地獄の底
数日後のジョセフ国城。
ベルント国王の寝室、時は夜明け前だ。
まだ薄暗い。
ベルント国王は、何かの違和感で目が覚めた。
とても生臭いにおいが、あたりに漂っている。
そして腕や手に粘着した感触を感じる。
「何が起きているのだ?」
ベルント国王は、半分眠ったまま、自分の手の平をみた。
真っ黒に染まっている。
「何だ、これは?」
そのとき薄手のカーテンから、日の出の光が部屋に差し込み始めた。
真っ黒に見えたものは、真っ赤な血だった。
手のひらが血だらけになっている。
顔面蒼白になるベルント国王。
よく見ると血は腕中にもべったりとついている。
国王は慌てて、掛布団をめくった。
シーツ一面は、血の海になっていた。
背中じゅう、尻にも脚の裏側にも、べっとりと血がまとわりついている。
震える手で、慌ててシーツをまくっていく国王。
そこには、切断された愛犬ブランの首と胴体が放り込まれていた。
切断面は生々しい肉と骨がむき出し。
血が噴き出して赤黒く光っている。
ブランの顔は口を大きく開け、白目を剥いている。
「ひゃあ! 何なんだこれは! うわぁ~ッ!」
ベルント国王は叫んだ。
体が動かない。
「誰かいないか! 誰か~!!」
叫び声が止まらない。
「ブランが! 私のブランがあ~ッ!!」
地獄の底からのような叫び声が、何度も城に響き渡った。
その日の午前、ジョセフ国軍の幹部が緊急招集された。
ショーマはボナパルト帝国・バルナバス中将あての書状を一堂に説明した。
「マリエッタ姫を第2妃として差し出す要求には応じられない。代わりに何かできないか話し合いたい、という内容です」
続いてクラウス将軍が、事件の一部始終を報告する。
「ブランの惨殺体がベルント国王の寝室に投げ込まれた。動物を愛するベルント国王の精神を冒涜する行為だった」
ロシュトー少将もうなづきつつ、言う。
「これはバルナバス中将からの宣戦布告ですな」
それを受けてリベリー中将が発言する。
「マリエッタ姫を差し出せば、そのまま我が国はボナパルト帝国の属国に成り下がる」
さらにこう続ける。
「いずれ戦わなければならない。今、その時が来た、ということです」
すると突然、
「そうだ!」
と声を上げたのはベルント国王だ。
今朝のショックで、ぐったりと生気のない表情だった国王。
ここにきてようやく生気を取り戻した。
小さくもしっかりした声で、こう続ける。
「ボナパルト帝国にまだ、目立った動きはない。明日、軍部の再編を行おう」
ショーマはすぐさまエルヴィン家に戻る。
部屋のクローゼットを開けた。
その奥には漆黒のシャツ、ズボン、ジャケット、サングラスが隠してある。
着替え終わると、すぐさま愛馬・エルマーに乗って、北部の被占領地帯に向かった。
ショーマはリベリー中将から情報を得ていた。
バルナバスが拠点にしているのは北部のテスサローナ軍事要塞。
そこに兵を集め、特殊な訓練をしているらしい。
ショーマはその地へ向かっていた。
テスサローナは穏やかな気候で草原が広がっている。
そこにバルナバスは軍事要塞を作った。
軍事要塞は高い壁に囲まれている。
その内部を見るためショーマは近くにある小高い丘に登った。
エルマーに乗ったまま、木の陰から、要塞の内部をのぞく。
壁の内部には大きな兵舎が作られ、訓練のための広場も設けられていた。
ちょうど訓練場に兵士が並んでいた。
その数は数百名。
それを少し離れた位置から指揮しているのが、おそらくバルナバスだ。
黒髪をオールバックにして、濃い眉毛に頑固そうな眼つき。
身長はショーマよりすこし高そうだ。
金色のマントを身にまとっている。
バルナバスが手を挙げて合図をすると、全員が突撃。
手を下げると、全員が撤退。
よく統制が取れている。
すると突然、バルナバスがこちらを見た。
〈まずい!〉
ショーマはエルマーの腹を蹴る。
緊急発進の合図だ。
手綱も大きく左に方向転換する。
次の瞬間。
バルナバスがショーマに向け腕を振りだす。
必殺の魔術だ。
瞬時に向かってくる青白い光線。
ショーマが隠れていた大きな木に向かって発射されている。
青白い閃光が拡散し、鋭い破裂音が響き渡った。
周囲の木々や草花が、一瞬にして白く固く凍り付く。
バルナバスは次々に光線を発射し、あたり一面を冷たい死の世界に変えた。
そのときショーマは、はるか遠くまで駆け抜け、深い森の中に身を潜めていた。
一瞬早く反応したのと、距離が離れていたことで逃げ切る時間を作ることができた。
エルマーの、ずば抜けたスピードもそれを助けた。
目の前にウィンドウが浮かび上がる。
【魔術攻撃回避力LV 5、魔術圧迫耐性LV7】
確かにバルナバスが使ったのは恐ろしい魔術だった。
〈おそらく「氷劇魔術」だ〉
ショーマはあらためてさっきの光景を思い出す。
射程距離が長く広範囲を一瞬にして氷の世界に変える。
それをしのいだことで、レベルが上がったのは収穫だ。
〈しかし……〉
バルナバスの魔術の圧倒的な攻撃力。
大軍勢も一気に無力化してしまう。
〈どうすれば立ち向かえるのだろう?〉
「なぜ、そんな難しい顔をしてるの?」
聞こえてきた女性の声。
そちらを振り向くと、薄暗い森の中で柔らかい光が浮かぶ。
そこには妖精のような女性がいた。
髪は金色と白色の間のような色合い。
白く透明な肌。
水色の美しい瞳、すっきりとした鼻筋、淡い桃色の唇。
何よりも特徴的なのは、金色の髪からのぞく、上の方にとんがった耳だ。
美しい顔立ちに神秘的な輝きを与えている。
「君は、誰?」
「人に名前を聞くときは、自分から名乗るものよ」
だけど決して責めるような口調ではない。
やわらかな言葉。
彼女がほほえんで言う。
よく見ると、着ている衣装も独特だった。
豊かな胸元がくっきり見える緑色のノースリーブのドレス。
短めのスカートからはほっそりしたきれいな脚が大胆に露出している。
目のやり場に困りつつ、ショーマは目を泳がせながら言った。
「ごめん、俺はエルヴィン・ド・ショーマ。ジョセフ国の軍人です」
彼女が目を見開いた。
「まあ、あなたがショーマなのね?」
「えっ?」
「まさか、こんなところで会えるなんて」
「何を言ってるの?」
「ショーマ、わからないの? 私はリヴィエール・アリスよ」
「えっ!」
今度はショーマが驚く番だった。
この世界に転移する前に”理の番人”が、その名前を教えてくれていた。
「リヴィエール・アリス」という名前を。
それは前世で「安藤聖真」のピンチを、魔法を授けて救ってくれた恩人である。
ショーマが、頭を大きく下げて言う。
「あのときは本当に助かった。ありがとう」
「いいのよ。私もあなたを待っていたから」
「待っていた? なぜ俺を?」
「世界の救世主として」
「救世主?」
「ボナパルト帝国の支配が全世界に及ぶと、人間の心はみな死んでしまう」
アリスはショーマの目をまっすぐに見て、こう続ける。
「世界には、あなたの力が必要なの」
ショーマは思わず目をつぶり、両方の手のひらをアリスに向けてひらひらと動かす。
「俺なんて無理だよ」
焦るショーマ。
しかしアリスはそんなショーマを柔らかな瞳で見守っている。
少し落ち着きを取り戻したショーマは、アリスに聞く。
「アリス、君は今も”理の番人”が教えてくれた通り、一人で戦っているの?」
「一人じゃないわ」
「えっ……。だって仲間は?」
「全員、亡くなったわけじゃない。まだ生きている仲間も、世界のどこかにいるわ」
アリスが続ける。
「それは心で感じられるの。いま顔は見えなくても、また、いつか会える。今日、ショーマと会えたようにね」
ショーマは遠慮がちに聞く。
「親や家族、友達は亡くなってしまったの?」
「みなボナパルト帝国に殺されてしまった。私たちの国のほとんどがね」
アリスはボナパルト帝国の侵略について話す。
「エルフの森から来た渡り鳥が疫病を運んだ、と言って宣戦布告してきたの」
「いいがかりじゃないか!」
「ええ。私たちは話し合いを望んだ。エルフには戦いという道はないのです」
しかしボナパルト帝国は問答無用で攻め込んできた。
「私たちはもう、逃げたり隠れたりするしかなかった」
「そんな民族にボナパルト帝国は殺戮と略奪を行ったのか……」
「私たちには、どうすることもできなかった」
逃げまどうエルフの人々を、帝国軍は容赦なく惨殺していった。
エルフの森は血の海で染まっていった。
そして森を焼き討ちしていく。
「あんまりだ……」
ショーマは手で顔を覆う。
それでもアリスの家族をはじめ一部のエルフは森の奥へと身を潜めた。
そこには外部の人間には認識できない秘密の小さな森があった。
だがエルフの大半を殺戮した帝国軍は見逃さなかった。
森の全域を掃討し始めたのだ。
ボナパルト帝国軍は主力の魔術戦士を投入した。
その一人が、土と砂を司るソイル・コマンダーだ。
「サイドワインダー!」
詠唱を行うと、その恐るべき探知光線がエルフの森に放たれていく。
その波動は這いまわるように全域を捜索する。
そして最後のエルフが隠れる秘境も見つかってしまった。
続いてもう一人の魔術戦士・フラッディ。
海と水を司る男だ。
エルフの秘境の前に立ち、攻撃態勢に入る。
アリスの両親は彼女に叫んだ。
「『空の祠』に逃げなさい」
アリスは泣きながら言う。
「イヤよ! パパとママと一緒にいる」
「いいから行くんだ!」
アリスの父は力づくで、アリスを『空の祠』の入口に押し込んだ。
他のアリスの家族も子供たちを『空の祠』へ避難させる。
帝国軍の魔術戦士・フラッディが手の平をエルフの秘境に向けて突き出す。
「メガ・アトランス!」
詠唱とともに恐ろしい津波が天から降ってきた。
あっという間に隠れていたエルフの秘境を飲み込んでいく。
外から見えなかった森の姿が洪水によって浮かび上がる。
木々と共に津波に飲み込まれていくエルフの人々。
断末魔の悲鳴が上がる。
「ママ! パパ~!!」
「死なないで!」
エルフの子供たちは空の祠で涙と共に絶叫を上げていた。
しかし願いはむなしく、津波がすべてを飲み込み、すべてを彼方に流していった。
アリスの目から大粒の涙がこぼれている。
ショーマも目からあふれるものをこらえきれず、それをぬぐいながら言う。
「つらいことを、話してくれてありがとう」
アリスが言う。
「私たちは、あのとき、何もできなかった」
だが彼女は、力強く前を向く。
「でも、今は違う」
アリスが、ショーマを見つめて言う。
「あなたの存在を私は知ることができた。ショーマを助けることで、私は戦うことができる」
それを聞いて、ショーマがうつむいて言う。
「俺はやはり、戦わなくてはいけないのかな」
アリスが、ショーマの手を握って言う。
「すべては、あなた次第なのです」
そう言われてしまったショーマ。
逆にアリスにすがりつくような目で、彼女に言う。
「だとしたら、あなたもジョセフ国軍と同行してもらえませんか?」
しかしアリスは首を振りながら言う。
「それは無理です」
「なぜ?」
「エルフは森と離れて生きることはできないのです」
ショーマは肩を落とす。
しかし、懸命に笑顔を作り直して、言う。
「ごめん。そうだったね。エルフは自然と豊かさを司る民族だったね」
「ううん。でもあなたに私の助けが必要になったときは、私のことを心で呼んで」
「わかったよ」
「その時、私は必ず現れるから」
「ありがとう。頼りにしている」
ショーマはエルマーと共に、エルヴィン家への帰途に就いた。




