんとかしなさいよ」
俺は青いタヌキ風ネコ型ロボットじゃねぇぞ。
でも、異世界から来た【クレイジーエンジニア】なので、この世界の人間から見たら似たような存在ではあるな。
【期待】されたならそれに応えるのが技術者の義務でもある。
ジェット嬢の後ろ執事的ポジションにて腕を組んで考える。
前世の記憶で使えそうなものが無いか。
ポク・ポク・ポク チーン




